インターネットは、他の何かの代わりじゃない。

 このところ、完全にネット上での活動がTwitterに移ってしまって、放置状態が続いている当「烏蛇ノート」ですが、とあるブログの文章に刺激されて久しぶりに書いてみようと思いました。

僕は悲しい。とても悲しい。
インターネットで生じている事実が事実として伝えられない。

岡田有花なる人物の手により、全ての記憶が改変されてゆく。努力とか継続とかいう些細で美しい自己啓発と、インターネットという未来が生んだ魔法のブラックボックスにより、全ての事実は抹殺されてゆく。歴史は書き換えられ、僕達1人1人が真実の心を持って懸命に生きてきたインターネットが汚されてゆく。いや、浄化されて行く。美しいものへと。素晴らしいものへと。小さく儚い、それでいて強い美談へと改変されてゆく。

 「真性引き篭もり」というブログは、ブロゴスフィア全盛期の人気ブログの一つだったのですが、ブログサービスの問題があって一度移転し、その後消滅してしまっていました。今回の記事で初めて復活していたことを知ったのですが、実際に復活したのは昨年10月のことだったようです。

 今回の記事は、元ITMedia記者の岡田有花氏による「普通の女子大生がなぜ、Google+で「日本一」になったのか」に対して書かれたものです。一見して分かるように畳み掛けるような詩的な文章は、大袈裟すぎるようにも見え、はてなブックマークのコメントなどでは「ウケ狙いで書かれたネタ」と受け取る人も居るようです。また、「インターネットへの絶望」とか、筆者の悲痛な思いやルサンチマンを読み取るコメントも散見されました。
 私はこの文章は決してウケ狙いなどではないし、また、絶望や恨みに満ちた文章なんかでもない、と確信しています。筆者・真性引き篭もりHANKAKUEISUU氏は、皮肉や逆説じゃなく素直に「インターネットの希望」を語っている、と思うんですね。なぜそう読めるのか、ということを今から少し書いてみようと思います。



 まず最初にこんな断言が出てきて、多くの人が「なんとなくそんな気はしてた」と思ってしまうだけに、これがある種の「嘘」であることになかなか気付かないのですね。

普通の女子大生が日本一になれたのは何故か。

顔だ。
顔写真だ。
顔が美しいからだ。
顔写真が美しいからだ。

 嘘、というのは言い過ぎにしても、ここでの「顔」というのは象徴的な意味を持っているに過ぎません。よくよく考えてみれば、Google+に顔写真を公開している女性は沢山いるはずで、この人が飛び抜けて美しいという訳でもない。文字通りの「顔」は、せいぜい人気の原因になった要素の一つと言える程度でしょう。
 具体的な「顔」そのものが重要なのではないことは、後に出てくる以下の部分から分かります。

だいたいからして、汚いのだ。卑怯なのだ。
岡田有花とそれに併合する人達は、必ず汚いのだ。

特別な能力や特別な欲望を持つ人達を「普通」というフィールドに持ち込んでストーリーを作る。決まってそうだ。毎回そうだ。僅かなポイントを付いて「普通」をでっちあげ、「普通」をアピールする。特別な人間を「普通」だと強引に定義して、普通の人間が「努力、幸運、インターネット」という三種の神器の魔法の小箱で何かを手に入れた事にして、物語を書いてしまうのだ。捏造してしまうのだ。

 「顔」とはつまり、個人の努力ではどうにもならないもの、一部の人間のみが持てるものの象徴なのですね。そして、そうしたものを持っている人間が何を手にするかといえば、「インターネットの外の世界で得られる、現実的な成功」なんです。それを頭に置いて、以下の部分を読んでみてください。

インターネットの希望は破壊される事なく永遠に残り続ける。何故ならば彼女らは消えるのだ。音もなく静かに消えるのだ。インターネッターは消える。インターネットの美女は消える。いつの間にか居なくなる。美しい人から消えて行くのだ。 (中略) 美しい者は、インターネットを捨て、廃棄し、跡を濁さず消えて行くのである。インターネットという地獄では、醜い者だけが生き残るのだ。
ザッカーバーグの彼女の写真を見て、インターネットがあれば俺だってワンチャンあるかも、と思った事くらいあるだろう。そうなんだよ。そういう事なんだよ。インターネットってのはそういう場所なんだよ。こんなちっぽけな僕だってザッカーバーグに求婚されるんじゃないか、って夢見る事が出来るのがインターネットなんだよ。

 美しい者とは誰か。現実に成功を収める能力を持っていた人、あるいは成功を収めた人のことであり、そうした人にとってインターネットは道具でしかない、だから「いつの間にかいなくなる」。けれど、「美しくない」大部分の人にとって、インターネットは成功を与えてくれるものではなく、ただ「夢見させてくれる」だけなんですね。「努力してGoogle+で1位になって、就職にも役立つ」といった「目に見える成功」は、ほとんどの人はインターネットで得ることのできないものだ、と、そう筆者は言っているわけです。
 ルサンチマン溢れる文章だ、と評されるのはこの辺りに原因があるのでしょう。「インターネットの希望」という言葉を一種の皮肉と受け取った人も居るかもしれません。でも、決してそうではないことが、以下のくだりからはっきり分かります。

寧々さんは誰にも奪われない。
当然である。寧々さんは存在しない。現実ではない。非現実である。しかしながら、何人たりとも寧々さんの力にはなれない。寧々さんを喜ばす事は出来ないし、寧々さんを微笑ます事は出来ない。寧々さんを幸せにする方法は地球上どこを探し歩いても存在しないのだ。
彼らは美しいと言いたかったのだ。そして言えなかったのだ。好きだと言いたかったのだ。素敵だと言いたかったのだ。けれども言えなかったのだ。勇気が無かったのだ。こっそりと無記入で拍手ボタンをクリックするくらいの度胸しか無かったのだ。そして拍手ボタンなんて無かったのだ。誰も助けてくれなかったのだ。一度としてそのチャンスは訪れなかったのだ。そう、太陽が終ぞ再び天へと登るまでは、その時は訪れなかったのだ。

そして日は昇ったのである。登り続けたのである。朝になる度、甲斐甲斐しく、太陽は上を目指したのである。それは正しく具現化した希望である。同じ美しさを見あげ、同じ素敵さを共有する。それを美しいと言い、それを素敵だという。太陽の写真は正しく、Aya Sakagutiに大きく空いた「美しいね」のセキュリティーホールだったのだ。素敵さの脆弱性だったのである。

 「現実の冴えない男たちが、美しい女性に『いいね』と告げるために集まった」に過ぎない、ただの報われない下心だ、とは筆者は決して言いません。「冴えない男たち」は何に苦しんできたのか。「好きだと言えないこと」、それは、「現実」においては例えば「恋愛できない苦しみ」という風にしか語りえないことでした。インターネットはその「語れなさ」を別の形に書き換えてしまえるのです。「冴えない男」が冴えないままだという「現実」には何の変化もありませんが、それが一体なんだと言うのでしょうか。

 この「冴えない男たち」もまた、一つの象徴であることにお気付きでしょうか。インターネットで希望を得、高望みして、挫折して、しかしその希望は本当に価値あるものだと言うために、「インターネットのくだらなさ」の象徴としての「冴えない男の性欲」が語られているわけです。つまり、「インターネットの希望」という言葉は最初から「冴えない男」に限らない全てのインターネットユーザーに向けられているんですね。もちろん、Google+で1位になった人に対しても。

>写真が嫌いで、SNSも苦手だという坂口さん。
>それでもGoogle+に写真をアップし続けて要るのは、「就活のため」だ。

何故インターネットという希望の聖域の大切な動機という最も偉大なる感情の衝動を、就職活動という大人達が作り上げた陳腐な社会の枠組みのブラックボックスアウトソーシングしてしまうのか、僕には全く理解が出来ない。そこが一番大切な所ではないか。そこが一番肝心な所ではないか。それだけではない「アラビア語でほめられるなんて、一生ないと思っていた」というのも全く同じである。インターネットという自由世界で得た結実を、アラビア人などという現実世界の大陸の外国語の完全なブラックボックスに委託して書き表してしまうのか。何よりもこれが許せない。

 写真を撮るのも撮られるのも好きじゃない、という「坂口さん」が、毎朝早朝に起きて、インターネットに上げるためだけに写真を撮り続ける。その行為を、岡田氏は結局のところ「就職活動のための努力」という文脈でしか語れていません。インターネットに写真を上げるということが、普段の生活で写真を撮る・撮られるということとは全く違う文脈を「写真」に(そしておそらくは彼女自身に)与え得たということは、Google+で1位になることに比べたら、取るに足らないことなのでしょうか。
 Google+内で人気を博して得られる「現実」での利益は、Google+ユーザーの殆どにとっては縁のないものです。でも、「写真を撮るということの、今までと違う何か、インターネット上のコミュニケーションを経てでなくては見えない何かがある」ということは、全てのインターネットユーザーにとって身近で大切な、そして楽しいことであるはずなのです。

 岡田氏だけではありません。インターネットを語る言説は、そのほとんどが「現実」への関与とセットで語られてきたし、今も語られ続けています。私たちは、インターネットそのものが持つ希望や楽しさを、語る言葉を未だに得ていない。筆者・真性引き篭もりHANKAKUEISUU氏の長い文章は、つまるところ、そのことを伝えようとしたものだと私は受け止めています。



 最後に蛇足になりますが、ブログ「真性引き篭もり」の過去記事の中で、「インターネット」に関わるものを幾つか紹介しておきます。いずれも元のブログは消滅しているのでリンク先はキャッシュです。


 今回の記事と合わせて読めば、筆者が「インターネット」についてどのように考え、どのように生きてきたかの背景が見えてくるのではないかと思います。