恋愛という概念装置(1)/二つの恋愛文化

 しばらく放置していてすみませんでした。掲示板での議論については、論点を再整理しようともしたのですが、あまり上手くいかないので諦めました。個人的に、「非モテを社会的弱者とみなすべきか否か」という問題設定自体に意味があると思えない、というのもあります。
 今回からしばらく連続して「恋愛」について(正確には「恋愛という概念装置」について)述べていこうと思うのですが、その前にまず前提しておかなければならないことがあります。

 それは「恋愛」という実体は存在しない、という前提です。正確には「存在するかどうか分からない」なんですが、そもそも「恋愛が実体として存在する」とはどういうことか、今の段階では定義しようがないため、ここでは「そのような実体は存在しない」と言い切ってしまいましょう。何を言っているかというと、平安時代の貴族の色恋と、明治時代の「恋愛」と、現代の「恋愛」が、それぞれ同じものである保障は無い、ということです。この意味は、論を進めていく内に自然と明らかになっていくと思いますので、今は詳しく説明しません。

 さて、掲示板の議論でも一貫して問題になってきた「恋愛への努力」について、非常に重要な論点を突いた記事がありましたので、今回はそれを紹介しましょう。草実スサ氏のこちらの記事、及びそれに対するショータ氏のこちらの記事です。

たとえば「愛」とか「恋」とか「尊敬」とかってのは、それを得ようとして得られるものではなく、副産物として手に入るものです。愛されようとして振舞われても興醒めだし、尊敬を勝ち得ようとして振舞われても滑稽だったりします。それらは、何か別のことを目指している途上で、なぜか手にしてしまうものなのです。
 「愛」とか「恋」が「副産物」!!
(中略)
 筆者である草さんが自覚的かどうかまではわからないが、上記には「ある悪意」がある。それは端的にいって「モテ的行為」への悪意だ。
(中略)
 モテを目指す青年は、モテるために勉強する。モテるためにスポーツに励む。モテるために化粧品に詳しくなる。モテるためにブランドものを着る。モテるために楽器をたしなむ。モテるために合コンに行く。

 モテるために膨大で貴重な時間を費やし、モテるために学ぶ。

 これらの行為は客観的に考えて非常に軽薄だと見られ、社会的行動として評価が低いことは知っている。「滑稽だろ?」と言われれば、自嘲気味に「滑稽に見えるだろうね」と答えよう。

 しかし例えば私自身は、これらの行為をただの一度も心から滑稽だと思ったことはない。

 上記の行為が真に「滑稽」に堕するのは、目的と手段が入れ替わってしまった時であり、私はそのプライオリティを間違えたことは一瞬たりともない、という確信があるからだ。

 私にとって「モテたい」とはあくまで手段であり、目的とは「愛する人に愛されたい」である。
 その目的のために、最適と思える手段をとっていたにすぎない。

 草実氏の意見は、私が以前、森岡正博氏に対して「(森岡氏の言う)モテへのアドヴァイスは無効である」と述べたことに近いのではないかと思います。すなわち、「個別の関係性ではなく、『恋愛』という概念自体を欲すること」への疑義が述べられているわけですが、ショータ氏の記事はこれへの反発となっています。「恋愛を、『モテ』を欲して何が悪い!」ということですね。

 しかし、両者は全くの正反対かというと、そうでもないようです。両者ともが「愛する人に愛されたい」という点を共有していることでも、それは分かるでしょう。方向性自体には、実はさほどの違いはないように見えるんですね。だとしたら、両者を分けているものは何でしょうか? それをショータ氏の記事の中に見ていきます。

 「モテるため(または愛されるため)の努力」が成立するには、「どうすればよりモテるか」が分かっていなければなりません。そして、そのためにはさらに「恋愛とは何か、愛されるとはどういうことか」をよく分かっている必要があります。でなければ、努力目標を明確に定めることが出来ないからです。
 ひとくちに「恋愛」といっても、その相手となる人によってそれぞれ関係性の形は異なるのだから、一般的に「恋愛」なるものはこれだ、と目標を定めることは出来ない。私ならそう考えます(おそらくは草実氏も)。ところが、ショータ氏はそうではありません。氏は「モテるための努力は可能だ」と言ってるんですから、氏にとっては「一般的な恋愛の形」はかなり正確に定めることが出来るもののはずです。

 ここからは推測になりますが、この違いを「属する文化」の問題ではないか?と考えてみると、話はかなりすっきりしてきます。すなわち、「スタンダードな(努力して到達可能な)恋愛の形式」がしっかり存在している場と、はっきりしない場とがあるのではないか、ということですね。ここでいう「場」というのは、文化的な階層クラスター)のようなものを想定しています。
 そこで、ショータ氏のような「恋愛の形式」を定まったものとして捉える文化を「モテ規範文化」、そうではなく「恋愛」を可塑性が高く偶発的な関係性として捉える文化を「純愛規範文化」と便宜的に呼んでみることにしましょう。

 「恋愛」はその人の持っている前提によって、その見え方が異なります。ヘボメガネ氏の「雷のようにある日突然やってくる恋愛」は、「モテ規範文化」の中では夢物語として語られるでしょうが、「純愛規範文化」の中では避けられない現実として語られることになります。


 実は、二つの「文化」はそう簡単には切り離せないと私は考えています。むしろ、両者が存在することにより相補的に「恋愛という概念装置」が構成されている、と考えます。これについては次回に譲ります。