「非モテ」団結の功罪

 前回の話と関連して、草実スサ氏の突っ込みに答えておきます。先日行われた革命的非モテ同盟クリスマス粉砕イベントについて。

どう見てもネタですよね

マジだというのであれば、せめて池袋の腐女子と連帯しないとダメじゃなかろうか。

革非同なんて「非モテ男はシャレになるけど非モテ女はシャレにならない」って構造を(意図的でなくとも)再生産してるようなものなんだから、烏蛇さんからしたら(私からしても)、批判すべきものだと思いますけど。

 最初に言っておくと、「池袋の腐女子と連帯せよ」などという提言はお話になりません(草実氏も本気で言っておられるわけではないでしょうが)。もちろんそういう企画を立てるのもアリだと思いますが、そもそも「こうすべき」という方向性が誤っています。

 まず、基本的にインターネット上のコミュニティである「非モテ」にとって、オフ会によるイベントがどのような意味を持つか、を考える必要があります。イベントが東京限定で開催されること、旧来の左翼スタイルを模倣する一種の「コスプレ集会」でもあることから、イベントへの参加自体が相当に敷居の高いものです。その時点でこのイベントは「参加可能な一部の非モテ」を除く「不可視な非モテ」を排除していることになります。
 これは革非同が悪いのではなく、インターネット上のある程度以上大きなコミュニティにとって「オフ会」とは全てそうしたものです。もっと条件の緩やかなオフ会であっても同じです。「非モテ」の人達の中には、かなりの割合で対人恐怖症の人が含まれると想定されますから、どんな形であれ「オフ会イベント」は彼らを排除していることになります。

 こうしたことを考えると、「クリスマス粉砕イベント」に「ネタですよね?」などと糾すのはピントが外れています。「粉砕イベント」はネタでなければならないんです。そして、敢えて敷居を高くすることで、革非同は「クリスマス粉砕」を「誰が見てもネタと分かるような」イベントにすることに成功しました。アキバblog等のいくつかのメディアでは概ね「ネタ」として取り上げられていますし、いくつかの個人のブログでも左翼のパロディイベントとして好意的に評価されています。主催者である古澤氏のキャラクターに依るところも大きいでしょうが。

 kiya氏の言う「鍵括弧付きの『非モテ』」(=Web上のネタとしての非モテが現実の非モテと乖離していることを示すのは重要なことです。草実氏の批判のポイントの一つは、こうしたイベントが「非モテのネタ化」を進め、「表に出て来れない非モテ男女」をますます隠蔽・不可視化するのではないか、というところでしょう。確かにその可能性はそれなりにありますが、私は「結論を出すにはまだ早い」と考えています。



 ただし、問題はもう一つ別にあります。このイベントを「ネタ」ではなく「ガチ」で捉える人が居た場合にどうなるか、ということも考え合わせれば、以下の総括の文句はかなり「危うい」ものです。

終ったあとは、万世で食事をし、今後の方針として「内ゲバ禁止、それは恋愛資本主義を打倒してから」という基本方針が確認された。その後、万世橋前での記念撮影後インターをうたい今回の集会は終った。

 私は実はこの総括の文句も「左翼をパロったネタ」と考えていました。過去の左翼系学生運動において、内ゲバ(団体内部での意見対立)による暴力的な「粛清」が頻発したことは戦後史に詳しい人なら周知の事実で、それを踏まえたネタと見なしたわけです。元々、イベントに参加した一人である覚悟氏は主催者の古澤氏と根本的な点での意見対立を抱えていますし、イベント参加者が「一枚岩」でないことは自明だと思っていました。そもそも、「恋愛資本主義」への態度どころか定義でさえ統一的に定まっていない時点で、「恋愛資本主義を団結して打倒せよ」という文句もネタの域を出ません。

 しかしながら、どんな「ネタ」も「ガチ」で捉える人は確かに居るものです。その上、革非同は「ネタとガチの混在」という形式を取っているため、「ネタをネタと見抜けない」読者が出てくる可能性も低くありません。草実氏の指摘を受けて、この点に関しては「私の見通しは甘すぎたかもしれない」、と考え直しました。以下、恋愛資本主義を打倒するために内ゲバをやめて非モテは団結せよ」という文句を本気に取ることがいかに危険であるかについて、「ガチで」解説を試みることにします。

 前回、本文とコメント欄で私は次のように述べました。

 古澤氏の誤りはまさにここにあります。「恋愛至上主義」と「現実に在る恋愛」とは別物であり、恋愛至上主義」を否定することは、「今在る恋愛と呼ばれる関係性そのもの」を否定することではないんです。
 非モテの敵は「恋愛至上主義」です。非モテ論の誤りのかなりの部分が、「恋愛」と「恋愛至上主義」を混同するところから始まっています。

 ここでの恋愛至上主義とは、「恋愛」はそれ自体「交換不可能」な特別な関係性である、とするイデオロギーです。前回述べたように、「非モテ」自身がこの「恋愛至上主義」に囚われているとするならば、すなわち非モテ」の敵は「非モテということになります。
 Web上の「非モテ」コミュニティにある程度通じている人なら、この言葉を実感を持って捉えることが出来るでしょう。「恋愛至上主義」を嫌いつつそれに囚われている人同士が集えば、互いの「恋愛至上主義的」な要素によって対立が生ずるのは当然すぎるほど当然の話で、これが「非モテ内ゲバ」の原因の一つになっています。これには、草実氏が指摘しておられる「非モテ男性が非モテ女性を抑圧する」という構図についても同じことが言えるんですね。

 こういった意味も込めて「非モテの敵は恋愛至上主義である」と私は主張します。「非モテ」は恋愛至上主義に囚われ続けることで、他の同様に「恋愛至上主義にハマれない人達」を抑圧する者となってしまいます。
 「非モテ」の敵は「モテ」ではなく「恋愛至上主義」です。これは社会との闘いであると同時に自分との闘いでもあり、それ故に「社会の責任か自己責任か」という選択肢は無意味なんです。「モテ」であっても「恋愛至上主義」を自明としない人は「非モテ」の助けになり得ますし、「非モテ」であっても「恋愛至上主義を自明とする人」や「自分自身が恋愛至上主義的抑圧者たりうることを省みない人」は敵です。

 「それならば、敢えて『非モテ』コミュニティを形成する必要はどこにあるのか?」という疑問がおそらく出てくるでしょう。結局は個人の問題であるのなら、一人ひとりが勝手に自己解決すればいいのではないか、と。
 しかし、「問題を抱えているのは自分一人だ」と思ってしまうか、それとも「似た悩みを持つ人間がそれなりに居る」ことを知っているかだけでも、問題に立ち向かえる可能性は全く違ってきます。リアルのコミュニティでは困難なことが、Web上のコミュニティだからこそ可能なわけです。似た人を多く知れば、それだけでも自分の問題を相対化して見るチャンスになり得るでしょう。そうした自己解決の積み重ねと「恋愛至上主義を相対化し得る場所」の存在が、「社会的風潮としての恋愛至上主義」そのものの影響力を軽減させます。

 ただし、そのような場として機能するには、現状の「非モテ」コミュニティは問題だらけです。「非モテ女性が排除されている」という指摘があることからも分かるように、ホモソーシャルな閉鎖性に包まれていることは否めませんし、そのこと自体「恋愛至上主義に負けている」ことの証明です。また、「恋愛」と「恋愛至上主義」と「恋愛資本主義」が混同されるような問題の多い議論が横行しています。
 「非モテ」が恋愛至上主義を打倒するには、まず何より「内なる恋愛至上主義」に批判的な目を向けねばなりません。そうなれば「内ゲバを禁止して一致団結する」など論外ですし、「『非モテ』コミュニティそのものを主張ごとに分立させて棲み分ける」という発想もアウトです。「非モテ」は開かれたコミュニティであって初めて、それなりの意義を持つようになるんです。

 古澤氏のやったような「クリスマス粉砕」は、左翼のパロディであると同時に「非モテ」のパロディでもあります。これは、「恋愛至上主義非モテの対立」そのものを「ネタ化」し相対化するという作用を果たしているわけで、「恋愛至上主義」を解体するには古典的ながら有効な手段ではないか、と私は思っています。もっとも、草実氏の指摘されたような問題があることも確かで、こうしたイベントの才覚を持つ古澤氏が今後どのように「恋愛至上主義」と対決していくのか、注意深く見ていく必要があると言えるでしょう。


(28日追記

 本文中では「クリスマス粉砕」や「非モテの団結」を「ネタ」と解釈して書いていますが、古澤氏や他のイベント参加者の反応から、この解釈が誤りであると分かりました。このため、明らかな事実誤認である最後の段落は削除させて戴きます。
 なお、イベント参加者側の思惑がどうであろうと、この種のイベントが外部からは基本的に「ネタ」として解釈されることには変わりないと考えています。また、「『非モテ』は安易に団結すべきでない」という本文の論旨には変更はありません。