二次元の理由

 久々の更新です。
 ちょっと長くなりますが、引用はシダ氏のこちらの記事より。

 取り敢えず僕のコメントから脱線、混乱した部分を除いて要約すると「やおいヘテロ女子のファンタジーであり、それ故にカップルは『非・女性』である必要があった。その結果『男性同士』のカップルという様式が確立された為、ゲイと似たものに見えてしまうことがあるが、実際のゲイとは一切無関係である」ということ、また「やおいを楽しむ視点は『半メタ』であり、読者はカップルを俯瞰で眺めつつ、状況に応じてどちらにも『適度な』感情移入を行うことができる」といったところ。で、此処までは我々(まりねこ氏と僕)の間で『やおい(或いは801)』という概念の共有ができたのではないかと思っている。

 じゃあそれで終わりでいいじゃん、とも思ったのだけれど。この部分だけ。
 以下はまりねこ氏の最後のコメントから抜粋したもの。
 まー、ある程度、生身の恋愛関係が上手くいき始めると、801なんかどうでもよくならないかな?電波男以降、ワラワラとカミングアウトしてきた二次元萌えの男たちと同じように、三次元で充実できるようになると、いらなくなるような気がするのね。
 いや、多分ほぼ正解だと思う。実際に調べた訳ではないけれど、大半の腐女子は或る程度のところで『卒業』するものなのかな、とも思う。
 じゃあ結局僕は何に拘っているのか?

 基本的に認識は共有されている(筈だ)。違うのは、たぶん、立場。というか、立ち位置……重心の置き処というようなもの。まりねこ氏は『大人』の側にいる「三次元で充実できるようにな」って、やおいは「いらなくな」って、『卒業』したのではないだろうか。僕はそうじゃない。僕は『卒業』していない、その違いのような気がする。

 「やおいを楽しむ視点は『半メタ』」であるという指摘は概ねその通りだと思います。ただ、シダ氏(とまりねこ氏)には一つ大きな事実誤認があります。生身の恋愛関係ができるようになっても、あるいは結婚しても、やおいを続ける女性はいくらでも居るんですよ。

 これは以前にもこの記事で述べた通りで、二次元萌えと三次元恋愛は基本的に「別物」だからなんですね。しかしながら、まりねこ氏のように「三次元で満たされていて、二次元には興味ない」人にとっては、なぜ敢えて二次元を欲するのか、そのこと自体が理解し難いのではないかと思います。今回はこの「なぜ『半メタ』でなければならないのか?」という点をもう少し突っ込んで見てみましょう。



 まずは以前の記事で述べたことを再掲します。

わざわざ三次元と比較しなくとも、二次元には三次元にない独自性があります。それは「やおい」というジャンルを考えればすぐに分かる話で、「自分が含まれない世界で、キャラ同士の関係性に萌える」というのは三次元(現実の相手との一対一での関係)では構造的に不可能なんです。
「それは腐女子だけの話じゃないか」と言われるなら、ヘテロ男性には「百合」というジャンルもあります。

やおいや百合に限らず、二次元のキャラ萌えは基本的に全て「自分のいない世界」での話です。「生身の自分を捨象して萌えられる」という点はやおいに限らない二次元一般の特徴でしょう。

 重要なのは「生身の自分を捨象」する、という点です。三次元の恋愛がどれだけ素晴らしいものであろうと、そこでは必ず自分自身の生身の肉体を関わらせなければならないんです。三次元では自分の肉体から逃れることはできません。

 特にやおいや百合ジャンルにおいて顕著ですが、二次元萌えの人の多くは、自分の性別や肉体に対する嫌悪感を多かれ少なかれ持っています。これらの嫌悪感は、現実の恋愛や性行為によって必ずしも消えるものではありません。そういった人にとって、現実の恋愛は性的承認の手段として不充分であるわけです。ROSFの鳥山仁氏は、このような人達の傾向を「セクシャルアイデンティティの不一致」と呼んでいます。要は、自分の身体の性的側面に対して肯定的なアイデンティティを持てないということですね。

 自分の性別や肉体に対して嫌悪感を持ちながらも、現実と適当に折り合いをつけていくことで、現実の恋愛や結婚をしていく人達は数多く居ます。セクシャルアイデンティティが不一致のままでも、「生身の恋愛関係」をうまくやっていくことは可能なんですね。そうした人達が「生身の恋愛もいいけどやっぱり萌えも捨て難い」となるのは、そんなに不思議なことではないでしょう。
 ヘテロ女子の萌えの対象としてやおいが選ばれやすいのも同様に考えることができます。セクシャルアイデンティティの不一致な人は、世間的な性愛の形(ヘテロセクシャル)に対する違和感を持っていることが多く、やおいに萌えることでヘテロ的な性愛形式を捨象して萌えられるわけです。

 まりねこ氏のように、知らない人からやおいが「三次元で充実できるようになると、いらなくなる」ものと思われがちなのは、やはり三次元の恋愛が他の性的承認に勝る価値があるという「性のヒエラルキー」意識のためでしょう。しかし、三次元の恋愛も数ある人間関係のパターンの一つでしかなく、それが至高の性愛の形式なわけではありません。「やおい」に合う人と合わない人が居るのと同じように、「恋愛」という形式にも合う人と合わない人がおり、その程度も人により様々なんです。