「恋愛における自由」を考える

 新年一発目は革命的非モテ同盟こちらの記事から。

自由恋愛という概念は今当たり前のように信じられている。しかしながらそれは本当に正しいものなのであろうか? これについて再検討してみたい。
(中略)
イザイア・バーリンによれば自由という概念は大きく二つに分けられる。一つは「消極的自由」もう一つは「積極的自由」である。消極的自由とは「〜からの自由」と言い表され、権力や他者による規制や干渉からの自由であると考えられる。積極的自由とは「〜への自由」と言われ何かしらの理想的人間にあるという自由である。古典的に言えばギリシアのポリスにおける自由というのが積極適自由であり、ポリスにおける市民こそ自由であり、単純に規制から外れた野蛮人は自由ではないと考えられていた。

この言葉にあてはめれば現在の「自由恋愛」とは「消極的自由」であると言える。つまり、前近代的身分制度、家概念等の抑圧からの解放としての自由である。お互いに好意を持つ男女が他の制限を無視した上で恋愛に至る、そういった意味での自由である。

 ここから革非同の古澤氏は、現在の「自由恋愛」は「恋愛の格差」問題が野放しにされており、かつての「規制のない自由市場」と同様、抑圧された下層階級を生む、と結論づけています。
 しかしながら、「自由市場」と「自由恋愛」には幾つかの点で顕著な違いがあります。単純に「自由恋愛」と「自由市場」を同一視して考える前に、まずは「自由市場」が孕んでいた問題は何か、ということを明らかにしておきましょう。

 古澤氏の主張しておられる通り、規制のない完全な「自由市場」は幾つかの大きな問題を持っていました。現在、日本を含む先進工業国各国はいずれも完全な「資本主義」ではなく「修正資本主義」を採用しています。これは「完全な自由市場」が含む問題が歴史的に認知されてきた結果なんですね。

 「自由市場」の孕む問題の中で、最も一般的で分かりやすいのが「独占・寡占」でしょう。特に参入障壁の大きい産業に関しては、ある一つの(あるいは少数の)企業によって市場が支配されてしまう可能性が高く、そうなると「自由市場」が「自由市場」としての機能を果たさなくなってしまいます。これを防止するために定められたのが「独占禁止法」であり「公正取引委員会」です。
 これはつまり「自由=無法規」の状態に置かれた結果「自由」が損なわれてしまう、という状況であるわけです。「無法規」は決して自由ではなく、「ルール」があってこそ初めて「自由」が成立します。言い換えれば「自由を守るためにルールがある」ということですね。古澤氏の述べておられる「積極的自由」とは、要はこういうことです。
 階層格差・貧富の差といった問題も、突き詰めれば「無法規が自由を奪う」という点に帰結します。累進課税制度や公的扶助、労働三法、無償の公教育といった各種の制度は、皆「自由を確保するために必要なルール」と言っていいでしょう。

 「自由のためのルール」という基本を誤るとどうなるか、ということはかつてのソビエト連邦が示してくれています。ソ連では「社会主義」を国家体制の基本とし、「平等」を「自由」より上位に置いたため、「自由のためのルール」のはずが「ルールが自由を奪っていく」という本末転倒な事態を招き、結果的に「平等」をも損なってしまいました。
 「自由恋愛」を考える際にもこの基本を誤ってはなりません。「ルールは自由のためにある」のであって、それ以外の何者でもありません。



 以上を踏まえつつ、「自由恋愛」の成立について一通り見ておきます。
 敢えて「自由」恋愛と強調しなければならないということは、当然「自由でない」時代があった、ということに他なりません。大野氏のこちらの記事を見てみましょう。

日本人が初めて「恋愛」という言葉に出会ったのは、明治時代である。その頃恋といえば、元禄あたりからずっと続いていた男の「色道」を指していた。(中略)玄人女性と恋のゲームやセックスを楽しんだ後で、いいとこの身持ちの固い女を嫁にもらう。時には、レジャー用だった玄人女と恋仲になり、金を積んで身請けしてやり正妻に迎えることもある。こういう風習は戦後まで一部で生き続けた。

さかのぼると、恋の歌を詠んで贈ったり贈られたりの色恋文化は中世の貴族階級で栄えたが、武士が台頭した近世からはそういうみやびな風習は廃れ、恋にうつつを抜かすより家同士の利害を巡った政略結婚が、上流階級で一般的となった。年頃になったら、しかるべき相手と見合いをさせてツガイにすることが、お家存続のために必須。この「家」というものは後々、純愛物語でも大きな障害として描かれる。

 明治以前、性愛は「家」制度から自由ではありませんでした。職業が世襲前提の社会では、必然的に性愛は個人の自由になりません。そのような条件の下で成立した性愛文化が、大野氏が述べておられるような「色道」です。
 また、大野氏の指摘にはありませんが、「家」制度前提の性愛文化は一夫一婦制前提ではなく、一夫多妻を是とする文化でした。身分の高い男性は正妻以外に幾人もの「妾」を持つことが当然とされていました。この制度を「蓄妾制」と呼びます。

 「色道」文化や蓄妾制は、明治以後「女性の社会的抑圧の元凶」「日本の前近代性の象徴」として批判され、徐々に廃れていきます。代わって登場したのが「恋愛」という概念で、この時期、女性差別を強く批判した人達ほど「自由恋愛」や「恋愛結婚」を称揚するという傾向が見られました。この辺の経緯は、加藤秀一氏の「〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか」で詳しく論じられています。

 蓄妾制や「家」に縛られた結婚からの自由を目指していた人達にとって、「自由恋愛」や「恋愛結婚」は到達すべき最終目標であり、その問題点に気付かなかったのもやむを得ない部分がありました。しかし、「一夫一婦制」や「男女の自由な交際」を至上のものとする考え方が「男女間の性愛」のみを想定しており、同性愛やAセクシャルの人達を排除していることは明らかです。この問題は近年まで長く放置され続け、著名なフェミニストの中にも未だにこの問題を軽視している人が少なくありません。



 さて、もう一度「自由市場」と「自由恋愛」の比較に戻ります。

 「自由市場」において「格差」が自由を奪う理由は簡単です。現代社会においては経済力がなくては生きていけないため、下層階級に置かれた時点で行動の自由が事実上大幅に制限されてしまうからです。
 「自由恋愛」において、同様に「自由を奪う」元凶は何か、を考えた場合、その答えは古澤氏の主張されるような「恋愛経験の格差」でしょうか? 私はそうではないと考えます。むしろ、「経験の差」を自明と考えることこそが問題なんです。

 先ほど述べた通り、「自由恋愛」という概念の中には無条件に「男女間の性愛」を自明とするようなバイアスが含まれています。これは「恋愛」が一定の形式を有するために生じる偏向で、いわば「自由恋愛」における「通貨」のようなものです。
 市場経済における「通貨」は、それ自体が「消費の形式」を決定づけるようなものではないため、「通貨が統一されていること」による問題は生じません。しかし、「恋愛」において「性愛のコミュニケーション」が一定の形式を持っていることは、その形式に合わない人達を排除する効果を生んでしまいます。

 「経験の差」は、恋愛における「物差し」を一つに限定することによって初めて浮かび上がります。「経験の差」を本質的な問題と見なすことは、「恋愛の形式」が持つ問題を追認することになるわけです。「恋愛経験の格差」を自明とする論理は、「恋愛が一定の形式を持っていること」そのものが内包する問題点を見えなくしてしまう、非常にまずい論理なんですね。「格差の是正」という議論は明らかに矛先を誤っています。
 「経験の差」を是正するために「恋愛の自由」を制限するなどという議論は最早論外です。「見せかけの格差」を作り出している仕掛けは何か、ということをまずは考えるべきなんですよ。