匿名とネットウォッチの倫理

 草実スサ氏から改めて趣旨説明がありましたので、それについてもう少し見ていきます。

匿名性の低い書き込みを排斥してしまいたいという感覚であれば、すでに述べたように、信じられないものではない。むしろ共感できると言ってもいいほどだ。だが、「排斥されるべき」という感覚は、たしかに信じがたいものである。「〜べき」――まるでそれが道徳に反しているわけではないかのような言い方ではないか? まるでそのルールが何がしかの正当性を持っているかのようではないか? ヲチャは、みずからの不道徳さに「ひらきなおって」、ヲチを楽しんでいるのではなかったのか。
さまざまな常識としてのルールを切り崩しておいて、自分が「住人」として書き込んでいる板のルールは、守られるべきものとしてアッケラカンと提示する。再度言うが、ルールを守って欲しいという気持ちは分かる。だが、なぜそれをそんな真顔で表明できるのか。

 「不道徳性に開き直った人間」の集団の中にルールが定められることは、特に珍しいことではありません。例えば、暴力団はある種の「不道徳性に開き直った集団」でしょうが、その集団内のルールは厳格なものです。そして、そのルールも大抵は「無根拠なもの」ではありません暴力団の例で言えば、みだりに非暴力団員をカモにしてはならない、など。きちんと守られているかはともかく)。

 もう少し正確に言えば、彼らは完全に開き直ってなどいない、ということです。ネットコミュニティにおける反社会性を自認しているわけでもなければ、他所のネットコミュニティに介入するつもりもないんですね。ネットウォッチ板住人は、「突撃禁止ルール」を「住人が守るべき最低限のマナー」とみなしており、それ故に(外部の人間から見れば異常とも思えるほどに)ローカルルールに固執するわけです。

 このルールの根拠は、「ヲチ」と「突撃」の決定的な違いにあります。「ヲチ」が「ヲチ」に留まる限り、それはせいぜい「匿名前提のサイト批評」を過激にしたものでしかありません。風評被害ないし名誉毀損という問題はありますが、それらは「ヲチ」に限ったものではありません。)
 しかし、「突撃」は明確な実害を伴う迷惑行為であり、道徳的か否かのレベルの問題ではなくなります。大勢の2ちゃんねらーらしき人間が個人サイトの掲示板等に集中して投稿を行い、結果的にサイトが機能不全に陥る「突撃」は、2ch成立初期から存在しましたし、現在も「ブログ炎上」という形で至る所で起こっています。

 元々ネットウォッチ板には、こうした「個人サイト攻撃」をしようとする人間を隔離し、突撃禁止のローカルルールで縛るという「隔離板」としての要素がありました。住人達はこのことが骨身に染みている故に「ルール」を掲げざるを得ないのであり、そこに「自分達は不道徳なことをしておきながら、自分達のルールだけは他者に強制する」というダブルスタンダードを見るのは、やはり的外れであるように思われます。

 ただし、上に述べた論理の是非はまた別の問題です。 「ローカルルールは本当に目的どおりに機能しているのか」 「ネットウォッチ板の『住人』とはどこまでを指すのか」 「匿名の批判・罵倒に対する構造的な『反論しにくさ』をどう考えるか」 「反批判の難しい匿名発言が『情報の真実性』を歪めるデメリットは、突撃防止というメリットとどこまで見合うのか」 など、疑問点はいくらでも挙げられるでしょう。
 ですが、これらは「ローカルルールが無邪気なダブルスタンダードの上の構築されている」ことを意味しません。

ヲチャがヲチ対象に「突撃」することは、ヲチャにとっては忌むべきことである。バードウォッチャーが鳥を驚かせてどうするよ。これは明文化され、ヲチ板のルールとなっている。このルールには、「突撃してダメージを与えることもできるのに、それをしない俺たちヲチャって、良識的じゃん。(突撃しちゃう厨房は、困ったもんだね)」という暗い自己満足をもたらすという副次的効果もある。ここで「突撃」という言葉を使うことによって排除されているのは、「普通に議論する」という可能性である。「マターリヲチ」か「突撃」か。その中間にあるはずの多様な段階は、ヲチャにとっては、存在しない。

 おそらく、草実スサ氏と私の見解の違いの根本はここでしょう。「ヲチ」か「突撃」かという2択でしか捉えられない「ヲチャ」と「個人サイト管理人」の関係性は、「議論」を前提に考えれば酷いディスコミュニケーションのように思えるでしょうし、私自身もそう思います。しかし、「普通に議論する」ことの可能性をヲチャ達が排除しているのは、「その方が彼ら自身に好都合だから」ではない(少なくとも、彼ら自身はそう思っていない)ということなんですね。この点を「無邪気」と捉えるか、「経験に基づく一種の諦念」と捉えるかが、草実スサ氏と私の違いなのだと思います。