「臆病さ」の背後にみえる「恋愛の規範性」

 前回の記事と関連して、転叫院氏が「草食系男子」に関する話題に言及しておられる記事が面白いので、ちょっと取り上げてみます。

  • 本当のところこの21世紀に起こっているのは、リスクが可視化されたことによって、男性の側に自己防衛する選択肢が与えられた、ということだと思う。
  • つまり、「異性に対して積極的でない男性」の次の一手は、虚勢を張ったり「自分は優しすぎるから」などとエゴイズムを正当化したりすることではなく、「勇気を持たないのは正しいリスク低減である!」と言うことだと思うのだよね。
  • 男女交際の社会的リスクはまず3点。民事訴訟の対象となるリスク、刑事訴訟の対象となるリスク、社会的信用を失墜させるリスク。これらのリスクが後期近代において可視化されたことにより、「積極的に異性に働きかけない」という形でのリスクヘッジも可能となった。これが欧米とかだと"rule girls"みたいな形で現れる。これは保険や「リスク分散型商品」が流行るのと同じ理屈。
 ネタバレしますと、昨日の「異性に対して積極的でない男性」についてのエントリーの裏の意図は本田透とか精神論タイプの非モテ論をDisりたいという部分にありまして、「真実の愛が」とか「非モテこそが本当に女性に優しいのに」とかいう話は、まさしく20世紀末の恋愛至上主義の生んだアダバナではないか、と思うんですね。どうして彼らはああもマッチョイズムを批判しつつ、自分の臆病さは糊塗しようとするのかと、臆病さを糊塗するのはマッチョイズムのはじまりじゃないかと思うんです。
(中略)
 自分の場合「女の子が怖いんですよね。なんか喋ってても酷い失言とかしちゃわないかと思うので……」というようなことを、多少なりともカミングアウトするようにしたら、男女交際の話題が出るような会話でもそこそこに、緊張しないで済むようになりました。リスクは二つあって、一つは社会的なもの、もう一つは(男性本人の)心理的なものですね。ただ、この二つの線引きは勘違いすると大変なことになるし、社会的なリスクの方を侵すのは危険が大きすぎる。だから、社会的に何が本当のアウトなのか、というのは今後明文化・可視化されていくだろうし、「臆病系男子」にとってはそういう社会のほうが(必要以上にリスクに怯えなくて良い分)生きやすくなるだろう、と思うのです。

 まず「(恋愛や性愛関係に対して)臆病であることは悪くない、むしろ合理的である」という視点、特に「なぜ臆病になるのか」に関しての分析はこれまであまりなかったのではないかと思いますので、その点ではなかなか面白い考察だと思うんですね。似たような視点の考察としては、私の知る限りでは鳥山仁氏の乱交パーティのリスクについての考察があるくらいです。

 ただ、視点は面白いし、本田透氏のような「真実の愛が」とか「非モテこそが本当に女性に優しいのに」という類の非モテ論については同感なんですが、肝心の「なぜ臆病になるのか」という分析にはあまり説得力を感じませんでした。転叫院氏の分析は「恋愛や性愛に対して臆病である」ことに対して合理的な説明をつけようとしすぎているきらいがあるように思えます。恐怖や嫌悪感というのは、必ずしも合理的に説明のつくものではないし、合理的に説明しなければ困るというわけでもありません。
 この転叫院氏の記事は一般論としてではなく、転叫院氏自身の恋愛観・性愛観が強く滲み出た「語り」として読むのが妥当だと思います。その上で、「臆病であること」や「恋愛関係」そのものについて、もう少し深く突っ込んで考えてみたいと思います。



 転叫院氏は最初の記事で「恋愛の社会的リスク」を三つに分けて述べておられますが、これらは後の追記記事で簡単に一つにまとめられています。

僕が思うのは、せっかく可視化されたのだから、その「臆病系男子」にとって生きやすい社会のあり方をガチで模索できないだろうか、ということです。友人に関しては、自分のコンプレックスによるバイアスがかかっているかもしれませんが、異性相手のほうがハラスメントの加害者になってしまうリスクが大きいと思ってます。「異性へのハラスメントの加害者」というのはかなりの社会的リスクだと思いますので。
(太字は原文ママ

 私はこの記述に一つの違和感を覚えました。ただ普通に喋っているだけで、「深刻な社会的リスクとなりうるような」致命的な性的ハラスメントになるということが、そんなに起こりうるでしょうか? 確かに、意識していなくても性に関して相手が不快になるようなことを言ってしまうこともあるかもしれません。ですが、注意されても何度も似たような発言を執拗に繰り返したならともかく、指摘されて謝罪した場合、そんなに大きな社会的リスクになるとは思えません。
 転叫院氏とは、去年の二月に京都でのシロクマ氏を囲むオフで直接お会いし、お話ししたことがあります。その時の私から見た氏の印象は「非常に気を遣って丁寧な話し方をされる方」というものでした。そのことを考え合わせてみても、やはり「ハラスメントの加害者となってしまうリスク」は取り越し苦労ではないか、と思えてきます。

 しかしそもそも、「ハラスメント」は恋愛関係の中で特別起こりやすいというものではありません。性的なハラスメントはヘテロセクシャルの同性間でも起こり得ますし、実際に起こっています(「非モテの苦しみとは何か?」参照)。むしろここは「ハラスメント」だからおかしいのであって、恋愛関係の中で生じやすい別の何かをあてはめて考えた方がいいかもしれません。そうだとすると、転叫院氏の言う「臆病さ」の別の側面が見えてきます。



 恋愛関係とは何か、ということを語ろうとすると、すぐさま「恋愛は人によって意味するところが多様だから一概には言えない」という(それ自体は非常に正しい)指摘が飛んできます。ですが、この指摘を無条件に認めてしまうと「恋愛」について何も語れなくなるばかりか、「恋愛関係」と他の「友人関係」などの関係性との区別もつかなくなってしまいます。現実に「恋愛」は「友人」その他の関係性とは明確に区別して使われている以上、「どのように区別されているか」はきちんと考えてみなくてはなりません。
 「恋愛」は他の関係性とどのような点で異なるか。それはすなわち、「恋愛関係においては何が許されて、何が許されないのか」という規範性の問題です。重要なものを幾つか挙げてみます。

    • ただ一人の相手を特別な相手とし、異なる相手との間で同時進行してはならない。(相互独占規範)
    • お互いの弱みや甘えを適度に開示し、また受け入れなければならない。(相互依存規範)
    • お互いに「好きであること」を何らかの形で相手に示し続けねばならない。(愛情表現規範)

 これらは、友人関係など恋愛以外の関係性では要求されないか、またはあまり重視されない要素です。
 このような書き方をすると、まず「『恋愛』とはそんなに狭いものではない」という反論がやってくるでしょう。もちろんその通りで、実際の恋愛関係では二股や不倫もありますし、恋人同士だけどお互いにあまり甘え合わない人達も、愛情表現をあまりしない人達も沢山いるでしょう。しかしながらそれらは「好ましくない恋愛」とか「恋人らしくない」などと見做され、場合によっては「本当の恋愛ではない」などと言われたりします。例えば、「二股」という言葉が好ましくない意味で使われ、「本当の恋愛」からの逸脱と見做され、当人達自身もそのことを了解した上で行動しているということ、それらの状況全体が「相互独占規範」が確固たる規範であることの証明です。
 またあるいは、これらの規範性の指摘が「本末転倒だ」という反論があるでしょう。規範があるからそのような行動をとるのではなく、「愛」故に自然とそのような行動として発露するのであり、順序が逆だ、というものです。これも特に否定はしません。愛していれば自然と他の人には目がいかなくなるし、甘えたり甘えさせたくなるし、愛情表現したくなるもの、確かにそうなのでしょう。しかし、あなたにとって仮にそれらが「自然な」ことであったとしても、あなた以外の誰かにとっては、もしかしたらそうではないかもしれません。それでもあなたは言うでしょう。「他の人を同時に好きになるなんて、それは本当に『好き』なんじゃない」「好きだからこそ、甘えたり甘えられたりしたいはず」…と。さらに、それらのセリフがもし、あなたが他の誰かに呼びかけたものではなく、あなたがあなた自身に対して問いかけたものだとしたらどうでしょうか?

 話を戻しましょう。「恋愛」を私達が「恋愛」として他の関係性から区別する限り、これらの「規範性」は否応なくまとわりついてきます。これらを明確に意識して初めて「臆病さ」をきちんと捉えることができます。「臆病さ」とは社会的なハラスメントの加害者となってしまうリスクなどではなく、「恋愛の規範性」が暗に要求する「自然な」感情の発露にうまく乗れないことへの恐怖、と考えられます。
 別の言い方をすると、「臆病さ」とは「恋愛的相互依存への恐怖」です。恋愛関係の破綻の場面などにおいてよくある「傷つける・傷つく」ことの一つは、「相手が本当は自分を愛していなかった(または愛さなくなった)」という「気付き」です。これは「ハラスメント」ではありませんが、「女の子が怖いんですよね。なんか喋ってても酷い失言とかしちゃわないかと思うので……」という転叫院氏の言葉とよく合います。これは「期待を裏切られた」という「傷つき」ですが、単に期待に反したというだけならそこまで深く傷つくことではなくても、「恋愛の規範性」があるからこそ「自分は愛されていなかった」ということが深刻な「傷つき」になりうる、ということです。(そしてそれは、「恋愛の規範性」があるからこそ「自分は愛されている・愛している」という特別な充実感を得ることができる、ということでもあるんです。)

 さて、これらの解釈が正しいとするならば、転叫院氏が引き合いに出した自動車保険のような「恋愛のリスクヘッジ」は残念ながら期待できないことになるでしょう。「愛」とは「自然な感情の発露」であり目的論的に構築されるものであってはならない、ということが「恋愛の規範性」の中には含まれているからです。そして、それらが「規範性」である限り、社会の小集団内で倫理的に糾弾されるような意味でのリスクを避けることは難しいでしょう。
 ただ、最初に述べたように、これらが深刻な社会的リスク(訴訟など)に繋がることは(不倫などを別にすれば)あまりないと思いますから、そのあたりは楽観視してもいいんじゃないかな、と個人的には思います。それよりも、ここで述べたような「恋愛の規範性」が、あまりにも自明なものとして「規範」として意識されずにいることの方が、私にとってはずっと重要な問題です。

 「臆病であることは悪くない」。全くその通りだと思います。が、問題は自分達の「臆病さ」をいかにして語りうるか、ということだと思うんですね。転叫院氏の記事はそうした「語り」の試みの一つだと思うのですが、最初に述べたように、やはり拙速に整合性を求めすぎていると思えたので、このような解釈を加えてみました。「臆病さ」を名指されている人達自身の「語り」のために、何か示唆になるところがあれば幸いです。