愛の許し

 モテのパラダイムシフトの話の続きなんですが、森岡氏の「モテ定義」からは離れます。

 森岡氏の言う「恋人として大切にする」ということが不可能だとするならば、「非モテ」にはどんな選択肢が有り得るのか。今回はそんな話から始めてみることにしましょう。
 まずは、前回の記事に対するイカフライ氏のコメントから。

 烏蛇さんにせよ、他の非モテさんにせよ「女なら誰でもいいわけじゃない、むしろ、そういう軽薄な関係じゃない相手が欲しいんだい」
と一見言っているようだし、それはホンネでしょう。
ただそれは「自分が誰かを愛し、想い、その人のために何かをしようとする」といった相手に対する切実は思いが見えないのです。
 そういう事を言っているんですけれどね。

 「非モテ」の人達がなぜ「愛する」ことが出来ないのか、それは前回も述べた、「恋愛の排他性」として考えることができます。このことを、もう少し詳しく見ていきましょう。

 「ハチミツとクローバー」という漫画に、このことを端的に表した、こんなモノローグがあります。

旅立つ間際 2人に何があったのかは わからない……

でも 私には わかる

時おり リカさんから入る電話に 答える声に
今までと かすかに違う 落ちついた 深い声が混ざる

――そう 彼は……

――優しくしあう事を 許されたのだ…

 このモノローグを語っているのは、文中の「彼」(真山巧)に片思いし続けている「山田あゆみ」という人物です。彼女は、「彼」が「リカさん」と恋仲になったことを、「優しくしあう事を許された」、と表現したんですね。これは決して婉曲表現ではありません。彼女にとって(あるいは「彼」と「リカさん」にとっても)「優しくしあう事」こそが二人の関係性の中で最も大切なことだと思ったからこそ、彼女はそう表現したんです。
 そして、彼女のセリフにある通り、「優しくしあう事」には「許し」が必要でした。なぜなら、他者に対して「優しくする」ということは、同時にその相手の領域に踏み込むことでもあるからです。真山巧は、2巻で自分のことを「ストーカー」のようだと自嘲的に語っていました。彼が「リカさん」に「優しくする」ことができたのは、ひとえにそれが「許されたから」です。
 「優しくしあう事」を「愛」と言い換えても同じです。他者を愛そうとすることは、他者の領域に土足で踏み込むことでもあるんです。

 だとしたら、「他者を愛する」にはどうしたらいいのでしょうか? 少し古い記事ですが、いずみの氏はこのことについて次のように語りました。

 非モテ系の人の嘆きや主張を読む度に、何度と無く思うことですが

「愛に見返りを求めてはならない」
「愛は求めるものではなくて、与えたり、感じ取ったりするもの」

という世間知を真摯に受け止めるだけで、どうでも良くなる問題ですよね、と。モテないってこと自体は。
 極論すれば、相手に愛される必要なんて無いじゃん、ってことですけど。

 「私がお前を愛したところで、お前に何のかかわりがあろう」の精神ですよ。

 「愛は見返りを求めてはならない」とは確かによく言われます。ただ他者を愛し、愛されることを期待しなければ、いくらでも「愛する」ことが出来るのではないか、と。一見正しそうに見えますが、この意見は根本的な問題を抱えています。それは、「愛することに閉じてしまう」という厄介な問題です。
 以前「他者性に開かれる」ということについて論じたことがありますが、ここでの問題も同じです。「私がお前を愛したところで、お前に何のかかわりがあろう」 と言い切ってしまうならば、「愛すること」は「愛する対象」を見ずとも成立してしまうことになります。対象がどう考えようと「勝手に愛する」という姿勢は、無生物の人形を愛でているのと大差ありません。

 そうした独りよがりに陥るのを避けようとするならば、「他者を愛することで、他者に対してどんな関わりが生じるのか」を考えないわけにはいかなくなります。そうしたことを考えていくと必然的に「相手を愛しようとすること、優しくしようとすること」によって結果的に「相手を傷つけてしまう」という問題にぶつかります。「非モテ」議論から表層的なルサンチマンを剥ぎ取っていくと、どうしてもここに行き着いてしまうんですね。

 それでも尚「他者を愛そう」とすれば、「他者に対して精一杯想像力を働かせながら、それでも他者を傷つける不安に慄きつつ、他者の領域に踏み込んでいく」という困難な働きかけを日常的に繰り返していくしかありません。実は「恋愛という形式」とは、このような働きかけを簡略化し、ある程度の交換可能性をもたらすための装置なんですね。
 残念ながら「恋愛という形式」は「優しくしあう事の許し」のハードルを下げてくれることはあっても、「愛することによって相手を傷つけうる」ということへのフォローはしてくれません。このことで「非モテ」は二重の困難を抱えることになります。すなわち「恋愛という形式に乗れない」という困難、そして「恋愛で傷つけ合うことを避けられない」という困難です。



 「他者を愛せるようになりたい」と思っている非モテの人達に対する私の提案はシンプルなものです。すなわち、「恋愛という形式」に乗ろうとするのを止めてしまってはどうか、と。

 「性愛」に他にはない特別なコミュニケーションの可能性があり得ることは百も承知です。ですが、それが壁になって「他者を愛する」ことの可能性を阻んでいるのであれば、そんなものに拘る必要はない、と私は考えます。
 独りよがりでなく「他者を愛する」には、何よりも「他者を知る」ことが必要です。そのためには詰まるところ、「言葉を介したコミュニケーション」しか方法はありません。そのために有効だと思われるのがシロイ・ケイキ氏のこちらの記事です。

 「このくらいの好意なら、見返りがなくても平気だなあ」と思えるレベルの小さな好意を差し出すことが、「見返りを求めない愛」への道なんじゃないでしょうか。
 いくら見返りを求めないつもりでも、大きくて高価な好意を差し出せば、返報されなかったときに、がっかりしちゃうのが人情なんじゃないかと思うし、そのがっかり感が相手に伝わってしまえば、
「あ、このひとはおれからこんなに大きな好意を取り立てたかったのだな……危険だ。関係を打ち切ろう」
とか思われちゃう可能性が高いわけで。

 だったら最初から「返ってこなくても惜しくない程度の好意」だけを差し出して、自分ががっかりしてしまう事態を回避してしまえばいいのです。

 この記事で問題になっていることは「愛される方法」なんですが、これを「他者を知る可能性を増やす方法」として読み直すことも可能です。要は、「他者を知る」ためのコミュニケーションの潤滑油として、こうした「小さな好意」を活用するということですね。シロイ氏は簡単に実践できる「小さな好意」の例として次のようなものを挙げておられます。

○明るく気持ちの良い挨拶(「挨拶すらしてもらえない」と気分悪くなるし、にっこり笑って挨拶してもらえると嬉しいじゃないですか)
○お礼の言葉をまめに口にする。
○笑顔。スマイルはゼロ円。
○相手の顔をきちんと正面から見る。
○相手の話に注意深く耳を傾ける。ただ黙って聞いてると「こいつほんとにひとの話きいてんのか」と思われるので、頷きや相槌は怠らない。(でもいい加減な相槌が多いと、「やっぱりきいていないな」と思われるかもしれないけどね。気をつけましょう)
○相手の目を見ながら会話する。(ただしこれは相手がかえって落ち着かなくなる場合もあるので、その場合は口元のあたりに視線を移してあげると良い。最初から目ではなく口をみるのでも可)
○相手の美点を正しく評価し、誉める。(思ってるだけじゃ伝わらない)
○悪いと思ったらまめに謝る
○清潔な身だしなみを心がける。お風呂と洗髪と洗濯はまめに。しわくちゃの服やしみのついた服は避ける(相手の前で綺麗でいようと心がけるのは、一種の好意表明だと思います)

 ここでなぜ「恋愛という形式」に乗ってはならないかと言うと、「非モテ」は「恋愛という形式」を潤滑油として機能させることが出来ない(または困難である)からです。それを訓練によって可能にすることもできなくはないでしょ うが、それよりも先述の「小さな好意」を利用する、という手段の方がずっと簡便です。そして、少しずつ「他者を知る」ことを繰り返すことで「どこまで相手に踏み込めばいいのか」といった距離感を養い、相手を大きく傷つけることを避けながら近付いていくことが出来ます。

 もちろん、Masao氏のこちらの記事ように「性愛(または性愛に基づくコミュニケーション)に到達できないなら無意味だ」と考える人も少なくないでしょう。ですが、いくつかの「非モテ」系ブログを見てみる限り、多くの「非モテ」が渇望していることは「セックス」ではない、と思うんですね。セックスそのものを求めているというより、セックスはいわば「優しくしあうコミュニケーション」の象徴であるに過ぎません。そして、両者がぴったり貼り付いてしまっていることが「非モテ」の不幸なのではないか、と思うのです。

 さて、森岡氏の提唱した「モテのパラダイムシフト」が「ずれている」理由が、これでようやく見えてきたかと思います。「モテ」とは結局「愛されること」の問題であり、本当の難題は「愛すること」の方なんですね。「恋人として大切にする」などということを自明のこととして語ってしまったのでは、真に重要な「愛することの困難さ」が見えなくなってしまうんです。