「オニババ化する女たち」にみる反・近代

 ちょっと間が空きましたが、今回は海燕氏のこちらの記事から。

 本田は「負け犬の遠吠え」を「オタクを嘲笑している」として批判する一方で、「オニババ化する女たち」には共感を示している。で、ぼくの感想はといえば、ちょうどその逆だった。

 「負け犬の遠吠え」はそれなりにおもしろかったけれど、「オニババ化する女たち」は――なんだ、これ。なんというか、これくらい突っ込みどころにあふれた本もめずらしい。
(中略)

 この本の特徴は、このとおり、全編が「セックス&出産至上主義」に貫かれているところにある。女の仕事はこどもを産むこと、それ以外はどうでもいい些事に過ぎない、仕事を選んで歳をとってもから後悔しても遅い、どうせたいした仕事じゃないんだからやめてもいいはず、とにかくあいてをえり好みしたりせず、だれでもいいのでさっさと結婚してこどもを産んでしまいなさい、という論調なのである。

 私の「負け犬の遠吠え」と「オニババ化する女たち」に対する感想は海燕氏と全く同じです。「負け犬の遠吠え」にはアイロニーが巧く使われていてそれなりに面白く読めますが、「オニババ化する女たち」はもう滅茶苦茶な論理の集大成という印象でした。しかしながら、本田透氏は「萌える男」で「負け犬」を批判しつつ、「オニババ」に共感を示しています。それだけならともかく、Amazonの書評を読むと、女性によると思われる好意的な評価がかなりの数に上るんですね。

 これが何故なのか、を考える前に、まずは「オニババ化する女たち」の論旨を簡単に追ってみましょう。この本の趣旨はおおよそ次のようなものになります。

  1. 本来、女性の身体には、子供を産み育て、次の世代を育てるためのエネルギーがある。
  2. かつて女性はそうした自らのエネルギーを感じる「女性の身体への感性」を持っていたが、現代女性はそれを失っている。
  3. 出産は現代女性が失った「女性の身体への感性」を取り戻す契機であるので、近代的な出産法などより伝統的な助産婦による出産が望ましい。
  4. まともな性経験や出産を経ずに生活してきた女性は、エネルギーの行き場を失い、性的不満を抱えてヒステリックな「オニババ」になってしまう。

 まず一見して分かるとおり、この本は異性愛中心主義を自明としており、セックスが苦手(または嫌い)な女性への偏見が随所に見られます。(「身体性を取り戻す」ためにはセックスは挿入によるものがよい、といった記述もあります。)また、「女性というものは柔和に、ぼーっとした雰囲気を持っているのがよい」という部分もあり、これだけ見れば、いかにも典型的な保守思想のように見えます。

 しかしこの本の副題は「女性の身体性を取り戻す」です。筆者は本文中で何度か「女性のエンパワーメント」を強調し、「母性」には何度も触れながら、父性ないし父権といったものにはほとんど言及していません。また、低年齢での妊娠・出産を支援・推進すべきだとする提言もしており、保守思想を前提にしているとは考えにくい(むしろ保守思想と対立するような)部分も多いんですね。そしてだからこそ、少なからず女性読者の支持者が出来たとも考えられるわけです。

 この筆者・三砂ちずる氏は、本気で女性のエンパワーメントを考えているんでしょうか? それとも、保守思想を誤魔化しているに過ぎないのでしょうか?



 この問題提起は、実は問題提起自体が誤りです。保守思想かフェミニズムかといった区分けは表層的なものに過ぎません。「オニババ化する女たち」は、一見女性のエンパワーメントを前提にした(ように見える)議論が、いかにとんでもない女性差別的な言説に化けるかという好例です。

 本来の女権拡張運動は、その名の通り「女性の人権」を問題とします。人権とは、近代社会を前提にしないと成立しない概念です。つまり、女性のエンパワーメントを真に主張したければ、近代的な人権と自由の概念に則る必要があるんです。ところが、一部の左派系の人間がこれと逆のことを主張する場合があります。すなわち「近代合理化社会が本来の人間らしさを奪った」として近代化を批判する立場に立つわけです。
 「オニババ化する女たち」もこれをしっかり踏襲しています。近代的な産科医療が女性から「女性の身体性」の感覚を損ない、近代的な経済至上主義が女性から「子どもを産むことの価値」を奪っている、と主張しているわけで、まさしく「近代化悪玉論」そのものです。

 上記のような「反近代」思想は、人権を制限ないし否定することに繋がります。「オニババ化する女たち」も例外ではなく、女性自身の意思決定よりも「近代以前にあったはずの女性性」(という幻想)を優先させようとするわけです。「女性性」をいかに称揚してみたところで現実の女性のためには何の役にも立たないんですが、個人よりも「女性性という概念」を優先する三砂氏には、このことが理解できません。

 というわけで、本書の内容はきちんと一貫しています。三砂氏の姿勢は全章通して「反近代」であり、それが「保守的」に見えたり見えなかったりするだけなんです。

 この本がベストセラーにまでなったのも、おそらくはこの「反近代」思想のためでしょう。先程も述べたとおり、「反近代」にとりつかれてしまう「サヨク」や「ウヨク」は後を絶ちません。近代的な社会生活に疲れている一部の人達にとって、「反近代」はとても魅力的な夢物語なんでしょうね。