恋愛感情を「普遍」とみなすことは何が問題か?

 前回の続きです。
 素朴な疑問氏からは複数の反応エントリがあったんですが、最もまとまっているこちらの記事から見ていきましょう。記事の最初にある「前提条件」は自明の内容だと思いますので、特に言うことはありません。問題はその次です。素朴な疑問氏が恋愛感情を定義した、以下のくだりから。

「ある存在が他者に対して抱く情緒的で親密な関係を希求する感情」
と拡張する。その理由は、前提条件および「感情」の定義、動物も人間も同じ「脳」という器官の生化学的反応によって行動する動物であること、および現実に起きている非ヘテロセクシャリティが存在するという現実から、「人間」や「男女」に限定する理由がないからである。
さて、ここにおいて、「恋愛感情」というものは、「ある存在が他者に対して抱く情緒的で親密な関係を希求する感情」と定義できた。
さて、これは人間・動物において普遍であるのか、一部の存在しか持っていない感情なのか。
前提条件から、脳の生化学的反応によって行動が規定されるのが人間も含めた動物である。
そして、「感情を持つ」というのも、脳の生化学的な反応の一つと言える。

 ある概念について語るのにまず「定義」を述べるのは自然なことですが、「どんな定義でもよい」ということにはなりません。「恋愛感情」のように日常的な概念の場合、日常使われる意味からあまりにかけ離れていると問題があります。

 こうした点で見ると、上の定義には問題があります。「ある存在が他者に対して抱く情緒的で親密な関係を希求する感情」を恋愛感情であると言ってしまうと、親子間の愛情と恋愛関係の区別がつかなくなってしまうんですね。一般的に、親子間の愛情・愛着は恋愛感情とは明確に区別されますから、この定義はあまりに広すぎます。(前回述べた「概念を破壊してしまう」とは、こうした意味合いのことを指しています。概念を無闇に拡大すると、その概念自体が意味をなさなくなってしまう場合があるわけです。)

 しかし、素朴な疑問氏はこの「定義」をそのまま「恋愛感情の定義」として用いているわけではありません。実際、氏はこの後の文章で次のように述べています。

つまり、根源的な欲求の一つの発露にしか過ぎない感情であっても、それが自己的に/他者的に、「恋愛感情」と表現される状態に観測されうるのなら、それは、恋愛感情なのである。
さて、あたらめて、「恋愛感情」の構成要素を見てみよう。
・感情は、単一もしくは複数の欲求を満たしたいという情念である。
・恋愛感情は、「恋愛感情を充足したい」という欲求、それを満たしたいという情念である。
・恋愛感情を構成する欲求は、根源欲求のうちの一つ、もしくはそれ以外の欲求も含めた、複数の欲求群である。

ここにおいて、恋愛感情に「根源欲求」をその要素としていることから、人間のみならず、動物にも存在する感情であると推論する事は難しくない。

つまり、「恋愛感情」というものは、それが実体としてどのようなものであるのかは、個体個体の「欲求」の構成によって変化しうるが、「恋愛感情がある」ということ自体は、人間/動物関係なく、普遍的に存在するものである。

 引用部分の最初の行が最も重要です。この一節は「恋愛感情」の実体は個体により様々に異なるが、「恋愛感情と表現される状態に観測されうるなら」恋愛感情である、とまとめることができます。これが事実上の素朴な疑問氏による「恋愛感情の定義」でしょう。すなわち、ある感情が恋愛感情であるかどうかは「恋愛感情と表現される状態に観測されうる」ことによって決まるわけです。

 さて、「恋愛感情が実体として存在する」とはどういうことでしょうか? 素朴な疑問氏の主張を敷衍するなら、それは「脳の生化学的な反応として同一、あるいは相似とみなせるもの」ということになります。これは特におかしな主張ではありません。問題は、「脳の生化学的反応として本当に相似なのか」という点ですが、これは資料不足で何とも言いようがありません。重要なことは、「恋愛感情と表現できる状態に観測されうる」ことと「生化学的反応として相似」ということとは全く別という点です。

 「生化学的反応としてどうなのか」がはっきり分からない以上、「恋愛感情かどうか」は専ら「外からの観測」によるしかありません。そして、こと「感情の観測」となると、観測者の主観に大きく左右されることは避けられません。

 例えばこれを「恋愛感情」ではなく「母性愛」で考えれば、幾らか分かりやすくなるかもしれません。
 自分の子に対する母親の反応を「母性愛」または「母性本能」という概念で一般化することは、かつては当然のようになされてきたことでした。その際、様々な動物の子育ての事例などが引き合いに出されることもありました。しかし現在では、例えばツバメの子育てと人間の子育てでは、「神経の反応」のレベルで大きな違いがあることが明らかになっています。「外からの観測」があてにならないことの好例でしょう。
 概念についての話をする際には、「実在するとはどういうことか」を問い直さなければならないわけです。「母性愛」という概念が存在するから「母性愛」は生化学反応的に実在する、と言えるでしょうか? もちろん否です。とすれば、「母性愛」はどのような意味で「実在する」と言えるのでしょうか?

 このように考えていくと、「恋愛感情」の実在性がかなりあやふやなものであることがお分かり戴けると思います。「恋愛感情は実在するか?」という問いは、「『恋愛感情』というカテゴリーは、感情や精神の動きのあり方のカテゴライズとして適切か?」という問いに読み替えることができます。あまりにも異なるものを同一の集合の枠にあてはめているとすれば、「カテゴリーとして適切かどうか」が怪しくなるわけで、そこで「どのような意味でのカテゴライズなのか」が問われることになるわけです。私が問うているのは「定義の齟齬」ではなく「定義自体の適切性」です。

 この場合、「恋愛感情」を「脳内における一定の生化学的反応のパターンの集合」として考えるよりも、「個々人が『こういうものが恋愛感情である』と見なしているところの『恋愛感情という概念』」の「語られ方」を見ていく方が、はるかに間違いが少なく確実だと考えられます。「語られ方」についてであれば、史料文献やフィールドワーク等によってある程度確かな情報が得られるからです。人文・社会科学系の学問の多くが「恋愛」を「実在するものの概念」としてよりも「語られた概念」として扱っている理由も、おそらくこの辺りにあります。



 長かったですが、ここまでが前置きです。ここからは、「人間以外の動物をも含む普遍的な恋愛感情」という形での概念整理にはどのような問題点があるか、ということについて述べていきます。

 簡単に言えば、「恋愛感情」を「普遍」とみなすことによって見落とされるものがあまりにも大き過ぎる、ということです。例えば、江戸時代に書かれた悲恋物語と近代以降のそれを同一視することによって、そこにある大きな落差が見過ごされてしまうんです。
 大野氏がこのエントリで少し触れておられますが、江戸期の性愛文化の中における「色道」は遊郭文化と切っても切り離せないものでした。明治に入って北村透谷は、「色道」に対抗する性愛のあり方として、精神主義的な意味合いを込めて「恋愛」を提唱します(日本語として「恋愛」が使われるのは明治以降)。ここにおける「恋愛」は性愛一般のことではなく、ある特定の「性愛のあり方」を指しているイデオロギーの一種であることが明らかです。

 私が「恋愛感情」という語を「普遍的に」用いることに違和感を感じる理由の一つがこれです。世間一般的に使われている「恋愛感情」という言葉は、多かれ少なかれ北村透谷の精神主義的恋愛観を引き継いでいます。このことは、単に定期的に性交渉をするだけで精神的な関わりの少ない関係が「セックスフレンド」として区別されていることでも分かるでしょう。「恋愛」は近代以前にもあったとする小谷野敦氏も、こうしたことを踏まえた上でそう主張しているわけです。
 「恋愛」という言葉には、そうした価値判断が否応なく含まれてしまいます。従って、「普遍的な恋愛感情」という概念の枠組では、日常的なレベルでの「恋愛」という言葉と齟齬をきたしたり誤解を生じさせる可能性が高いと思われます。それでも敢えて日常レベルと異なる意味合いで「恋愛」を用いる、というのも可能ではありますが、敢えてそうする意義が私には分かりません。

 また、概念を広く捉えた場合、かけ離れた事例が同一のカテゴリーに組み込まれてしまう、という問題もあります。例えば、広義のAセクシュアル(無性愛)の人の中にも「恋愛感情」を感じる人が居ますが、そうした「感情」は果たして「人間以外の動物」の「感情」と同様に扱ってよいのでしょうか? この場合、「恋愛感情」を広い枠で捉えるよりも、両者を別個に扱った方がずっとすっきりします。

 このように、概念とは恣意的に定義するものではなく、目的に応じた概念と定義を用いるものだと私は考えます。「雪の結晶」を様々な形を許容して一つのカテゴリに納めるのは、そうした方が雪にまつわる諸現象を理解しやすいからです。蛸と蜘蛛は共に足が8本ですが、これらを同一の概念に分類することにはあまり意味がありません。
 「恋愛」を近代から使われ始めた言葉として考えることにも、一定の意味があります。「恋愛」に人々が込めた意味も分かりますし、また「恋愛」という概念を独立させることで、「奈良・平安時代の恋歌」に語られる色恋と現代的恋愛とはどこが同じでどこが違うのか、といった比較も可能になります。
 そのように考えていったとき、「普遍的な恋愛感情」という形での概念の枠組にどのような意味があるのか、というのがどうしても見えて来ないんですね。


(3/9追記
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