「非モテ」に「モテへのアドヴァイス」が無効である理由

 前回の記事について、muffdiving氏から詳細な批判があったので、お応えしていきます。

 まず先に言うと、muffdiving氏の批判は基本的に正しいです。前回の記事はちょっと「非モテ」側に寄って読み込み過ぎだったので、その点を指摘されるのは尤もなところですし、論旨とずれている記述もありました。それらとは別に「結論」をきちんと読み取って戴けたことには感謝します。

 前回の記事の最もおかしな点は、私が「非モテ」を前提に話をしようとしていながら、「非モテ」についての説明を欠いていたこと、森岡氏の言説の「通常レベルでの妥当性」と「非モテレベルでの妥当性」の区別をしていなかったことでした。なので、(前回の反省も込めて)今回はまず「非モテ」を名乗る人達の特徴から話を始めようと思います。



 「非モテ」の由来については以前にも語ったことがあるのですが、そこでは「恋愛(交際)経験がなくモテない人の自称」と定義していました。しかしこの認識だけでは不充分であり、もう少し踏み込んで述べると次のようになります。
非モテとは、恋愛経験がなくモテない人であり、かつ、自己評価が低くコミュニケーションに自信がない人のことである。そして、両者は補完関係にある。
 非モテ男性喪男の一部がミソジニーに陥るのは、この「自己評価の低さ」の裏返しという面があります。要するに「自信がないから(あるいは怖いから)攻撃的になる」ってことですね。もちろん褒められたことではありませんが、こうした特徴を認識しておくのは重要です。
 もっとも、攻撃的になる「非モテ」はあくまで一部です。しかし、攻撃的でない「非モテ」も、「恋愛」に対する「恐怖」の量自体は「ミソジニー喪男」と実のところ大差ありません。

 彼らの多くは、「恋愛経験がない」ことと「自己評価が低く、自信がなく、コミュニケーション能力が低い」ことをセットで考えています。逆に言えば、充分なコミュニケーションスキルがあって自己評価が高く、豊かな人間関係を築いている人は、たとえ恋愛経験がなくとも「非モテ」にコミットしないんです。反対に、たとえ恋愛経験があっても、コミュニケーション能力が低く(自分でそう思っているだけ、というのも含む)自己評価の低い人は「非モテ」に共感しやすい傾向があります。

 このことを念頭に置きながら、muffdiving氏の「修正モテメソッド」を見てみてください。

 相手に好意を寄せられたいんだったら、まず相手がナニを求めてるのか相手の立場に立って観察することが最低条件で、その上でどういう振る舞いをすれば相手の好感度が上がるかという戦略を立てて相手にそう振舞うことで、相手の気を引くことがやりやすくなる。そして、相手の気持ちを観察することで、相手が自分に対してどういう気持ちかを把握できるわけなんで、あまりにも脈がないときは引き、他の相手を探すという選択もある。
 失敗経験も自分の実にして、それを繰り返していくうちに、コミュニケーションスキルが向上し、ゲットしやすくなる。

 ここでは「相手の気を引く」ことが大前提になっていて、はっきりそう明記されています。つまり、最初から「恋愛関係に至ることを目指してトライ&エラーを繰り返せ」と言われているわけです。この点はもちろん森岡氏の元々の「モテメソッド」も同じです。

 「コミュニケーションスキルはトライ&エラーを繰り返すことで上達する」というのは全くその通りなんですが、「恋愛」という要素が入った場合、「非モテ」にとっては大問題となります。なぜかというと、彼らが「恋愛経験」と「自己評価」あるいは「自信」を連結して考えてしまっているからです。

 元々、安定した信頼性の高い人間関係を築いている人は、恋愛の「失敗」に対しても比較的容易に立ち直ることができますし、それによって自己評価を大きく下げることなく適度に「反省」して次に生かすことができます。そういう人は、「恋愛」に全てを賭けるといったことをしないため、恋愛に過度に依存することも少ないと言えます。
 ところが、「非モテ」の多くは元々の人間関係に不安や不信があるため、そのように考えられない場合が多いんです。彼らは、「恋愛」を「自己評価を高めるためのステップアップ」のように考えてしまうことがしばしばあります。その結果、恋愛の「成功・失敗」を自己評価に直結して考えてしまうんですね。「非モテ」が「恋愛の失敗」にやたら拘るのはこれが原因です。「恋愛」に自分の実存を賭けてしまうため、0か1かの見方しか出来なくなってしまうわけです。

 こうした考え方のおかしさは押井徳馬氏の記事でも指摘されている通りなんですが、「恋愛経験」と「自己評価」を繋げて考えるということを止めない限り、なかなかこの手の発想からは抜けられません。
 「恋愛」によって「自己評価を高めよう」という発想の行く先には、「恋愛依存」という落とし穴が待っています。「愛されているから自分には価値があるんだ」と考えてしまうことで、「恋愛に失敗すれば自分は無価値である」という恐怖を新たに生み出してしまうわけです。これがどのような弊害を生むかは、敢えて説明する必要はないでしょう。「非モテ」が「恋愛できれば解決する」とは言えない所以です。

 「そんな奴が恋愛しようなんて思うこと自体駄目だろ」と思った方、大正解です。非モテ」に恋愛を勧めてはいけません

 とはいえ、コミュニケーションのトライ&エラーを繰り返さないことには、「相手を大切にするためのスキル」を学びとることも出来ませんし、自己評価を適切なレベルに引き上げることも難しいわけです。だとすれば、それは恋愛以外の場から学ぶしかありません。すなわち、非モテ」は「恋愛を諦める」ことからスタートしなければまともな恋愛には至れない、ということです。そのためには「一人の相手だけを大切にしよう」というアナウンスはまずいわけですね。



 森岡氏はアドヴァイスする相手を間違えているのではないか、と私は思っています。

「恋愛したい」「モテたい」と心から思っている男の子に対して、私はアドヴァイスをしてあげたい。(これはモテなかった若き日の自分自身に対するunfinished businessという意味もあるのだろうと私は思っている)

 「モテなかった若き日の森岡氏」が抱えていた問題と、今の「非モテ」を名乗っている人達が抱えている問題は、おそらく全く別のものです。若い頃の森岡氏は、上で述べたような「非モテ」では元々なかった(それなりに自己評価が高くコミュニケーションスキルもあった)のではないでしょうか?

 そもそも「恋愛したいと心から思っている」とはどういうことでしょうか? 特定のある相手と「恋愛関係を築きたい」というのなら分かります。しかし、特定の相手が居るわけでもないのに「恋愛したい」とは? その「恋愛」とは一体何なのでしょう?

 muffdiving氏は以前の記事で、次のように述べておられます。

 基本的に恋愛したいからじゃなくて、その人が好きで付き合いたいっていうモチベーションが昂じて恋愛になると思うのだが、どうだろうか。

 その辺抜きにして恋愛煽るマスコミにはちょっと違和感感じてるんだよな。
 正直言って、「恋に恋してる」のはティーンエイジャーだけで十分だと思うし、いい年こいてそれじゃ痛いって。
 何か「恋してる自分が好き」って感じだしね。むしろ「あなたが好き」が原動力にならなきゃただのオナニーだと思うが、どうだろうか。

 これに私も全く同感なんですが、森岡氏にはこの視点が欠けているように思えます。
 「恋愛したいと心から思っている」と思っている人達とはどんな人達でしょうか? 「非モテ」を含め、概ねこうした「恋に恋してる人達」ほど、「自分は恋愛したいと心から思っている」と考えがちです。とすれば、このような人達に「恋愛するためのアドヴァイス」なんて要らないでしょう。「恋に恋してないで別のことすれば?」とでも言えば済む話です。

 森岡氏のようなアドヴァイスは、有効な場合ももちろんあります。たとえば、恋愛関係にはあるものの、「恋愛の形式」だけを重視してお互いのことを充分に理解しようとしていない場合や、恋愛関係が長続きしない、といった悩みなどです。しかし、「恋愛」にほとんど触れてもいない状態で「恋愛という名の重圧」に悩んでいる「非モテ」に対して、それらと同じアプローチでは意味がないわけですね。

 今回の話は、「非モテ」が内面化している恋愛至上主義の解説でもあります。森岡氏が問題にしておられる「恋愛至上主義に加担せずに『恋愛』を支援する」という立場にとって、何らかの示唆になれば幸いです。


今回のまとめ

      • 非モテ」とは、「恋愛経験の低さ」と「自己評価の低さ・自信のなさ」を繋げて考えてしまってる人達です。
      • 非モテ」にとっての「恋愛」って、自己の再確認のための道具でしかないんだよね。
      • 非モテ」は「恋愛以外の場」でトライ&エラーするしかない。とりあえず恋愛は脇に置いとこうよ。
      • 特定の相手もいないのに「恋愛したいと心から思ってる」ってお前それ、恋に恋してるだけだろ。
      • 森岡氏のアドヴァイスは、「既に恋愛関係にある人達」に対してはおおいに有効です。



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(7/13 追記

 この記事の記述は、森岡氏の言説に対する誤った解釈に基づいて書かれている可能性が高いです。こちらの記事を参照してください。