「モテのパラダイムシフト」について(2)

 前回の記事に対して森岡氏から特に何も反応がないようなので、話を先に進めます。まずは、森岡氏による「恋人として大切にする」という言葉の意味を考えてみましょう。

 前回の記事に関して、ブックマークコメントでこんな指摘がありました。

PANZIG 非モテ 「恋愛パートナーが存在しない」男性が「ひとりの女を恋人として大切にする」ことは原理的に不可能、っていうのが理解できない。「片思いの恋人」として大切にすればいい。

 同じくブックマークコメントで海燕氏から「片思いの相手を恋人とは言わない」とツッコミが入っていますが、PANZIG氏は「目的達成には両思いまでは要らない」と反論しています。

 さて、さしあたり、モノガミーを前提して考えましょう。「恋愛関係」とは一対一の「お互いを特別とみなす相互承認関係」と言えます。恋愛関係にある二人は排他的な信頼関係を持つことができ、様々な秘密を共有できる、と一般に考えられています。ここまでは特に異論はないでしょう。
 この「排他的」というところがポイントです。「恋愛関係」の中では様々な「優しさ」や「気遣い」(その内実は今は問いません)が交わされるでしょうが、それらは常にこの「排他性」を前提にしたものです。すなわち、「恋人として大切にする」とは排他性の中でしか成り立ちません。「片思いの恋人として大切にする」という言葉のおかしさはここにあります。排他的な信頼関係が成立していないのに、それを前提にして「大切にする」ことが出来るはずがありません。もし、「片思い」の状態で「恋人として大切にしよう」という人がいれば、その人物はただのストーカーです。
 もちろん、森岡氏の「恋人として大切にする」という言葉の意味が、こうした排他性を前提にしていなければ話は別です。しかし、森岡氏はこの記事で「モテ・3」を 「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる男」 と定義しているのですから、ここでの「恋人」が排他性を前提にしていることは明らかでしょう。



 さて、もう少し「モテ・1」と「モテ・3」を検討してみましょう。

モテ・1
モテる男とは、つねにいろんな女と恋愛・性愛状態である、あるいはその気になればいつでもいろんな女と同時に恋愛・性愛状態になれるような男のことである。
モテ・3
モテる男とは、「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる」男のことである。その副次的効果として、「ただそこにいるだけで、まわりの女たちに、異性としての快い刺激を与え、かつ、安心させることのできる男」に、長い時間をかけて徐々に近づいていくことができる。だが恋人・性交相手は一人である。

 森岡氏が「モテ・1」を忌避する理由は何でしょうか? その答えは記事文中に明示されています。

そのような男は、次々と女を落としていくことはできるかもしれないが、相思相愛のひとりの女を恋人として大切にすることはできにくい。私はそのような状態をモテとは考えない。私がモテる男だと考えるのは、ほんとうに、ひとりの女を恋人して大切にすることができ、恋愛状態を維持できている男のことである。

 一言で言えば、「モテ・1」では恋愛関係における「排他性」が維持しにくい、ということです。森岡氏の定義(モテ・3)に従えば、例えば「友達や恋人を交換可能な『モノ』として考える」Masao氏は恋人が居ても非モテであるということになります。
 森岡氏は、「非モテ」を名乗る人達は「モテ・1」を目標にしていて、「モテ・3」に目がいってない、ということになります。しかし、これは誤りで、多くの「非モテ」が求めているのは、森岡氏の主張している通りの「特別な関係性」なんですよ。このことは、「非モテ」について語っているサイトを幾つか見て回ればすぐに分かるはずです。彼らははっきりと「恋愛」を「特別な関係性」として捉えています。

 では、森岡(コメント欄のイカフライ氏も)はなぜ「非モテ」が「モテ・1」を希求していると錯覚したのでしょうか? それは、「非モテ」の希求する「恋愛」が「一定の形式に基づいたもの」だからなんです。
 詳しいことは以前「恋愛の耐えられない軽さ」で述べた通りです。「恋愛関係」という交換不可能な関係性を構築するはずの「恋愛」とは、それ自体「交換可能な形式」でしかなく、「交換不可能な関係性」を求めれば求めるほど「交換可能な形式」を追いかけていることになってしまう。実体的な「恋愛関係」を知らない「非モテ」が「交換不可能性」を追求すれば、このドツボにはまるしかなくなってしまうんです。

 これは何も「非モテ」に限った話ではなく、「実体的な恋愛関係」の中にだって充分ありうる話です。ゾゾコラムこちらの記事から、以前引用した部分をもう一度引いてみましょう。

じつはアタシが中学生の頃、悲しい出来事があった。アタシの誕生日が近づいたある日のこと、生まれてはじめてできた彼氏と長電話をしていると、その彼が「そういえば最近、なんかほしい物がある?」と尋ねてきたのだ。「あ、誕生日プレゼントのリサーチかな?」と察したアタシは、それとなく迷彩柄の小物に凝っていること、いま一番ほしいものは部屋に飾るモデルガンであることを伝えた。そして誕生日当日「きっとモデルガンを用意してくれたに違いない!」と期待したアタシに贈られたのは、なんと「ファンシーな二人のピエロが音楽と共に回転する、とってもファンシーなオルゴール」だった。彼氏は「このピエロは俺とオマエだ」と嬉しそうにのたまい、そしてアタシは落ちこんだ。……オルゴールなんか、ぜんぜん欲しくなかった。彼はアタシにモデルガンを贈って喜ばれるよりも、アタシの希望を無視して2匹のピエロを与え「これは俺とオマエだ」という決めセリフを言うことを優先したのだと思った。そんな嘘っぽいセリフは、ぜんぜん嬉しくなかった。「ああ、この男はアタシではなく『俺』と『オルゴールを喜んでくれる理想の彼女』が好きなヒトなんだ」と絶望した。誕生日くらいは、アタシの希望を尊重してほしかった、と思うと、泣きたい気分になった。

 恋愛の当事者は、誰もがお互いを「特別な存在」と思いながら、その実しばしば「取替え可能な存在」として扱ってしまいます。そうさせるものは恋愛相手への幻想、もっと言えば「恋愛という形式」そのものです。
 森岡氏の語る「モテ・3」への到達がいかに困難であるか、これでもうお分かりでしょう。森岡氏はこの「交換可能性の罠」をナメてかかっている、と私は思います。だからこそ「非モテ」が「モテ・1」を目指している、などと誤認してしまうし、「モテ・3」を目指せ、などと安易に言えてしまうのでしょう。

 森岡氏の「モテのパラダイムシフト」がパラダイムシフトになっていないことは、これでもう明らかになったと思います。では、どうすれば「パラダイムシフト」が可能でしょうか? これについては、また次回に。

(7/13 追記

 この記事の記述は、森岡氏の言説に対する誤った解釈に基づいて書かれている可能性が高いです。こちらの記事を参照してください。