「オタク」のアイデンティティを巡って

 今回は、方々で話題になっている岡田斗司夫氏のトークイベント「オタク・イズ・デッド」について、ゾゾミ氏のレポートを元に見ていきたいと思います。
 まずは本題に入る前に、kasindou氏の記事から少し引用。

ただ上でも書いたとおり、岡田氏は「おたく」から「オタク」の書き換えをして、オタクをポジティブなイメージに変えることに成功した中心人物ですし、そういう人が自ら「死」を語るときにセンチメンタルになることに対して、ワカランと一言で斬って捨てることは僕には出来なかったですね。
(中略)
岡田氏のいうオタクとは要するに共通概念としてのオタクであり、それが死んだと語ったわけです。深い浅いは個人の自由だけど、アイデンティティの問題に終始する第3世代を果たしてそれは今までと同じオタクと呼んでいいのか?ということだと思います。

これは去年・今年のオタク大賞でも語られてたテーマでした。

 もともと「おたく」という語は、マイナーな趣味に没頭する人を揶揄する差別語として使われていました。kasindou氏によれば、岡田斗司夫氏はこれをポジティブなイメージの「オタク」に変換させた人物の一人であるわけです。岡田氏の戦略は、「オタク」を連帯可能な共通概念を共有するグループとして位置づけることでした。このことは、「好きなものを自分で決められる知性と 偏見に屈しない精神力を持っている人たち」という岡田氏流の「オタク」の定義によく表れています。

 岡田氏の想起した「オタク」とは、このような「オタクとしての矜持」を維持するものでなくてはなりませんでした。岡田氏は「オタク」を第1世代・第2世代・第3世代に分類し、自らを第1世代であるとしています。ゾゾミ氏のレポートによれば、次のようにまとめることができます。

・第1世代(現在の40代): 「オタクは『違う』」=貴族的
・第2世代(現在の30代): 「オタクは『偉い』」=エリート的
・第3世代(現在の20代): オタクであることの矜持を持たない世代
(ただし、上記分類にオタク女性は含まれない)

 「貴族」にせよ「エリート」にせよ、「オタクは特別である」と言っている点では一緒です。そして、これらがいずれも「オタク差別」の裏返しの現象であることは言うまでもないでしょう。そしてこれは同時に、必然的に選民思想でもあります。上記定義の裏を返せば、「オタクでない人」は「好きなものを自分で決められない愚民」であることになります。この種の選民思想は、過去のオタク論においてうんざりするほど見ることが出来るでしょう。

 いずれにせよ、「オタクジャンル」が広がるにつれ、こうした「選民思想」は根拠を失っていきました。このことは小飼弾氏からも指摘されています

自我の成立に他者が必要なのが自明なのと同じぐらい、「オタク」の世界では「世間」が重要な役割を果たしていた。オタクという自我が成立するためには、「非オタク」の存在が必要なのだが、かつては「世間」と同義だった「非オタク」が、「オタク界」の拡張とともに、「他のことに興味を示す者」、すなわち「他のオタク」も指すようになり、かつてはオタクを「仲間」として扱っていた別のオタクが、まるで「世間」を扱うがごとくお互いを扱うようになり、ついには自分の世界に「ひきこもる」ようになり....というのが「オタク・イズ・デッド」で岡田氏が主張するところではないかと勝手に解釈した。Webに上がったレポートを見る限りでは、そう受け取れる。

 岡田氏言うところの第3世代のオタク(私も含む)には、もはや選民思想を掲げることも、連帯することもできません。個々の「オタク」間の差異と断絶が広がりすぎてしまったからです。
 岡田氏は第3世代のオタクを「オタク=アイデンティティの問題」であるとしていますが、第1世代や第2世代のオタクも広い意味ではやはり「アイデンティティの問題」であって、両者の違いは自己をアイデンティファイする際の優先順位や姿勢の違いでしょう。第1・第2世代の「オタク」達は、自らのアイデンティティを「オタク文化」の連帯の中に委ねたわけです。

 岡田氏は「文化とは誇りや義務感で維持するものだ」としていますが、これは「オタク文化」による連帯の中に自らのアイデンティティを委ねてきた、岡田氏自身の実感に基づいたものではないかと思います。帰属意識の根拠としての「オタク文化」を考えるなら、そこには確かに誇りや矜持が必要なのかもしれません。しかし、「文化」をそうした側面だけから捉えるのは、あまりに狭い見方ではないでしょうか? 「オタク文化」を構成していた様々な個々のジャンルの文化や作品は、それを好きであるという人がいる限り滅ぶわけではありません。「オタク」という言葉そのものは消えてしまうかもしれませんが。

 岡田氏はしかし、こうしたことをおそらく全て了解しています。ゾゾミ氏のレポートの最後のページを読めば、そのことがしっかり読み取れます。

(でも差別ってまだあるしさ、周りにわかってもらえなくて不安ってのもあるしさ。)
「オタクであることは楽しい」とも「正しい」とも、もう誰も言ってくれない。

じゃあ、僕らにできるのは何かっていうと(もしかするとそれがイヤで、さんざん逃げてきたかもしれないけれども)自分の「好きなこと」をわかってもらうしかない。だって、もう誰も「楽しい」とか「正しい」とか言ってくれないから。もう「個々に」「個人が」これをするしかない。

僕は、「オタク=仲間」って思っている。
でも、人に「これが好き」って言うのはすごくいいことだし、そうやって人に伝えるしか僕らにはない。

これ(私達が好きなもの)は、私達が「オタク」だから選んだんじゃない。
私達は「それが好き」だから、選んだんです。


 岡田氏がしようとしてきたことは、「仲間を助ける」ことだったのでしょう。しかし、「オタク」はもはや「仲間」ではありえません。岡田氏の「オタク」概念とは、「私達が好きなものは、私達が『オタク』(=特別な人間)だから選んだのだ」というものでした。岡田氏は、それが今やレトリックとして無効であることを知っています。
 「オタク・イズ・デッド」は、氏自身の誤りを認めた上で、「オタク」と呼ばれた人々への肯定的なメッセージを発しようとしたもののように私には思えました。