モテへのアドヴァイスは成立しない

 「モテ」に関する森岡正博氏の新たなエントリに対して、あの「もてない男」の小谷野敦氏が言及しておられるようです。

私の言うモテとは、次のことである。「モテるとは、自分のほんとうに好きな一人の女から特別な好意を寄せられることである」(←ここ変更しました)。そしてこのような意味でモテるためになすべきことは、「その一人の女のことを心から大切にしたいと思っている」というメッセージを、その女のもとに届けることである。そのときに、注意しておかなければならないことがいくつかある。たとえば安全の確保、女の身になって考える、話をよく聴く、そしてその女ひとりだけに集中する、などである。これらについてのさらに詳細なアドヴァイスは、男の子たちにとって有益であろう。(キモい顔はさほど問題ではない)

モテる男とは、このように考えることができ、このように行動することができる男のことだ。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070609

 森岡正博、偽善家ぶりはまったく治っていない。「好きな女の子を心の底から大切にしてあげればその子から好きになってもらえる」なんて、昭和三十年代の若者が信じて裏切られた真っ赤な嘘ではないか。もう、そういう偽善に耐えられないから対談は断ったのである。

 だいたい、タバコの煙が嫌だから対談を断るなんて、「無痛」を選んでどうするんだ。苦痛にまみれつつ生きていくのがまことの生ではないのか、森岡
『さっそく小谷野先生が反応してくれてます。小谷野先生も、まったく偽悪家ぶりは健在ですね。引用された命題は、けっして真っ赤な嘘じゃございませんよ。冷静に人間観察すればそのくらいのことは分かるもの。小谷野さんが対談を断わったときに、編集者に言った理由というのも、実は私はちゃんと聞いているんですけどね、うふふ。あと、「無痛」に関しては、典型的な誤読コメントだね。』 (2007/06/11 22:30)
(G★RDIASでの森岡氏のコメントより)

 両氏は「もてない男」の時点で何やら因縁がある模様ですが、どうでもいいことなので省きます。

 小谷野氏の指摘は的確だと思います。昭和三十年代の若者が信じたかどうかはともかく、「〜していれば自分のことを好きになってもらえる」という命題は一般的には全て誤りです。(もちろん、厳密に考えれば、の話ですが。)
 森岡氏はそれに対し、「冷静に人間観察すればそのくらいのことは分かるもの」とコメントしています。森岡氏には「好きな女の子を心の底から大切にしてあげることで、好きになってもらう」自信があるんでしょう。これは、「冷静に人間観察すれば相手の感情を操作できる」と言っているに等しく、どこからそんな自信が生じるのか私には全く理解できません。


(※ この部分について、muffdiving氏から「元記事の内容を捻じ曲げている」との指摘がありました。確かに、この部分を「文字通り」に読むのは文脈からいって間違いです。誤解を招く表現をしたことをお詫びします。)

 まぁ、さすがにこれは言い過ぎだと思うので、もう少し穏やかに解釈してみましょう。
 森岡氏の述べていることを、
  1. 冷静に人間観察すれば「相手を心の底から大切にする」ことができる
  2. そうすれば、相手から好きになってもらえる確率が高まる
くらいに解釈すれば、これは必ずしも間違いとは言えません。(それでも厳密に言うと、1.の命題はやや怪しいんですが。)
 ここで一つ重要なのは、「好きになってもらえる確率」を100%にすることはできない、ということです。「好き」という言葉をどう解釈するかにもよりますが、一般的な恋愛感情の意味で解するなら、これは50%にも満たない場合が普通でしょう。1%もない場合だって珍しくありません。

 確率が低くても「恋愛」がきちんと機能するのは、恋愛している人達が「失恋から立ち直って、新たな相手に恋をする」ということを繰り返すことが出来るからです。要するに、相手を一人に限定していないから「恋愛」が機能するということになります。もちろん、「恋愛をしている最中」には人はそんなことを考えません。「恋する相手はその人一人だ」と考えるわけです。これは、「恋愛」を円滑に進めるための、自分に対しての嘘です。
 こういうことは「恋愛」に限らずよくあります。100%うまくいくとは限らなくても、「絶対うまくいく」と信じ込んだ方が「うまくいく」確率は高まる、というような場合ですね。

 「その相手ひとりだけに集中する」という森岡氏の前提は、ここで既に崩れています。あくまで「恋愛関係の成立」を目標にするのであれば、どこまでも一人の相手だけに集中し続ける、ということは成り立ちません。それに目を瞑って初めて、森岡氏の命題は成立するわけです。



 ここまでは「恋愛は常にうまくいくとは限らない」という、いわば当り前のお話です。だとすると、たとえ恋愛関係の成立に寄与しなくても、「相手を心から大切にする」ことには意味があるんでしょうか? これが、私が森岡氏に問いたい問題の核心なんですよ。

 森岡氏の論理は「相手を心から大切にすれば、恋愛関係が成立する可能性が高まる」というものです。これを裏返せば、「恋愛関係が成立する可能性がないなら、相手を心から大切にする必要はない」ということになってしまいかねません。喪男板の論理は正にこれです。) 森岡氏はそれでもいいんですか?

 「恋愛関係が成立する可能性」は、おそらく森岡氏が思っている以上に「場」と「偶然」に大きく左右されます。その中でたまたま「失敗」を重ねた人達に「こうすれば次は必ずうまくいく」という理屈が通用するとは、私には到底思えません。

 しかしながら、「相手を心から大切にする」ということを繰り返していけば、別に恋愛関係が成立しようとすまいと、新たな開かれたコミュニケーションに踏み出せる可能性はあるわけです。その「可能性」は、恋愛関係の成就の確率よりもはるかに高いでしょう。だとすれば、「恋愛関係の成就」を最初から前提して語る意味がどれほどあるでしょうか?
 そもそも「恋愛関係」とは何のためにあるのでしょう? セックスのためにあるんですか? 私は違うと思います。以前にも述べた通りですが、「特別な相互承認関係」すなわち「お互いを深く理解しあう」ことにこそ「恋愛」の意義がある、と私は考えます。それなら、「恋愛」でなくとも「お互いを深く理解しあえる」ようなコミュニケーションを探ったって良いわけです。特に「恋愛という形式」に肌の合わない人達は、「恋愛」を前提にしない方が断然「深く理解しあえるコミュニケーション」がしやすくなると言えます。その上で「恋愛関係」を構築した方がよりお互いにとって良いと思えば、そうすれば良いだけの話です。

 このように考えるなら、「一人の女だけを大切にする」という前提は意味がなくなります。自分の周りの人達を、自分が出来るだけ大切にすれば良いでしょう。「一対一の特別な関係」という「恋愛の形式」に拘っていては、かえってコミュニケーションの可能性を狭めるだけではないでしょうか?


追記・今回のまとめ
 毎回記事が長すぎて読み辛いので、今回のポイントを簡単にまとめておきます。長文読むのだるい、という人向け。

      • 相手を心から大切にしたからといって、恋愛関係になれるとは限りません。
      • 「相手を心から大切にすれば好きになってもらえる」 なんて言うと、ルサンチマン全開の人達が 「してみたけどやっぱり駄目じゃんか。もう相手を大切にしようなんて思わねーぞ」 って吹き上がっちゃうよ?
      • でも、恋愛関係にはなれなくても、 「相手を心から大切にする」 ことには意味があるよね。
      • それだったらもう 「一人の相手だけ大切に」 しようとしなくてもよくね? みんな大切にしようよ。いきなり恋愛関係になんてなれる訳ないんだし。どうよ?


(6/14 追記
 この記事についてmuffdiving氏から詳細な批判がありました。
 批判内容には基本的に同意します。(明らかに誤りのある部分は本文中に訂正を入れています。)その上で新たに記事を上げたので、そちらの方をお読みください。

 なお、muffdiving氏に指摘された点のうち以下については、訂正は入れていません。
 失恋して、立ち直って新しい相手探す時点で前の「恋愛」はクローズしてると思うんだが。
 並行処理してるわけじゃないから「相手を一人に限定してない」って理屈はおかしいよな気が。
 これは、私がきちんと前提条件を説明しなかったためにおかしな理屈になったものですが、森岡氏の言説自体を歪曲しているものではないと考え、訂正は入れませんでした。ご理解戴けると幸いです。

(7/13 追記

 この記事の記述は、森岡氏の言説に対する誤った解釈に基づいて書かれている可能性が高いです。こちらの記事を参照してください。