性規範と「差別の内面化」

 前回の記事を受けてのBLUE PINK氏の記事への返答です。

自分が普通の人間だと思っている人は自分が普通の幸福が得られないことをそう簡単に納得できない。これ自体、他人に暴言吐いたりしない限り悪いことじゃない。

 もちろん納得できればちょっとは幸せになれるでしょう。でもそれを普通の幸福を享受する人間から言われたら余計こじれるだけ。じゃあ、てめぇも同じ状況になってみろよ、と。

 性規範から自由になれ、っていう前に、まずその規範が与える強迫性を考えるべき。「恋愛は男女間が当たり前」という性規範に漏れたゲイなんかに、「男女の恋愛に固執するから不幸なんだよ。すなおに今の状態を受け入れることでもっと自由になれるよ」なんていったら怒るだけでしょう。受け入れずらくしてるのは誰なんだよ、と。

 規範が与える強迫性というものは確かにあるでしょう。そして、それが「規範に従わなければ社会的承認を与えない」という形でなされる、という点にも同意します。

 しかし、ここで「実際に社会的承認が得られない」ことと「社会的承認を得られないかのように思い込む」こととは、区別して考えなければなりません。前者は現実的な差別であり、後者は「差別されているという思い込み」です。後者が前者によって引き起こされ、前者と後者がどちらも存在する場合でも、あくまで両者は別物です。

 両者を峻別しなければならない理由は、「差別」と「被害妄想」を混同させてしまうと、「差別」の実態がきちんと掴めなくなってしまうからです。ミソジニーに陥っている非モテ男性の多くは、過去に女性に差別的扱いを受けた経験を持っています。そこまでは(彼らの記憶を信用する限り)「現実」ですが、「全ての女性が同様に自分を差別するに違いない」と考えた時点で「被害妄想」になるわけです。

 「男女間の恋愛を当然とする性規範」についても同じことが言えます。この性規範自体がそもそも問題であることはもちろんですが、「性規範に乗れない自分がおかしいんだ」と思い込んでいる状態と、「性規範に乗れない自分はおかしくないが、規範を強要しようとする周囲の人間が鬱陶しい」と思っている状態とでは全然違うわけです。

 BLUE PINK氏の議論は、この辺りを混同している気がするんですね。「非モテ」問題を同性愛者差別と同様に捉えるのはちょっと無理があります。同性愛者差別において問題なのは「同性愛者自身が男女の恋愛に固執する」ことよりも「男女の恋愛に固執している人々に抑圧される」ことであるはずです。「すなおに今の状態を受け入れろ」という助言が無効なのは当り前です。
 しかし「非モテ」の場合は、(「ラブハラスメント」という形での抑圧とは別に)「男女の恋愛への強迫」という問題が大きく存在しているわけで、これを無視するわけにはいきません。あくまで「ラブハラスメント」とは別個に考えなければならない問題です。
(同性愛者の間でも「非モテ」と同様の問題が全くないわけではないでしょうが、「非モテ」の方がずっと顕著であろう、ということです。)

 BLUE PINK氏やkiya氏が「ラブハラスメント」や「ヘテロセクシズム」に焦点を当てて「非モテ」を考えておられることは推察できますし、それはそれで正しい捉え方だと思うんですが、だからと言って「差別の内面化」の問題を無視して考えるわけにもいかない、と私は考えています。性規範に関する「差別の内面化」は「非モテ」以外にも様々な方向から考えられるので、いずれまた別の機会に考えてみたいと思います。