「童貞差別」の背景と「対人性愛の特権性」

 少し前に、「童貞」をいじる(揶揄・侮蔑の対象とした言論活動)ことはセクシュアルハラスメントにあたるのか?という問題がインターネット上で話題になりました。

 発端は、フリーライターはあちゅう(伊藤春香)氏が過去に自身が受けたセクハラ・パワハラ被害を告発したことでした。この告発には大きな支持が集まったものの、kyoumoe氏による伊藤氏の過去の「童貞いじり」を含むセクシズム的な言説に苦言を呈する記事が書かれ、これに対する伊藤氏の反応が「セクシズム言説の自己正当化」と受け取られたことで、一転して伊藤氏に対して批判が集中しました。伊藤氏は「童貞いじり」について一端謝罪する記事を書きましたが、「本意ではなかった」として後に撤回しています。一連の流れはHagex氏によってこちらの記事にまとめられています。

 「セクハラやパワハラ被害を訴えた人が別の場面で差別的発言やハラスメントをしていた場合、ハラスメント被害を支援する立場からはどのように対応・行動すればいいのか?」という問題は、それ自体難しいジレンマを孕んでいると思いますが、今回はこの問題には触れません。今回考えたいのは、「童貞いじり」というセクシズムの背景についてです。
 ハラスメントに相当するかはさておき、「童貞いじり」が性差別的である、ということについては、ブログ記事やはてなブックマークのコメントなどを見る限り、この話題に関心を持っている多くの人が共有しているように思われます。そんな中でも、「『童貞いじり』はなぜ悪いのか」を論じて多くの人の注目と支持を集めたのが渡辺由佳里氏の記事でした。

はあちゅうさんがBuzzFeedでセクハラとパワハラを告白された #MeToo は、これまで黙っていた日本の女性たちに勇気を与える勇敢な行動だと思う。
私も大学に入学した18歳の頃から数多くの性暴力とセクハラを体験してきたので、他人事とは思えず、フェイスブックなどで支持してきた。

だが、その後、はあちゅうさんの「童貞いじり(ご本人自身の表現)」に関する過去のツイートを見る機会があり、これは彼女の勇気ある #MeToo とは別に問題として指摘しておくべきではないかと感じた。
(中略)
この異性間のハラスメントは、はあちゅうさんだけでなく、世間一般にまだまだ誤解があると思ったので、「なぜ童貞を笑いのネタにしてはならないのか」を説明してみたい。

 渡辺氏の議論が広く支持された理由の一つは、「『童貞差別』が性差別の問題として正面切って論じられず、軽んじられてきた」という意識が、少なからぬ当事者の間にあったことでしょう。「男性に対するセクハラ」の社会的認知度は、この数年で大きく変わりました。

 しかしながら、「童貞いじりはなぜ悪なのか」を論ずる渡辺氏の理路には論理の飛躍があり、この問題を扱うにあたってピントが外れている部分があるように感じられました。今回は、渡辺氏の記事の理路を批判的に検討しながら、「『童貞差別』とはどのような問題なのか?」を改めて考えてみたいと思います。



 渡辺氏の記事の理路においてまず目を引くのは、「童貞いじり」を「レイプカルチャー」「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」と結び付けて論じている点です。この点に説得力を感じた、という感想も多かったように思います。

多くの女性と性交渉をすればするほど「男らしい」。つまり、男としての価値が上がるという考え方も昔から存在する。
それが、男性の「初体験の年齢自慢」と「寝た女の数自慢」につながる。
(中略)
これは「セックスしたことのない男は一人前ではない。ふつうの男ではない」という見下げた視線が一般に存在するためだろう。特に、性体験が多い男性からの優越感が混じった蔑みの視線がある。
その視点なしには、「童貞いじり」は笑いのネタにはならない。
アメリカの若い男性は、以下の3つのタイプに分けられる。

(1) 女性を自分が利用する道具や物としか考えない男性
(2) 女性の権利を強く信じるフェミニストの男性
(3) そのどちらでもない中間層

(1)と(2)は少数で、大多数は(3)の中間層だ。

だが、(1)の男尊女卑のマッチョなアスリートは、崇拝されやすく、強い影響力を持つ。だから、(3)の集団は、(1)につい引きこまれてしまう。
実際に男性の「童貞」を笑うことと、人格があるひとりの女性を「セックスの対象」というモノにしてしまい、「●人と寝た」という数のひとつにしてしまう行為は程度が異なるように感じるかもしれない。しかし、根底にある認識の構造は同じようなものなのだ。

 確かに、「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」において、性経験の乏しい人が蔑まれるというのはありそうなことだとは思います。ですが、「童貞いじり」は「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」の中でしか生まれない、あるいは、そうした文化と必然的に繋がってしまうものだ、と言えるでしょうか?
 この繋がりについての渡辺氏の記述はやや曖昧ですが、引用した部分にもあるように「童貞いじり」の存在そのものが「性経験が多いほど価値が高い」という「男らしさ」の価値観なしには説明できないという前提が、これらを結び付ける論拠となっているように読めます。しかしながら、「童貞いじり」「童貞差別」の存在は、そのような価値観を想定しなくても容易に説明できます。

 「性経験に価値がある」という考え方は、必ずしも「性経験が多いほど価値が高い」「性的対象の相手は道具扱いすべし」といった発想と結び付いている必要はありません。こうした考え方よりもはるかに多数派である「女性をモノ扱い・道具扱いしたりせず、愛情と尊敬をもって接するべき」という思想と、「性経験に価値がある」という価値観とは、何の問題もなく両立します。「両立する」というよりむしろ、「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という思想は、「性的関係」が大きな価値をもつことを暗黙の前提にしている、と言った方が良いかもしれません。
 「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という考え方(ごく一般的な恋愛観・パートナー観と言っていいでしょう)は、「愛情を伴った性的関係が人格的陶冶に重要である」という発想としばしば結び付きます。ここから「愛情を伴った性経験のない人は人格的に劣っている」という偏見までの距離はごくわずかです。

 「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という思想は、単に多数派であるというだけでなく、私たちの社会において公的な制度(例えば婚姻)と結び付いてある種の特権的な地位を占めている、性に関する規範の体系です。例えば「愛情を伴った相手とのセックスは、自慰行為などの人相手でない性のあり方に比べて優位である」という価値観は、ほとんど自明のことであるかのように見做されてきましたし、今でも見做されています。
 そのような中で、「愛情を伴った相手とのセックス」から逸脱するような性のあり方は、繰り返し「対人セックスの優位性」を支える規範の内側へと回収されるように語られてきました。曰く、「社会病理」。曰く、「本当の恋愛を知らない不幸な人たち」。曰く、「本物の恋愛・セックスの代替物」。「童貞いじり」の多くも、そうした規範的な語りの一部であると捉えることができます。

 こうした背景に基づく「童貞差別」が、「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」との関連が薄いことはお分かりいただけるかと思います。「あの人は人格的に問題があるから童貞(あるいは愛情を伴った恋愛関係に乏しい)に違いない」と言い放つ人たちの多くは、普段からパートナーを道具扱いしているわけでも、「性経験が多いほど良い」と信じているわけでもないでしょう。このような差別の背後にある規範は、渡辺氏言うところの「マッチョな」規範よりももっと巨大で、ずっと大きな影響力を持っています。

 もちろん、「性的関係に大きな価値を置く」価値観それ自体が悪いというわけではありませんし、それが性経験のない人・乏しい人に対する差別的言説に即結び付くというわけでもありません。ただ、「女性をモノ扱い・道具扱い『しない』こと」、あるいは「性経験が多いほど価値が高いという価値観『ではない』こと」が、「童貞いじり」「童貞差別」と対極にあるわけでもなく、また、歯止めになりもしない、ということなんです。

 「童貞いじり」「童貞差別」には、渡辺氏の述べるような「レイプカルチャー」に端を発するものも中にはあるだろうとは思いますが、全部がそうではなく、「童貞いじり」が「レイプカルチャー」の一部であるというような議論は根拠に乏しいように思います。これは、なにも「童貞差別」を擁護したいわけではありません。「レイプカルチャー」という「悪者」に全てを押し付けることは、ごく一般的で広範な恋愛観・性愛を背景にもつ差別から目を背けることなのではないか、と問いたいだけです。


 渡辺氏の記事については、もう少し触れておきたいこともあるのですが、それについては別の機会にしたいと思います。