脅しの道具としての「孤独死」

 昨年の暮れに、「30~40代がいずれ迎える「大量孤独死」の未来」という記事がちょっとした話題になりました。

千葉県のマンションに住む60代の男性は、孤独死してから半年間にわたって発見されなかった。男性の傍らには、犬と猫7匹が一緒に息絶えていたという。 (中略) この男性は、独身で一人暮らし。仕事はしておらず、親の遺産で生活していたようで、貯金は2000万円ほどあり、経済的には特に不自由ない生活を送っていた。

だが近所や親族との付き合いはなく、人間関係がほとんどなかった。

その結果として男性は、孤独死という事態を迎えたのである。

 記事では、自室で亡くなった男性と、一緒に死んでいたペットの様子がおどろおどろしく描写され、「ペットの多頭飼い」は社会問題であると強調されたのち、単身者の「孤独死」が今後増加するであろうという危機感を煽る文章で締めくくられています。

 この記事のはてなブックマークには少なからぬ批判が集まったのですが、その中には孤独死の一体何が問題なのか?」と突き放すコメントが相当数ありました。一方で、孤独死に開き直るのは自分勝手だ」という趣旨のコメントもみられます。

 こうした「孤独死(あるいは「孤立死」)の危機感を煽る記事というのはもちろんこれが初めてではなく、ネット上でも過去に何度も話題になっています。例えば、2016年の 『孤独死のリアル』著者・結城康博氏へのシノドスによるインタビューや、「本当に悲惨な独り身の最期」という匿名ダイアリーの記事などは比較的大きな話題になりました。
 「孤独死」の危機感を煽る記事には共通点があります。「孤独死」が増えるのはよくないことであり、独身者ないし単身生活者にそのリスクがある、ということをほぼ暗黙の前提としている、ということです。
 そのため、「孤独死」に対する危機感を煽る記事は、独身者ないし単身者をターゲットにした一種の脅し(場合によっては倫理的な非難)になりがちです。このことが、先に述べたような「孤独死」危機論への反発の背景にもなっています。

 私たちは、「孤独死」の問題にどのように向き合えば良いのでしょうか?
 それを考えるためにはまず、「孤独死」とされる事象について、何が問題とされているかを整理しておく必要があります。というのも、「孤独死」の問題は複数の論点にわたっており、それらが明確に区別されずに論じられていることが少なくないからです。



 「孤独死」問題の論点は、概ね4つに整理できます。QOLの問題」「医療機会の問題」「死後の衛生と負担の問題」「宗教的死生観の問題」です。それぞれ順にみていきましょう。

 まずは「晩年のQOLについてです。これは、「孤独死の何が悪いのおじさんが大量に沸いてるけど」という記事の主張が一つの典型といえます。

老人になって体の自由が利かずになった状態で
孤独な生活を数年、下手すりゃ数十年送るってことが孤独死の問題の本質だろ。
問題は「孤独死」じゃなく「孤独老人生」だってことなんだが、そこらへんはどう考えてるんだ?

 ここで問題になっているのは死そのものではなく、老後あるいは晩年に孤独な生活を強いられることによるQOL(Quality Of Life , 生活の質)の低下です。身体の衰えた晩年に単身で暮らさざるを得ないことで生活が不便になるとか、孤独な生活の寂しさ・侘しさといったものが焦点になっているわけです。

 次に、「医療機会を逃すことによる損失」の問題です。「単身生活者が自室内で突然の発作に見舞われ、助けを呼べなかったために救命治療を受けられずに亡くなってしまう」などの、医療を受けられれば助かったはずの命が失われてしまうという問題ですね。
 「孤独死の現場をフィギュア化した展示」を紹介するねとらぼの記事「若者の孤独死の死因は餓死が多い」と述べられていますが、これも「医療機会」の問題と関係しています。というのも、餓死の原因は「部屋から出られないこと」であり、その背景には鬱病などの精神疾患がある場合が多いと考えられるからです。自室で餓死によって亡くなった方の中には、精神科できちんと治療を受けていれば助かった人が相当数居る可能性があります。

 そして、「死後の衛生と負担」の問題。これは、「孤独死した人が長期間発見されなかったことにより遺体が腐敗するなどして、住居の所有者に負担がかかる」といった問題ですね。最初の記事で述べられているような「飼っていたペットが一緒に死んでしまう」といった問題や、遺品の処分などの問題もこれに含めます。これらは亡くなった当人以外が損失を被る問題なので、「孤独死に対する非難」に利用されやすい論点といえます。

 最後に、「宗教的死生観によって生じる問題」。これは何かというと、「無縁仏」などの、死後に供養やお墓参りをする人が居ない、という問題です。「東北大震災で死んだ人は幸せな死後を送っているよな」という記事で述べられているような、死後に弔ってくれる人が居るかどうかが幸福感を左右するという価値観の人に固有の問題といえます。

 これらの問題は、いずれも単身生活する人にリスクとして降りかかりやすいと考えられますが、単身者に固有の問題とは必ずしも言えません。
 例えば、晩年のQOLの問題は、単身生活でない人にも「子による虐待」や「家庭内での孤立」といったリスクがある一方、単身者も孤立した生活をしているとは限らず、一概に単身生活でない方がQOLが高いとは言い切れない部分があります。
 また、医療機会の問題についても、子が親を介護している場合に、子が急病で倒れた結果親が餓死してしまうといったケースや、家族の精神疾患への偏見のために医師にかかる機会がなく、自室に閉じこもった状態で衰弱死してしまうなどのケースがあり、単身生活でないから医療機会を逃さないとはやはり言い切れません。

 これらの問題を「孤独死」の問題として一まとめに扱うことには、良い点と悪い点があります。「名前を付けることで問題として可視化される」というメリットは小さくないでしょう。「孤独死」という概念があることで、行政が「孤独死の予防・対策」に予算を付けるといったことが行いやすくなり、医療機会の問題などの改善に役立つ可能性があります。
 悪い点の一つは、「孤独死」の論点を一まとめに扱うことで、それらが単身生活にのみ有り得るリスクであるかのように誤認されるおそれがあることです。それにより、単身者が不当に悪者扱いされたり、単身者以外のリスクグループが見落とされたりする可能性があります。

 私は、「孤独死」という言葉が人口に膾炙した現在においては、「孤独死」の各種の問題を一まとめに扱うことはむしろデメリットの方が大きいのではないかと考えています。各々の問題は、「誰にとってのどのような問題か」がそれぞれ異なりますし、考えうる対策・施策も異なってくるからです。



 さて、「単身者に固有の問題とは必ずしも言えない」とは言っても、単身生活の方がこれらのリスクがずっと大きいには違いなく、結婚して家族を作ればリスクは大幅に下げられるはずだ――このように考えている人は少なくないでしょう。そう考えている人たちは、「今現在単身者でない人が、今後もずっとそうであるとは限らない」という事実を失念しています。

 家族関係は、時間経過とともに変化し、個々人を取り巻く状況も変わります。自分の配偶者や子、親族などとの関係性が常に良好とは限りませんし、特に関係が悪化しなくても、相互に扶助できる余裕や物理的距離が保てるとも限りません。平均寿命の伸びた現在では、自分が晩年にさしかかった際に子が先に死亡している状況だって、さほど珍しくはないでしょう。
 晩年に至るまで「孤立せずに済むような人間関係を維持する」ことは、努力でどうにかなる問題ではない、ということです。うまくいくかどうかのかなりの部分は、運に左右されます。

 リスクを自身でコントロールすることが困難である以上、「今のままでは将来孤独死するぞ」というような脅しは、「孤独死」の問題に対して全く無意味です。「孤独死」の各種の問題は個人がどうこうできるものではなく、社会全体としてそれぞれに対策を考えていくしかない、と言えるでしょう。
 むしろ、「孤独死」をそのように脅しの道具に用いることは、「孤独死」の問題に対して有害であるとさえ言えるかもしれません。このような「脅し」の背景には、「孤独死」が当人の自己責任であるという認識があると思われるからです。しかし既に述べたように、「孤独死」を当人の責任に帰するのは無理があります。そして、そうやって「孤独死=自己責任」という認識を広めることは、社会全体として「孤独死」に関する種々の問題に対策を行っていくことへの妨げになりかねません。

 「孤独死」の問題は、どれも一朝一夕に解決するようなものではないでしょう。社会がどのくらいコストを負担するのか、どの程度の効果が見込めるのか、も見極めなければなりませんし、プライバシーとの兼ね合いも考えなくてはなりません。その意味でも、個人が出来ることは限られています。
 しかし、私たちが個人として今すぐ出来ることもあります。孤独死」を自己責任の問題として語ったり、脅しの道具に使うのを止めることです。