「弱者男性論」によるフェミニズム批判と「社会運動の公正性」

 「フェミニズムが弱者男性を弾圧・抑圧している」という議論とそれへの反論が話題になっています。この議論そのものは以前からみられるものですが、大きく話題になったのはこのまとめからでしょうか。途中までの流れは司馬光氏の記事にまとめられています。
 最初のまとめの主題は「生活困窮する高齢男性」ですが、「困窮する高齢男性へのケアの方法論」といった問題はフェミニズム批判している側の主な論点にはなっていないようです。フェミニストであるfont-da氏の「弱者男性のケア」についての記事、「弱者男性の不満は『ケア役割』の女性が自分に配分されないことではないか」と推測した点が「藁人形論法」であるとして批判されましたが(これが見当違いの推測であることは確かだと思います)、ケアの方法論などについての批判や提案はほとんど見られませんでした。

 司馬光氏はフェミニズム批判の内実について次のように述べています。

何故弱者男性は、フェミニストに窮状を訴えるのか?を考えていこう。多くの人が指摘するようにそこには具体的な要求は少ない。彼らは何を言わんとしているのか?

(中略)

弱者男性に具体的な要求は無いと書いた。彼らはむしろ、むしろある疑いを晴らそうとしているのだ。女性たちの訴えは「公正」を巡るものなのか?そうでなく「自分たちの都合」だけのことなのか?「公正」なら何故自分たちは応答しないのか?「自分たちの都合」ならむしろ強者男性が彼女たちに応答する意味は無くなる。

強者男性には「公正」(法の下での平等)を掲げ要求を通し、一方自分たちが強者として弱者男性への応答を無視するならそれは欺瞞ではないか?弱者男性はそのような疑いを持っている。

 つまり、フェミニズム批判は不満やケアの要求ではなく、「公正性を追求する活動を自称していながら、その実は自分たちの利益を追求しているのではないか」という疑念に基づくものだということです。この司馬光氏の見方が全てのフェミニズム批判に当てはまるわけではないでしょうが、「弱者男性」をめぐるフェミニズム批判においてはこれが多数派を占めると考えてもいいのではないかと思います。

 さて、そうであるとして、実際にフェミニズムは不公正なのでしょうか。不公正であるとすると、それは「弱者男性」にどんな影響を及ぼすのでしょうか。……という問いの前に、そもそもフェミニズムのような社会運動における「公正性」とは何であるかを考えておく必要があります。まず社会運動の立場からの「公正」を考え、それと批判者の考えている「公正」とはズレがあるのかどうか、あるとすればどのようなものなのか、を見ていきたいと思います。



 「公正」という単語は「順法・適法」という意味で使われる場合もありますが、社会全体の公正性を考える上ではこの見方は不十分でしょう。現行の法制度それ自体の公正性を問うことができないからです。
 先の司馬光氏の記事では、「公正」を「法の下の平等」と言い換えています。確かに「法の下の不平等」すなわち法の二重基準性は、社会における不公正の大きな部分を占めると考えていいでしょう。ですが、これだけでは「法制度の問題」のみについてしか考えることができなくなりますので、これに加えて「非人道的ないし著しく不合理な社会的リソースの分配状況」を「社会的不公正」の一つとして挙げておきます。そして、法の二重基準またはリソース分配において不利な立場に置かれている人たちを「弱者」と呼ぶことにしましょう。これらの定義はいずれも曖昧さを残していますが、概念の性質上「厳密な」定義が困難なことはお分かりいただけると思います。

 社会における不公正はなぜ生じるのか? これには、「過去の偶然の歴史的経緯により定着したものが、慣習として残ってきた」「権力の集中する集団が自分たちの利益を追求した結果生じた」といったことが考えられるでしょう。では、不公正を解消するにはどうすれば良いでしょうか?
 まず考えられるのは「より公正な法や社会的ルールの形成」です。これは長期的には「社会の不公正の是正」そのものとも言えますが、短期的には実現が難しかったり、緊急を要するリソース分配の問題がある場合(「社会的不公正」の多くがそうでしょう)には他の手段が必要になってきます。そこで考えられるのが「弱者への直接的な手当て・ケア」「弱者の強者に対する対抗権力の形成」です。実際の「弱者」に関わる社会運動フェミニズム以外に、少数民族の運動、被差別階級の解放運動、労働運動、貧困・ホームレス支援、LGBTの運動など)も概ねこの3つの要素を包含しています。

 ここで、「弱者に対するケアは分かるが、対抗権力の形成はなぜ必要なのか」と思われる方も多いと思います。弱者への対抗権力の付与は「逆差別」に繋がるのではないか、という懸念を持たれる方も居るでしょう。しかしながら、対抗権力なしに社会の不公正を是正することは事実上不可能です。
 理由は、先程述べた「権力の集中する集団」(これを「強者」と呼ぶことにします)が社会的不公正の一因になっていることと、公正・不公正の概念の曖昧さにあります。現実の社会において「強者」がルール形成を主導できる立場に居る以上、公正・不公正の基準は強者の都合の良いように定められがちです。また、「弱者へのケア」は、それに条件を付けることで「強者に都合の良い弱者のあり方」を「弱者」に強要する道具ともなります。それは「弱者」の固定化にも結び付くことになるでしょう。
 これらを防ぐには、「弱者が対抗権力を得る」ことにより「強者」に圧力をかけていく、ということが必要になってくるわけです。「社会的公正」と「弱者の利益・権力強化」は相容れないどころか、むしろ不可分であると言えます。

 かといって、「弱者の対抗権力の強化」に問題がないわけではありません。というと「逆差別」を想起する人が少なくないと思いますが、この概念は社会運動の公正性を考える上でやや一面的に過ぎます。現実には、「弱者の対抗権力の強化」によって「強者」と「弱者」の立場が完全に逆転するようなことはそうそう起こりません。問題はそのはるか手前で発生します。「ある側面における『弱者』の対抗権力の強化が、別の側面からみた『弱者』に対する圧力になる」という問題です。社会運動の歴史のなかでは、実際にこのような問題は頻繁に起こってきました。
 こうした問題を運動のなかで事前に予防することは困難であり、圧力を受ける弱者当事者や、運動内部からの批判によって是正されることが必要です。このような批判を契機として、新たな社会運動が起こる場合もあります。



 社会の不公正の是正という観点から「社会運動に対する批判」を捉えるとすれば、その「批判」自体の公正性も問われなければなりません。これは「既存の社会運動がどのような問題を抱えているか」によって話が変わってきます。

 まず、ある社会運動が、別の側面からみた「弱者」に対して「何もしない」、すなわちプラスにもマイナスにもならない場合(これを「不在型」と呼ぶことにします)は、既存の運動を批判してもあまり意味がありません。既存の運動に携わる人たちが、新たな運動に費やすリソースを十分持っている場合は多くありませんし、人には向き不向きもあるからです。この場合は、当事者やその問題に関心を持つ人たちが新たな社会運動を立ち上げるのが最善でしょう。
 批判が重要な意味を持つのは、ある社会運動が別の側面からみた「弱者」に対してマイナスになっている場合です。例えば、ある社会運動による訴えや施策が、ある側面からみた「弱者」にはプラスになっているが、別の側面からみた「弱者」にはマイナスになっているような場合(これを「ジレンマ型」とします)や、ある社会運動の当事者や支援者が別の側面においては「強者」であり、その発言などが「弱者」に対する攻撃になっているような場合(これを「無自覚強者型」とします)には、「圧力を受けている当事者やそれに近い人からの指摘・問題提起」が社会運動のあり方の改善に寄与できるでしょう。

 「弱者男性論」によるフェミニズム批判の場合はどうでしょうか? 各記事のはてなブックマークなどでよく見かける批判の様式は「フェミニズムは『救済対象の選別』をしており、これは欺瞞だ」というものです。これを「フェミニズムが『弱者男性』に対して何も救済しようとしない」という「不在型」の問題と理解するなら、この批判は不公正の是正という点からみてあまり意味のない批判だといえます。
 一方で、この批判を「『救済対象』と認定した以外の人たちに対して『救済を求めること』自体を批判したり差別的に扱っている」という意味に理解するなら、これは「無自覚強者型」に近い話になり、(主張が妥当であれば)批判には一定の意味があるといえるでしょう。
 実際のところはというと、この2種類の批判が入り混じっている(そして両者の区別があまりなされていない)ように見受けられます。また反批判側も、両者を区別せず単に「不在型」の主張と受け取っている人が多いように思います。

 同様の不明確さは、最初に挙げた司馬光氏の記事にもあります。

自分たちが地位向上の運動をして、その結果女性の地位が向上する。その結果強者となる女性も出てくる。強者になるのだから当然他の弱者から要求が出てくる。しかし、彼女たちはそれをどのように受け止めれば良いかわからないし、強者としての応答義務を果たすということも理論化出来ずに居る。

つまり、地位向上の運動をするが、その結果として何が責任として生じるかに無自覚だったのだ。地位向上の運動が成功すれば成功するほど、女性たちはかって強者男性たちが居た場所を占めるようになり、自分たちがかって批判した「強者男性」にならないために何をなすかという理論が重要になってくる。

 「自分たちがかって批判した『強者男性』にならないために何をなすか」という一文を「『強者男性』のように更なる弱者を抑圧しないためには」と解釈すれば、確かにこれはフェミニズムにとって考えなくてはならない問題だと思います。しかし、「強者になるのだから当然他の弱者から要求に応えるべきだ」というのはそれとは話が違ってきます。
 仮に、「『強者男性』個々人が『弱者』である女性のために一定の負担を負わねばならない」のであれば、同様の負担を「強者女性」も負うべきである、という主張には妥当性があるでしょう。が、実際にはそのような規範は存在しませんし、フェミニズムはそのような主張をしてもいません。フェミニズムの「強者男性への」(正しくは、強者男性が多数を占める権力者への)訴えは、社会全体に対する「より公正な法や社会的ルールの形成」についてのものであって、「強者男性」個々人への負担を要求するものではありませんでした。「強者男性」は個人として何らかの負担や責任を負っているわけではありません。

 「フェミニズムは公正なのか」という最初の問いに立ち戻ってみましょう。フェミニストが例えば「性経験の有無」で男性を差別するような言動をしたとすれば、そうした振る舞いは「不公正」であり批判されるべきだ、と言えますし、仮にそのようなフェミニストフェミニズム支持者が多数を占めるのであれば、それはフェミニズム全体の問題として捉えることも可能でしょう。一方で、フェミニストが「女性にとって有益」な施策を進めているから不公正だ、と言うことはできません。それを否定することは「弱者への手当て」や「対抗権力の形成」自体を否定することになるからです。

 フェミニズムに対する「不公正ではないか」という疑念は、「弱者の利益・権力付与」と「社会的公正」は相反するもの、という発想を前提にしていると考えられます。このような前提を置くと、不公正の是正を目指す社会運動・活動のほとんどが「不公正」である、という結論が導かれざるを得ません。「弱者男性」にフォーカスした運動についても同様です。従って、そのような運動を諦めるか、「弱者男性にとっての利益誘導を目指す運動は社会的公正とは相容れない、それで何が悪いのか」と開き直るしかありません。それは、多くの人たちの関心・共感を得る機会を自ら放り投げることになります。
 こうした態度は、社会的公正に対する厳格さというよりむしろ、社会的公正へのニヒリズムと呼んだ方が的確ではないかと思います。ニヒリズムに陥ることを当人達だけの責任に帰すことはできませんが、それが当人達の首を絞めていることも間違いないでしょう。

 フェミニストが常に「公正な」言動・行動をしているわけではありませんし、フェミニズム運動による施策がある側面における「弱者」に対する圧力として働く場合も考えられます。それらに対して必要なのはニヒリズムを背景とする「フェミニズムの偽善・欺瞞」という漠然とした「批判」ではなく、具体的な事象に対する具体的な批判です。社会的不公正を追及するならば、まず「公正性」という概念を自分自身が信頼することが必要なのではないでしょうか。