「萌え」は「正当化」によって自閉する

 前回の続きです。
 まずは、前回の記事に対するsho_ta氏とkaien氏のコメントから。

>「生きていることが即ち偶発性の渦中にあることだ」が一つの答えにはなるでしょう。

ええと。
もちろんそう言えるのでしょうが、だとしたら「二次元萌えの喪オタは喪オタのままで、引き篭もりは引き篭もりのままで、ただ生きてさえいればいい」という話になってしまいますよね。

宮台はともかく、crowserpentさんはそれでよいのでしょうか?
もし本当に本人が一切のコミュニケーション欲を放棄し、社会とは無関係に自分の部屋のなかで暮らして満足していられるのなら、それはもう他人がどうこう言うべきことではないのかもしれません。

ある意味で、仙人か高僧のような静かで穏やかなライフスタイルだということもできるでしょう。

 両氏の「他者性」に対する捉え方には、ある共通点があります。それは、「他者を欲する欲望さえなければ、他者性を離れて生きることは簡単である」という発想です。これは両氏に限ったことではなく、オタク論が論じられる際に非常によく見られる考え方です。

 しかし、これは実は正しくありません。前回のkiya氏のコメントにある通り、偶発性とは「生きている限り避けられない」ものです。車の通る道路を歩いている限り「交通事故に遭う確率」をゼロにすることはできないように、自分の意志や欲求と関係ないところで立ち顕れてくるものこそが「他者」なんです。
 従って、kaien氏の述べておられる「仙人のような生活」というのは極めて特殊な事態なんですね。いくらコミュニケーション欲がなかろうと、他人とのコミュニケーションを排して生活できるわけではありません。「引き篭もり」の人達は、そうした生活を長期的に継続することが不可能であると知っているからこそ、そこから脱しようと足掻くわけです。



 以上を踏まえた上で、もう一度「萌え」に戻ってみましょう。

 フィクション内の「萌えキャラ」が「他者」たりえないことは前回も述べた通りですが、シロクマ氏のこの記事では更に「萌えの本質は何か」が端的に示されています。

 これまで殆ど二次元美少女だけが対象で、言葉の使用者もオタクだけに限られた「萌え」も、今はそうではない。「萌え」という言葉の機能に味をしめた人達が、こぞって「萌え」「萌えー」「萌え〜!」と呟いている。メイドに「萌え」、女子高生に「萌え」、麻生外相に「萌え」、F-22ラプターに「萌え」etc...。もう何でもアリだが、どの用法においても、“相手の都合も等身大の姿もそっちのけのまま、ただ一方向的に欲望を投げかけては自己愛ごと回収”という構図は変わらない。また、「萌え」という言葉の曖昧なオブラート加減が、そういった“業突く張り”を防衛する盾となっている構図も変わらない。

 「萌え」という言葉が「対象に一方向的に欲望を投影する」ための言葉である、ということは、言い換えるなら「他者を他者として見ない」ためのもの、ということになります。

 「欲望の投影」がダイレクトに外部に影響を与える危険の大きい「萌え」ジャンル(例えば「生モノやおい」)では、このことは特に強く意識されます。しかし、そうした危険の少ないジャンルの場合、こうした問題が意識されないばかりか、「萌えキャラこそが真実である」という転倒した主張がなされることすらあります。
 前回取り上げたkagami氏の記事は、こうした転倒した主張の典型的な例になってしまっていました。

最もオプティミスティックに考えるならば、技術が進歩すればそのうち、
人間と機械の混合が進み、いずれ、男性と女性は互いにきっちり住み分けて、
お互いの性を尊重しあいながら、自身の欲望・欲求は機械のパートナーと分ち合う、
それはアンリアルのような仮想世界かもしれないし、HMX-12マルチのような
アンドロイドかも知れませんが、そういった想像/創造された理想的パートナー、
人間自らが作り出すパートナーを、真のパートナーとすることになると思います。
そういったピグマリオンの楽園への、今は過渡期なんだと私は思っておりますね。

 この「理想郷」の図の中には、「どうしたらお互いの性を尊重し合えるのか」という視点が何ら含まれていません。ここでは「欲望の投影」にかかるリスクが全く忘却されているんです。
 このような考え方の根底にあるのが、先程も述べた「欲しさえしなければ他者にぶつかることはない」という世界観であるわけです。これは「偶発性にぶつからないように世界を操作できる」という発想に基づいており、根本的な「世界の予測不可能性」から目を逸らした考え方です。現実には、どんなに気をつけていても他者との衝突は不可避です。(逆説的に、だからこそ「棲み分け」が重要なのだ、という言い方も出来るでしょう。しかし、kagami氏の議論にそうした視点は皆無です。)

 「萌え」は「現実の恋愛」と同様に「他者との関わり」だ、と主張することは、他者の偶発性を覆い隠し、他者に対して鈍感になる危険性を孕んでいます。他者の偶発性から目を逸らすことは、「自分が自分以外の者にとって他者である」という事実からも目を逸らすということです。それは、「自分が加害者になりうる」可能性から目を逸らすことでもあるんです。

 「他者の偶発性」を否定すればするほど、「偶発的な事故」を避けることは困難になります。その意味で、kagami氏のような「萌えの正当化」は逃避ですらありません。「偶発的な他者」の存在を意識し、「フィクションと現実を峻別」して初めて、「フィクションをフィクションとして楽しむ」ことが可能になるのではないでしょうか?