恋愛という概念装置(3)/ロマンが「恋愛」を殺す

 古澤克大氏のところで、イカフライ氏と議論が続いています。最初は「戦争を悪と規定すること」が話題だったはずなのですが、途中からなぜか「非モテ」の話にすり替わっています。

 議論自体の流れとは直接関係ないんですが、このエントリの中で、こちらでも触れている「恋愛の交換可能性」の話題が挙げられているので、それについてこちらで言及しておきたいと思います。

 そして、恋愛という概念そのものは近代において成立した特殊な概念であるという視点が欠落している。おうおうとして我々近代人は近代固有の概念を当然のものとして考えるが、少なくとも恋愛という概念は近代特有であるということは注意せねばならない。
(中略)
 これは最近はてな界隈で議論されている恋愛の交換可能性問題ともリンクするわけであるが、恋愛という形式そのものは交換可能な単なる器に過ぎない。しかし、その他者との相互承認関係は特別なものであり、それは一義的に誰でもない貴方という交換不可能な存在があってこそのものなのである。

 まず先に言うと、古澤氏は「恋愛という形式」の問題を完全に誤解しておられます。しかし、これはよくありがちな誤解であろうと思いますので、古澤氏の「何が間違っているか」を説明しておきましょう。

 「恋愛という形式そのものは交換可能な器にすぎない」という点は、私の議論とも一致しているんですが、問題は「形式ではない恋愛の内実」なるものが本当に存在するのかどうか、ということです。古澤氏は「他者との相互承認関係は特別なものである」と簡単に言い切っておられますが、これは自明なことではありません。前回の文章の一部を引用しておきます。

 私にとって私は特別な存在ですが、私でない者にとってはそうではない。仮に、この非対称性に耐えられない、何とか他の誰かからも「特別な存在として認められたい」、という人が居たとしましょう。こういう人が二人居て、「お互いを特別な存在だと認めようね」と決めれば、彼らは「自分ではない誰かに特別な存在として認めてもらう」ことが出来ます。
 相手との「時間の共有」など皆無なのに、なぜ相手を特別な存在とみなす(ことができる)のか? 理由を突き詰めれば「自分が特別な存在とみなされたいから」ということになります。(中略)この「かけがえのなさ」はあくまで幻想に過ぎません。幻想を共有して、お互いに自己投影し合うことで成立する「恋愛」は、幻想が崩れれば即座に崩れる(恋が醒める)ことになるわけです。

 「一義的に誰でもない貴方という交換不可能な存在」は、関係性の特別性を保障してくれるものではなく、「交換不可能な関係性がそこにある」という幻想を見せてくれるだけです。「相互承認」自体が何らかの必然によって成立するわけではないことは、少し考えればすぐに分かることでしょう。
 それならば、交換可能でない「特別な相互承認関係」は存在するのか? それは時間の不可逆性の中にしかない、と前回既に述べました。例えば、「誰と友達になるか」ということは多くの偶然が作用しており、「友達になった」時点では他の可能性がいくらでもありますが、一旦友達になって交友関係を続けたならば、その間の関係性を「他の人に入れ替えて考える」ことは出来なくなるわけです。これは、「特別な関係性」が本来事後的にしか語り得ないということをも意味しています。

 ところが、「恋愛」は「特別な関係性」を事後的にではなく、将来への希望として語ってしまいます。だからこそ、そこには何らかの「幻想」が必要になってくるわけです。「相互承認関係は、貴方が交換不可能な存在だからこそ特別になるのだ」という論理は、まさに「恋愛という形式」の「器」そのものです。

 要するに、「他者との相互承認関係は特別なものである」と思い込むこと、それ自体が「恋愛という形式」の一部なんです。このことをよく認識しておかないと、「恋愛という形式」に囚われない「他者との特別な関係性」がどこかにあるはずだ、という本質主義に陥ってしまう危険性があります。
 実際、古澤氏の議論は全体として、本質主義を避けようとしつつも結局その中に囚われてしまっています。「恋愛は近代特有の概念であって絶対ではない」と言いながら(その主張自体には同意しますが)、結局その「近代的恋愛」の枠内でしか「性愛」や「承認」を語れていないように見えるんですね。



 さて、「恋愛」には「幻想」が必要になる、と先に述べました。このことについて、もう少し突っ込んで見ていきたいと思います。

 まず先に、ショータ氏のこちらの記事と、shinpants氏のこちら及びこちらの記事でのやりとりを読んでみてください。(やりとりを適宜引用していきます。)

「恋愛への努力」という言葉が使われる一方で、「恋愛のどうしょもなさ」が語られることはよくわかります。
ただ、今後出会うであろう恋人へ向けた行動(努力)と、具体的な関係(経緯)を経た上での現在の恋人(もしくは友人)への行動(努力)とでは、次元が違います。

今後出会うであろう恋人へ向けた行動(努力)は、未だ出会わぬ恋人像への、モノローグによる物語により意味づけられます。

一方、具体的な関係(経緯)を経た上での現在の恋人(もしくは友人)への行動(努力)というのは、お互いを巻き込みながら、共に物語を作っていく関係の上になされます。

 「今後出会うであろう恋人へ向けた行動(努力)」は、本来事後的にしか語れないはずの「特別な関係性」を、あたかも意図的に到達可能であるかのように語ることで初めて可能になります。従って、このような「努力」には何らかの「幻想」が不可欠であるわけです。このような「(恋愛への)『努力』を駆動させる幻想」のことを、ショータ氏は記事中で「(恋愛への)ロマン」と呼んでいます。
 shinpants氏が「今後出会うであろう恋人へ向けた行動(努力)」と「具体的な関係(経緯)を経た上での行動(努力)」を区別せよと主張するのは、このことに基づいていると考えられます。すなわち、前者がロマンなしでは成立し得ないのに対し、後者はロマンなどなくても「眼前にある、過去の経緯も含めた現在の関係性そのもの」に対応しなくてはならない、という違いです。

 モノローグによって、すなわち自己投影によって作られる「ロマン」は、他者とは無縁に成立させることが出来ます。自分の中の都合だけで「到達点」を設定できさえすれば、それが「ロマン」になります。「到達できるかどうか」は考慮に入りません。
 それに対し、相互的な関係性の中ではこのように一方的な「ロマン」は成立しにくくなります。他者は自分の思うとおりにはならないし、世界は自分の思っていることと違うことが幾らでもあるからです。

 しかしながら、相互的な関係性に触れれば即瓦解してしまうほど「ロマン」は脆くはないんですね。他者や世界が自分の思うとおりにならなければ、人は「ロマン」の範囲を広げることで「ロマン」を守ろうとします。どういうことかというと、「思うとおりにならないこと」そのものを「ロマン」の一部にしようとするんですね。ショータ氏の記事にはそれが非常によく顕れています。

 確かに私は「恋愛のどうしようもなさ」の存在を認める。
 だからこそロマンがあり、至高性があるのだ、という主張を認めよう。
 そして純愛主義者諸君がそのこと、「恋愛のどうしようもなさ」に至高性を求めるために、「恋愛のどうにかなる部分」を忌避し、嫌悪せざるを得ない事情もよく理解できる。原理的には、「どうにかなる部分」を否定することで、「どうしようもなさ」の至高性はこれ以上ないほどに加速するからだ。(排外主義がナショナリズムをドライブするように)

 しかし私はあえて言いたい。
「どうにかなる部分」を文脈とせず、それを前提としない「どうしようもなさ」など、成り立ち得ない。いやむしろ、「どうにかなる」と信じ、「どうにかしよう」と努力したぶんだけ、「どうしようもなさ」の価値が高まるのだ。

 「思うとおりにならないこと」をも取り込んで「ロマン」が機能することが、ショータ氏のこの文章でお分かり戴けると思います。これによって「まだ見ぬ恋人へ向けた努力」が可能になるわけですが、同時にこれは大きな危険をも孕んでいます。それを指摘しているのがshinpants氏の次の記事です。

恋愛関係において、「こういうときにこうなるはずだ」と想定していたことがそうならなかった時、ある意味「失敗」である。
ただ、それが面白いと思えるということは、そのとき、すでに関係は、「恋愛」の枠を飛び出しているのだろう。
実際の恋愛関係は、「恋愛」の枠を軽々と飛び出して、さらに豊かな関係を築いているものではないか。
それを、当初から想定できるものへの努力とその失敗という、同じ次元で語ろうとするのには無理がある。

 私達は、予想できることだけを喜んだり、面白いと思ったりするわけではありません。全く想定していなかったことを面白く感じられることは幾らでもありますし、そうした「気付き」によって、私達はそれまでの自分の思考やものの見方を変えていくことが出来るわけです。

 しかし、その「気付き」を一元的な「ロマン」の物差しにあてはめてしまうとしたらどうでしょうか? いくら自分を変えられる可能性のある「気付き」を得ても、全てを「ロマン」に回収してしまえば、頑なにいつまでも自分を変えていくことが出来なくなります。
 「恋愛」は自分以外の誰かと構築していく関係性ですから、その中には当然「予想もつかないこと」がいくらでも出てきます。その中からは、(それまで自分で考えていた)「恋愛という概念」からはみ出すものが出てくることもあるでしょう。けれども、「恋愛という関係性」の中で起こることを全て「恋愛」に関連づけて語ろうとすれば、そうした「気付き」は切り捨てられてしまうことになります。

 前回述べた「時間の不可逆性」に基づく「交換不可能な関係性」は、「未来は分からない、予想のつかないことが起こる」ということが前提です。そこには、「時間を共に過ごすことでお互いが変化していく」という了解が含まれています。しかし、上記のように「気付き」を切り捨てていくならば、その時間を通して「自分」はずっと頑なに変化しないままになってしまいます。そうである限り、「幻想に基づく関係の特別性」はいつまでも「幻想」のままであり続けることになるでしょう。
 「恋愛へのロマン」を強固にすればするほど(ここには「ロマン」を拡張することも含まれます)、「恋愛という関係性」は「恋愛の形式」に強く依存したものとなっていきます。

私は「未来の恋人への努力」と「現在の恋人への努力」を、それほど「次元が違うもの」だとは思っていません。後者のほうが、少しだけ具体性が伴い、実行力の糧となることが多い、という程度のものだと考えています。

多少混ぜっ返しも含めて書きますが、shinpantsさんは「現在の恋人」について「2人(複数)の物語が関係しあいながら作り上げられる、開かれた意味世界」とおっしゃいますが、それ、本当に開かれていると思いますか? 
私はそれは、「未来の恋人への努力」程度には開かれているし、閉じられている、と思っております。

 ショータ氏が「未来の恋人への努力」と「現在の恋人への努力」を区別できないと考えるのは、「恋人」という概念に乗った時点で全てを「恋愛へのロマン」に回収してしまうからでしょう。そうすれば「自分の中での恋愛(という幻想)」はいつまでも変わらぬ形で保ち続けることが出来ます。それは、萌え系オタクの人達がフィギュアを愛でる行為と何ら変わるところはない、と言えば言い過ぎでしょうか。