「非モテ」の変質と電波男

 だいぶ間が空きましたが、前回の続きはひとまず置いて別の話を。  引用は2chネットウォッチ板からです。

938 名前:名無しさん@ゴーゴーゴーゴー![sage] 投稿日:2006/01/28(土) 10:48:35 ID:8LkrQ/sV

非モテって言葉の源流はそりゃあ「ろじぱら」あたりのネタ系テキストサイトなんだけど、 少なくとも今のネットは電波男以前からああいうのが人気を得れる時代ではとっくになくなってる。
当時はエロゲレビューとかやってるサイトがネット大衆文化の主流派大人気サイトになれたんだぜ。
そんでその後の非モテ系は細る一方だったじゃん。今とは時代が違いすぎる。

そもそも、ああいう自虐ネタの発達はネットにいるのが男ばっかりだからこそ実は成り立ってた。
2chでも、「ネカマ?」って切り返しが当たり前に通用した世界。
女の本音がそのままblogなどで垂れ流され、2chも女率が上がった今となっては土台無理なんだよ。
だからそんな懐古はナンセンスだ。


 比較的最近になってネットを始めた人はご存知ないでしょうが、「非モテ」という用語はもともとはお笑いネタ系のテキストサイトにおける「芸風」の一つでした。それがどんなものだったかは、クリスマス殲滅委員会(1999年)などにその片鱗を見ることができます。

 当時の「非モテ系」は、「自分がいかにモテないか、女性に嫌われているか」を面白おかしくネタにするという「自虐芸」だったんです。このような芸風が成立するためには、「クリスマスにネット見てるような輩は(自分のように)モテない男ばかり」という暗黙の前提を、演じる側も見る側も共有していることが必要でした。こういう意味での「非モテ系」ネタは今でも時折使われますが、万人に通用する「ネタ」としては難しいでしょう。自虐芸は、見る側と演じる側の前提が違いすぎるとそもそも理解できませんし、もちろん軽く共感しつつ笑うということもできないわけです。そして上記の引用のとおり、現在の(日本の)ネットユーザーはこのようなネタが通じない程度には多様化していると言えます。現在の「非モテ」は文字通り「恋愛(交際)経験がなくモテない」人の自称として専ら使われています。

 ここで注意すべきなのは、現在の「非モテ」と過去の「非モテ系」との断絶ではなく、その連続点です。

 「もてない男」や「電波男」の読者であれば、またネット上での非モテ系blogや2chのモテない男性板を知っている人なら、現在の非モテが非常に恋愛に消極的で、かつ自虐的であることをご存知でしょう。私も幾つかの非モテ系blogで「モテるためにはこうこうすればいいんじゃない?」「そんなことしたって醜い自分がモテたりするはずがない!」といった応酬を何度か目にしました。こうした非モテの消極性・自虐性は、以下の点においてかつての「非モテ系」のメンタリティと同じものです。

 まず第一に、「非モテ系」は自虐芸であったという点です。この場合の自虐は、恋愛経験のある人を上に、恋愛経験のない自分達を下に配置するヒエラルキーを前提にしなければ成り立ちません。このヒエラルキーを自明とする考え方を、現在の非モテも引き継いでいます。
 次に、恋愛を求める具体的な行動を一切起こさないという点。非モテ系とは「ネガティブを装うというお約束」であって、いくらモテないことを嘆いてもそれを機に行動を起こそうとする人は居ないんですね。即ち、ネット上でモテないことを嘆いている空間は実はそれなりに(恋愛なんかしているよりも!)居心地の良いもので、それを「お約束」で言わないことにしていたわけです。これは現在の非モテ達が一様に「自分はもう恋愛なんか諦めた、努力するつもりもない」と口にするのとどこか似ていないでしょうか?

 こういったことから、現在の非モテという人種が実は「恋愛嫌い(または恐怖)」であることが容易に推測できるでしょう。文章系サイトの黎明期にはネットユーザーが偏っていたため、非モテ系というネタによってこれらを昇華することが可能でした。しかしユーザーの層が厚くなるにつれて、非モテにとってのネットはそのような安住の地ではなくなっていったわけです。

 このような背景のもと、昨年3月に登場した本田透氏の「電波男」は、安住の地を失っていた非モテ達の多くに圧倒的な支持を受けました。現実の恋愛文化に馴染めず、またそのことに恐怖や負い目を感じる人達にとって、恋愛と二次元世界を等価だとする本田氏の理論は一種の救いだと言えます。 彼らは恋愛に対する恐怖心を強く持っているにも関わらず、恋愛できない自分を下位とするヒエラルキーを自明としてしまっているために、そのような「救い」なくしては自己承認ができないんですね。



 ちなみに私自身、恋愛や性に対して恐怖感を抱いている「非モテ」の一人です。  いわゆる攻撃的かつ保守的な非モテが少なからず存在するのは、こうした恐怖感が恋愛や性への憎悪に変質してしまう場合があるからでしょう。保守的というのは表面的な特徴に過ぎず、むしろこうした「自己肯定感の欠如」と「性憎悪」こそが非モテ保守の本質だと思います。