恋愛感情は「普遍」ではない(2)

 前回の続きです。まずは前回説明不足だった、「本能」という言葉についての補足から。

 動物行動学においては、動物の行動は大きく分けて「生得的な行動」と「後天的な行動(学習)」に大別されます。このうち、生得的な行動を説明するために作られた心理学的概念が「本能」で、ある程度複雑化した生得的行動を「本能行動」と呼びます。
 しかし、生物学の進歩により、「本能行動」の仕組みが「信号刺激によって生じる一連の機械的な)反応の連鎖」であることが分かってきたため、曖昧な「本能」という概念は不要になりました。現在、行動学や心理学で「本能」といえば、単に「本能行動」=「生得的な行動」のことを指します。

 現代では、「本能」という概念は(生物学や心理学と無関係な)単なる比喩的表現として使われる場合がほとんどです。ところが、「本能」という言葉を多用する人ほど、「本能」を比喩ではなく、真に生物学的な概念だと勘違いしている場合が多いんですね。

 前回は「本能」を「本能行動」と同義とみなして説明したため、却って混乱を招いたようです。ともあれ、「恋愛感情は本能である」という記述は(生物学的観点から見る限りは)有り得ない、ということは理解して戴けると思います。「本能」という言葉を新たに定義し直せば話は別ですが、それは既に「生物学」ではありません。



 「本能」についてはこれくらいにして、本題に入りましょう。前回記事のコメント欄と、素朴な疑問氏のこちらの記事のコメント欄から。

恋愛自体中世の歴史から始まった文化的価値なのだから、普遍であるはずはないのに。
(nodada氏のコメントより)
「恋愛」および「恋愛感情」が、真に「文化的に発生した」のなら、それも「近代に起きたもの」なら、それがなかった時代もあるわけだし、それが無い文化も存在していないとおかしいわけで。で、烏蛇氏のところでコメントされているクィアの方の言っていることが正しいのなら、近代になって、「恋愛」は日本に「輸入された」ことになる。じゃあ、それ以前の、例えば、源頼朝北条政子の関係や、源義経静御前の関係は、なんなんだ、と。吾妻鑑や義経記を読む限り、2人の関係・間柄に「家との結びつき」以上の、別の感情があったと読み取るのは自然なことなんですがねぇ。
(素朴な疑問氏のコメントより)

 「恋愛は近代的概念である」という記述に対し、素朴な疑問氏のような疑義が出るのは無理もないところではあります。しかしながら、この疑義自体があまりにも「恋愛」に寄り過ぎた考え方の所産なんです。

 まず、私達はどんなものを「恋愛感情」と呼んでいるのでしょうか? 「恋愛感情」という感情の様態には、確かにある種の共通了解があります。しかし、自分が感じている「恋愛感情と呼んでいる感情」と、他人が感じている「その人が恋愛感情だと思っている感情」が一致している保障はありません
 それにも関わらず「恋愛感情」という共通了解が出来得るのは、「恋愛」概念が一定の形式を持って了解されているからです。つまり、私達は「自分の持っている感情」のうち「恋愛という形式」に合致するものを「恋愛感情」と呼んでいるに過ぎないわけです。

 見方によっては、源義経静御前の関係性に、現代の「恋愛」と同質のものを読み取ることも出来るのかもしれません。しかし、現代の「恋愛」という概念自体が、既に一定の現代的価値観(例えばモノガミズム)を纏っています。とすれば、「恋愛」という言葉のなかった時代の人達の関係性に、「恋愛」という現代的価値尺度をあてはめることは果たして妥当でしょうか?

 この問題は、「人間以外の動物に恋愛感情はあるか?」という問いを考えれば、さらに明確になります。この問い自体が、「動物の感情」を勝手に人間の尺度で捉える一種の「擬人化」に他ならないんですね。「近代以前にも恋愛はあった」「人間以外にも恋愛はあるはずだ」という形で「恋愛」という概念を無闇に拡大していくことは、結局このような「擬人化」に帰するか、あるいは「恋愛」という概念自体を壊してしまうことにしかなりません。

 こうした無意味な概念の拡大を避けて「恋愛」を定義しようとすれば、「恋愛という概念」が「社会の中でどのように使われているか」を見ていく他にないわけです。そして、この考え方なら、「普遍的な恋愛感情のフレーム」というあるかどうかも分からない代物を前提する必要はありません。

 逆に言えば、「普遍的な恋愛感情のフレーム」を前提して論ずる態度そのものが、「恋愛普遍主義」の一つの現われであるとも言えるわけです。「恋愛感情の普遍性」を前提する限り、「恋愛」という概念の内に含まれるイデオロギー性から逃れるのは困難です。クィア理論が敢えて「恋」や「愛」という言葉を避けた「性的指向」という言葉を用いるのも、「恋愛という概念」のイデオロギー性を警戒しているから、という一面があります。

 自身の感情について「これは恋愛感情なのか、そうでないのか」と悩んだ経験のある人は少なくないでしょう。「恋愛感情」が「普遍的に定義されうる」ものならば、「こういう場合は恋愛感情、こういう場合は恋愛感情ではない」とはっきり線引きできることになります。
 「恋愛感情」が曖昧な共通了解でしかないとすれば、こんな「線引き」はできるはずもないし、必要もありません。「恋愛感情かどうか」は各人が自己言及すれば良いわけです。「自分のセクシュアリティ」が、最終的には本人の自己言及に依らざるを得ないのと同じように。


(3/9追記
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