恋愛という概念装置(2)/あなたと私の「かけがえのなさ」

 今回は、前回とはちょっと違う話をします。
 まずは、以前の私の記事「『恋愛』の耐えられない軽さ」に言及されている海燕氏の記事から。

 たしかに、恋愛の相手は「だれでもいい」。もしあるひとと恋愛しなければ、べつのひととするだけのことである。
 だが、恋愛相手が交換可能だということは、目の前にいる恋人が交換可能だということではない。
 ただ恋愛できればいいというだけならいくらでも代わりはいるだろうが、ある個人との関係は唯一無二だ。
 たしかに、そのひとと別れてほかの恋愛相手と関係することは出来る。あるいはまた、そのひとと関係したまま、二股をかけることも。
 けれど、そうやっていくら新しい恋愛関係を築いても、あるひととの関係の代用にはならない。ただ、新たにべつの関係を築くことが出来るだけのこと。
 そもそも、ひととひととの関係とは、すべてそういうものだ。ある母親が溺愛する息子を失ったとする。もうひとり子供を産めばその子の代わりになるだろうか?
 なるはずがない。「親子」という制度における「子供」という存在に代用はあっても、「その子」個人の代用は存在しないのである。「友人」でも、「同僚」でも、「仲間」でも、「ライバル」でも、何でも同じ。
(中略)
「恋人」の代わりはいても、「ただのそのひと」の代わりはいない。すべての「恋愛相手」が交換可能だとしても、「そのひと」個人は交換不可能だ。
 ようするに、「恋人」という概念があるからこそ、「ほかに恋人を見つければ、いま目の前にいるひとの代用になりえる」という考え方も出てくるのである。

 「恋愛の交換可能性」という話題は、これまで何度か取り上げてきた話ですが、海燕氏の議論は基本的には私の「交換可能性」の理解と合致しています。ここまでは、(この「烏蛇ノート」上では)特別目新しい話ではありません。

 この海燕氏の記事に対し、sirouto2氏が次のような異論を唱えました。

読者は、「なるほど、個人との関係は、唯一無二の関係、一期一会なのか」などと、何となく分かった気分になるかもしれない。しかしそれは、的外れなズレた理解だ。恋愛関係の特殊性・固有性の説明としては、問題の所在がすり替わってしまっているのだ。なぜそう言えるのか。

まず、個体レベルの特殊性・固有性は全ての個人に存在する、という命題は認めるとしよう。しかしそれは、恋愛の前でも後でも最中でも変わらないし、恋愛以外の関係でも変わらない。そしてそのことが、「良いお友達でいましょう」という、恋愛関係を断る決まり文句に現れている。断られた方が肩を落としてため息をつくのは、単に個人として認められたいのではなく、恋愛関係になりたいからではないか。
(中略)
実は話が全く逆なのだ。恋愛関係が成立することによって、相手の固有性が生じる。または、相手の固有性を認めることによって、恋愛関係が成立する。
(中略)
なぜ、恋愛関係は一対一の関係でなくてはならないのか。それは、「私」が一人しかいない、という自明性に基づいている。恋愛相手の理想像は自己の鏡像である。もちろん、現実の鏡は左右が反転するだけだが、想像的な鏡像では「男女」だとか抽象的な軸で反転する。そして、「あばたもえくぼ」なのは、自己愛を投影しているからなのだ。相手のかけがえのなさは自分のかけがえのなさに由来している。

 最初、私はこの記事の意味するところがきちんと理解できませんでした。というより、正確に言えば、私や海燕氏の考えている「かけがえのなさ」とsirouto2氏の言う「かけがえのなさ」との関係をどのように考えればよいか分からなかった、ということです。

 二つの「かけがえのなさ」を読み解く鍵は、「時間」概念の中にあります。それを次に見ていきましょう。



 私の記事へのブックマークコメントの中に、次のような指摘がありました。
sivad 最初から取替え不可能な相手などいません。時間が取替えを不可能にするのです。
 sivad氏の意味するところはおおよそお分かり戴けるでしょう。これは、海燕氏の「あるひととの、そのひととだけの関係性」を言い換えたものです。このことを、もう少し突っ込んで考えておきます。

 交換可能性は、再現可能性によって支えられています。例えば、科学の実験は条件さえ違わなければ、誰がやっても同じ結果になると考えられています。ここには、何度でも同じ条件を繰り返し設定できるという暗黙の前提があります。時間経過とともに条件が勝手に変わってしまうのでは、再現は不可能でしょう。
 幸いにして、自然界の法則は時間経過とともに変質したりはしません。光速度は未来永劫不変ですし、重力は今も昔も逆二乗則に従って働いているはずです。しかし「人間」はそうではありません。時間経過とともに人間は変わっていき、そしてその変化は不可逆です。
 誰かとある時間・年月を共に過ごしたという事実は取り消せません。ある時間の間に一度築かれた関係性を、同じ時間の内に別のものに塗り替えることは出来ないんです。「時間の不可逆性」が「かけがえのなさ」を作り出すわけです。

 では、sirouto2氏の言う「かけがえのなさ」はどこに根拠があるのでしょうか? sirouto2氏は、これを「『私』が一人しかいないという自明性」に求めます。私にとって私は一人しかいない、ということは「私自身にとっては」厳然たる事実ですから、確かにこれは自明のことのように思えます。
 しかしながら、これはあくまで「私自身にとって」だけのものでしかありません。他の全く無関係な人達から見れば、私は何ら特別な人間ではないでしょう。当たり前の話ですが、人は何も知らない他人を見るとき、その人自身について何も知りません。私達は他人を眺めるとき、「犬の散歩をしてるおじさん」とか「サンドイッチを買いに来た客」というように、交換可能なイメージで他人を捉えています。
 従って、「『私』が一人しかいないという自明性」は、関係性のかけがえのなさを語る場合には(それ自体では)あまり意味がないことになります。

 実は、sirouto2氏の議論は、恋愛関係の交換可能性それ自体について言っているのではなく、「なぜ恋愛関係がかけがえのないものとみなされるのか」という話をしているんですね。
 私にとって私は特別な存在ですが、私でない者にとってはそうではない。仮に、この非対称性に耐えられない、何とか他の誰かからも「特別な存在として認められたい」、という人が居たとしましょう。こういう人が二人居て、「お互いを特別な存在だと認めようね」と決めれば、彼らは「自分ではない誰かに特別な存在として認めてもらう」ことが出来ます。
 このとき、この両者はお互いに「自分が認めて欲しいことを相手に認める」わけですから、その意味で「恋愛相手は自己の鏡像である」と言えます。このことを、sirouto2氏は次のように表現しています。

片想いの場合ですと、相手の鏡像にナルシシズムを投影するだけです。「恋に恋にして憧れ焦がれ」の状態で、まだ相互性が生じていません。しかし、両想いか、少なくとも相互のコミュニケーションが成立している状態では、両方鏡なので合わせ鏡になります。

合わせ鏡は原理的には無限に反射するので、語りつくすことはできません。恋愛が吸い込まれるような深い奥行きを持っているのは、合わせ鏡の際限のなさと同じです。そして、反射した像が見えないくらいに小さくなっていって収束した点が固有名です。

「どうしてあなたはロミオなの?」の問いに対して、もしロミオはかくかくしかじかの属性を持つから好きなのだ、と言っては情熱恋愛のロマンチシズムが失われますが、この属性という面積を持たない抽象化された点、「ロミオはロミオである」としか言えないような極限的な点が固有名であり、恋愛の対象なのです。

 sirouto2氏の議論は、例えば「一目惚れ」といった現象のある側面を言い当てているでしょう。相手との「時間の共有」など皆無なのに、なぜ相手を特別な存在とみなす(ことができる)のか? 理由を突き詰めれば「自分が特別な存在とみなされたいから」ということになります。あるいは、「特別に『好きな人』が居るわけでもないのに、なぜ敢えて『恋愛』を求めようとする人が居るのか」という疑問にも、幾らかは答えられるでしょう。
 sirouto2氏自身が指摘しておられる通り、この「かけがえのなさ」はあくまで幻想に過ぎません。幻想を共有して、お互いに自己投影し合うことで成立する「恋愛」は、幻想が崩れれば即座に崩れる(恋が醒める)ことになるわけです。
 しかしながら、最初に述べた「時間の共有」に基づく「かけがえのなさ」は、こうした仮初めの「かけがえのなさ」とは違います。そして、このどちらもがおそらく「恋愛」という事象に深く関わっているのでしょう。

 これらのことは、前回に述べた「モテ規範」「純愛規範」といった恋愛の規範性とも密接に関わってくると思われますが、これについてはまた次回に。