『倒錯の偶像』と思想家がもたらす女性蔑視

 墨東公安委員会氏の記事に対して言及した前回の記事に対して、墨東公安委員会氏から次のようなお返事をいただきました。
 さて、烏蛇さんのご指摘は、小生が「『萌え』文化の本質はミソジニーである」という主張をしており、それは飛躍である、ということかと思います。しかし正直なところ、これは小生としてはいささか本意ではないのであり、弁解させていただければと思います。

 先の記事に寄せられた数多くの言葉を読みながら、小生が喉元まで出かかっていて、でも「それをいっちゃあオシマイよ」と抑えていた言葉があります。それは

「『倒錯の偶像』読んでから来い」

 です(苦笑)。
(中略) 小生が「萌え」表象の日本社会への浸透に、社会におけるミソジニーの瀰漫(これの一展開が「日本会議」の成長と影響力の増大です)を読み取ったのは、ダイクストラ『倒錯の偶像』が19世紀西洋を舞台として描いた構図を、21世紀の日本にも応用できるのでは、と考えたことが最大の要因なのです。残念ながら烏蛇さんは、小生のその論点をあっさりと閑却され、「墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)」とされています。しかし「フェミ嫌い」や「権威主義」が目に付くのはあくまでも補足であって、一番の理論的根拠はダイクストラに求められているのです。

 これは至極尤もな反論ですので、私の方でもブラム・ダイクストラ著『倒錯の偶像』を入手して通読しました。その上での私の結論を先に言うと、「墨東公安委員会氏の記事のような結論が『倒錯の偶像』の記述から導き出せるとは到底思えない」というものでした。なぜそう思ったのかをこれから述べていきますが、その前に、このブログの読者の多くが未読であろう『倒錯の偶像』の内容と主題について、まず説明しておく必要があるでしょう。(私の説明が妥当であるかは『倒錯の偶像』を実際に読んだ上で判断していただくしかないのですが、その点はご容赦ください。)



 ブラム・ダイクストラ著『倒錯の偶像』のAmazonのページを参照しますと、紹介文は次のようになっています。

 一世紀前の上流階級の人々が抱いた、危険な幻想であふれんばかりの書。映画やコマーシャルの世界に氾濫する女性イメージの起源を世紀末絵画のうちに読み解き、三百枚を越す数多くの珍妙な図版を収録する。

 しかしながら、これは(間違いではないものの)やや偏った説明です。確かに本書には多くの19世紀〜20世紀初頭欧米における絵画の図版が収録されており、それらの分析にページが費やされているのですが、当時の文学作品や演劇についても数多く取り上げられており、視覚的な分析のみの本ではありません。それに何より、当時の知識人(思想家・科学者・医師など)たちの著作の社会への影響について詳細に取り上げられており、むしろこちらが主題と言ってもいいくらいです。
 著者の目的は19世紀〜20世紀初頭の絵画作品の珍妙さをあげつらうことではなく、それらの作品が制作された思想的背景を明らかにすること、それらの女性蔑視的な思想の源流が誰のどのようなものであったかを論じることであると私は考えています。そこで、本書で取り上げられている「思想」の流れをごく簡単に追ってみましょう。

 ヨーロッパにおいて、19世紀における女性の地位は17〜18世紀に比べて大きく後退した、と著者ダイクストラは言います。その入り口となったのは、資本主義経済の発展に伴って「商売人が道徳的な危機に晒される」(つまり、商売の世界に関わり続けると道徳的に堕落する)という議論でした。この「問題」に対する処方箋として幅を利かせ始めたのが「商売人の『魂の保護者』として『家庭』が必要であり、そのために女性は夫に献身するべきだ」という思想だった、というのです。この思想は19世紀半ばにジュール・ミシュレオーギュスト・コントらによって盛んに唱えられ、「道徳的堕落」という「不安」を煽ることによって(主に上流階級に)浸透していきました。この思想は次第にエスカレートし、「病弱な女性に道徳的価値がある」という風潮にまで至ります。
 19世紀後半には、これらの風潮に反発する形で女権拡張運動が高まっていきますが、それらを押さえ込むような思想も盛んに唱えられるようになります。特に、「科学的装いを持った、性欲を極度に危険視する」思想が目立つようになりました。すなわち、女性の自慰行為を破滅的なものと捉え、女性から男性への性的誘惑や要求を忌むべきものとするものです。これらは女性を「より自然的で原始的」と見做す発想へと繋がっていきました。性的な快楽に耽溺することは原始的・動物的であり、女性はそのような「誤った」方向へ流されやすい(ので理性的な男性が禁欲と母性へと導かなければならない)というわけですね。
 さらに、チャールズ・ダーウィンの進化論から派生した社会ダーウィニズムが、女性蔑視に拍車をかけることになります。強い影響力を持った社会ダーウィニストの一人であるハーバート・スペンサーは、「性差の拡大は進化論的成長の証」であり「女性の成長は原始的な段階で留まっている」のだと主張し、「女性は原始的・動物的」とする思想にさらなる科学的装いの権威付けを与えました。

 ダイクストラは、こうした女性蔑視的思想が当時の若者たちにどのような影響を及ぼしたのかについても、日記・エッセイなどの資料から詳細に分析しています。例えば、19世紀末から20世紀初頭にかけての欧米の若年男性は、女性蔑視的な「科学的」言説と現実の女性との大きなギャップ、それに長く続いた性欲危険視の思想による性教育の欠如に苦しめられ、それがどのような絵画・文学作品の傾向に繋がったか、といった調子です。
 そうした作品解釈の部分には、ちょっと無理があるのではと思えるようなものもいくつかあります。しかし、女性蔑視的な思想の源流と蔓延の流れを把握するには十分すぎるほどであり、また、科学的な装いの差別的思想の危険性を改めて感じさせてくれる点でも意義深い本だと私は思いました。



 さて、墨東公安委員会氏の記事に戻りましょう。大元の記事では、『倒錯の偶像』の内容が次のように紹介されています。

複雑化・高度化する社会で、安楽を求めた男どもがミソジニーに走り、さまざまな(擬似)科学を総動員してそれを正当化しようと躍起になっていた、という歴史的な先例が存在しているのです。であれば、ミソジニーを軸とした運動が何となく社会に受け入れられ、そこではおよそ学問的には誤った「歴史修正主義」が横行しているというのも、同様の事例であると考えられます。
 その先例とは何か――といえば、当ブログを長年読んでいただいている方でしたらまたかと苦笑されそうですが、それは第一次グローバリゼーションとも呼ばれる、19世紀での西洋でのことでした。19世紀西欧のミソジニーについては、ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』という本が、主として絵画に描かれた女性像を題材として、詳細に論じています。

 この説明には、違和感の感じられる点があります。それは、女性蔑視を煽る思想を流布し、権威付けしてきた思想家・知識人たちの存在が曖昧にされていることです。ダイクストラの議論においては、「誰が、どのように女性蔑視に繋がる理論を構築してきたのか」こそが中心的な論点であるにも関わらずです。その結果、「複雑化・高度化する社会で、男どもがミソジニーに走」ったのはなぜなのか、がこの紹介からでは分からなくなっています。
 さらに、墨東公安委員会氏は大元の記事の反響に応える解説記事中で、次のように述べています。

 つまり、単に「オタク」な人が反動だとかなんだとかではなく(前記事でも「日本会議=オタク、ではない」と述べました)、今世紀の日本社会でミソジニーの滲出する状況があり、それがある面では日本会議の影響力の巨大化を、またある面では「オタク」的表象の瀰漫をもたらしたのではないかと、ダイクストラ『倒錯の偶像』を補助線として考えたというわけです。言い換えれば、「オタク」文化の「萌え」美少女表象自体がミソジニーなのでは必ずしもなく、本来マイナーであったそれが、社会に広く受け入れられている状況にミソジニーの反映が見られるのではないか、ということです。

 『倒錯の偶像』でなぜ19世紀当時の絵画や文学作品が数多く取り上げられ分析されたかといえば、「それらの内容と、当時の女性をめぐる社会的状況との関係を考察するため」でした。ダイクストラが絵画や文学作品の表現内容のみを見て19世紀当時の社会状況を論じたわけではないことは既に述べました。当時の日記やエッセイなどの資料とも突き合わせて、作品の内容が当時どのように受容されていたか、どのような背景で描かれたものかを分析しているわけです。
 「『萌え』美少女表象自体がミソジニーなのでは必ずしもない」のであれば、それはダイクストラの議論の文脈から大きく外れていることになります。墨東公安委員会氏は「『萌え美少女表象』の内容が社会状況をどのような形で反映しているか」について何も語っていません。

 このように墨東公安委員会氏の議論は、重要な点でダイクストラの議論と決定的にずれています。その結果、氏の議論の展開は、ダイクストラとは正反対とも言えるところに着地してしまっているように思えます。

「オタク」の一般化・大衆化は、本来マイノリティであったオタクが自己の趣味嗜好を正統化するために行っていた理論武装を、放擲させるようになっていったと考えられます。本来子供のおもちゃで「下らない」存在だったはずのマンガやアニメ、ゲームにあえて耽溺するのは、それがこんなにも面白いからだ――と主張する必要があり、さてこそそこでテクストを面白く読みこなす技能が求められたのです。オタクは読み巧者であり、だから面白かったのですね。
同じ淵源に端を発している可能性のある、日本会議的な反動と、「萌え」表象の浸透拡散については、ミソジニーの他に、体系化を軽んじて、目前の自分にとって好ましい衝動の断片をかき集めて、オカルト的に世界を構築する傾向にあるのではないか、そう小生は考えています。その背景には、冷戦後の「大きな物語」の喪失という毎度ながらの話はやはり無視できないですし、教養という一身を超えた普遍的な存在への敬意が失われていることもあるのでしょう。

 ダイクストラの議論に従えば、「自己の趣味嗜好の正統化(正当化)のための理論武装」は、まさしく19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの思想家・知識人たちが行ってきた女性蔑視的思想の強化・権威化の過程そのものです。「自分達が普段触れている女性表象(絵画や文学)」を自明とした(根拠になりえないものを間接的に根拠とする)論理構築こそ、女性蔑視的思想とそれを背景とした表現との間の相互に強化しあう関係を生み出したものでした。
 「教養」もまた、女性蔑視的な思想の正当化/正統化におおいに貢献しました。科学的理論という装いを与えられることで、女性蔑視的な思想は身につけておくべき「教養」として権威付けられ、当時の女権拡張運動にとっての大きな壁となったからです。

 「オタクはかつて読み巧者であった」という言説がどこまで妥当であるか、「オタク」の歴史にあまり明るくない私には判断できませんが、ダイクストラを踏まえて、少なくともこれだけは言えるでしょう。「読み巧者」であることや「教養主義」は、差別的思想を跳ね返すよりも、むしろそれを強化するものとして利用され得ます。もちろん、「読み巧者」であることそれ自体が差別的であるということには全くなりませんが、「自己の趣味嗜好の正当化/正統化のために社会を語る」ような人たちは、社会を大きく歪めて語ってしまう可能性が高いと思われます。



 いずれにせよ、墨東公安委員会氏の「『萌え美少女表象』が社会に広く受け入れられていること」が「社会に蔓延するミソジニーを背景としたもの」であるという主張は、『倒錯の偶像』におけるダイクストラの議論からは全くかけ離れており、ダイクストラを論拠と見做すことはできません。

 墨東公安委員会氏の理路の欠点の一つは、「社会に蔓延するミソジニー」という言葉で具体的に何を問題にしようとしているのかはっきりしないこと、にあると私は思います。ダイクストラの議論では、「当時の女性蔑視思想の何が問題であったのか?」という問いには「女性蔑視思想の権威化による女性への抑圧」「女性蔑視思想と現実の女性とのギャップに苦しむ若年男性」と明確に答えられます。しかし、墨東公安委員会氏はその点が曖昧であり、「ミソジニーの具体的に何が悪いのか」「『萌え美少女表象』が広く社会に受け入れられているとなぜ悪いのか」と考えると、何が問題になっているのかが今一つよく分かりません。そして、何を主要な問題として具体的に設定するかによって、議論の流れ自体が大きく変わってくるはずです。
 19世紀ヨーロッパの女性蔑視的思想家たちの理路の欠陥の一つも、この点にあったと言えるかもしれません。コントやミシュレの議論における「道徳的堕落」とは具体的に何がどのように問題だったのか。「性欲や自慰行為の危険性」とは一体何だったのか。「進化論的成長」が阻まれるとどのような問題があるのか。どれも、一歩踏み込んで考えると「何が悪いのか」が曖昧であり、ただ何となく「悪そうな気がする」ようなものばかりです。

 墨東公安委員会氏に限らず、「オタク」「萌え」などに言及する議論には「何が主要な問題なのか」が曖昧にされたまま議論されているものが少なくないように思います。「何を主要な問題として論じているのか」を、今一度立ち止まって考えてみましょう。19世紀の「女性蔑視思想を振り撒いた思想家・知識人」たちと同じ轍を踏まないために。