脅しの道具としての「孤独死」
昨年の暮れに、「30~40代がいずれ迎える「大量孤独死」の未来」という記事がちょっとした話題になりました。
記事では、自室で亡くなった男性と、一緒に死んでいたペットの様子がおどろおどろしく描写され、「ペットの多頭飼い」は社会問題であると強調されたのち、単身者の「孤独死」が今後増加するであろうという危機感を煽る文章で締めくくられています。
この記事のはてなブックマークには少なからぬ批判が集まったのですが、その中には「孤独死の一体何が問題なのか?」と突き放すコメントが相当数ありました。一方で、「孤独死に開き直るのは自分勝手だ」という趣旨のコメントもみられます。
こうした「孤独死」(あるいは「孤立死」)の危機感を煽る記事というのはもちろんこれが初めてではなく、ネット上でも過去に何度も話題になっています。例えば、2016年の 『孤独死のリアル』著者・結城康博氏へのシノドスによるインタビューや、「本当に悲惨な独り身の最期」という匿名ダイアリーの記事などは比較的大きな話題になりました。
「孤独死」の危機感を煽る記事には共通点があります。「孤独死」が増えるのはよくないことであり、独身者ないし単身生活者にそのリスクがある、ということをほぼ暗黙の前提としている、ということです。
そのため、「孤独死」に対する危機感を煽る記事は、独身者ないし単身者をターゲットにした一種の脅し(場合によっては倫理的な非難)になりがちです。このことが、先に述べたような「孤独死」危機論への反発の背景にもなっています。
私たちは、「孤独死」の問題にどのように向き合えば良いのでしょうか?
それを考えるためにはまず、「孤独死」とされる事象について、何が問題とされているかを整理しておく必要があります。というのも、「孤独死」の問題は複数の論点にわたっており、それらが明確に区別されずに論じられていることが少なくないからです。
「孤独死」問題の論点は、概ね4つに整理できます。「QOLの問題」「医療機会の問題」「死後の衛生と負担の問題」「宗教的死生観の問題」です。それぞれ順にみていきましょう。
まずは「晩年のQOL」についてです。これは、「孤独死の何が悪いのおじさんが大量に沸いてるけど」という記事の主張が一つの典型といえます。
ここで問題になっているのは死そのものではなく、老後あるいは晩年に孤独な生活を強いられることによるQOL(Quality Of Life , 生活の質)の低下です。身体の衰えた晩年に単身で暮らさざるを得ないことで生活が不便になるとか、孤独な生活の寂しさ・侘しさといったものが焦点になっているわけです。
次に、「医療機会を逃すことによる損失」の問題です。「単身生活者が自室内で突然の発作に見舞われ、助けを呼べなかったために救命治療を受けられずに亡くなってしまう」などの、医療を受けられれば助かったはずの命が失われてしまうという問題ですね。
「孤独死の現場をフィギュア化した展示」を紹介するねとらぼの記事で「若者の孤独死の死因は餓死が多い」と述べられていますが、これも「医療機会」の問題と関係しています。というのも、餓死の原因は「部屋から出られないこと」であり、その背景には鬱病などの精神疾患がある場合が多いと考えられるからです。自室で餓死によって亡くなった方の中には、精神科できちんと治療を受けていれば助かった人が相当数居る可能性があります。
そして、「死後の衛生と負担」の問題。これは、「孤独死した人が長期間発見されなかったことにより遺体が腐敗するなどして、住居の所有者に負担がかかる」といった問題ですね。最初の記事で述べられているような「飼っていたペットが一緒に死んでしまう」といった問題や、遺品の処分などの問題もこれに含めます。これらは亡くなった当人以外が損失を被る問題なので、「孤独死に対する非難」に利用されやすい論点といえます。
最後に、「宗教的死生観によって生じる問題」。これは何かというと、「無縁仏」などの、死後に供養やお墓参りをする人が居ない、という問題です。「東北大震災で死んだ人は幸せな死後を送っているよな」という記事で述べられているような、死後に弔ってくれる人が居るかどうかが幸福感を左右するという価値観の人に固有の問題といえます。
これらの問題は、いずれも単身生活する人にリスクとして降りかかりやすいと考えられますが、単身者に固有の問題とは必ずしも言えません。
例えば、晩年のQOLの問題は、単身生活でない人にも「子による虐待」や「家庭内での孤立」といったリスクがある一方、単身者も孤立した生活をしているとは限らず、一概に単身生活でない方がQOLが高いとは言い切れない部分があります。
また、医療機会の問題についても、子が親を介護している場合に、子が急病で倒れた結果親が餓死してしまうといったケースや、家族の精神疾患への偏見のために医師にかかる機会がなく、自室に閉じこもった状態で衰弱死してしまうなどのケースがあり、単身生活でないから医療機会を逃さないとはやはり言い切れません。
これらの問題を「孤独死」の問題として一まとめに扱うことには、良い点と悪い点があります。「名前を付けることで問題として可視化される」というメリットは小さくないでしょう。「孤独死」という概念があることで、行政が「孤独死の予防・対策」に予算を付けるといったことが行いやすくなり、医療機会の問題などの改善に役立つ可能性があります。
悪い点の一つは、「孤独死」の論点を一まとめに扱うことで、それらが単身生活にのみ有り得るリスクであるかのように誤認されるおそれがあることです。それにより、単身者が不当に悪者扱いされたり、単身者以外のリスクグループが見落とされたりする可能性があります。
私は、「孤独死」という言葉が人口に膾炙した現在においては、「孤独死」の各種の問題を一まとめに扱うことはむしろデメリットの方が大きいのではないかと考えています。各々の問題は、「誰にとってのどのような問題か」がそれぞれ異なりますし、考えうる対策・施策も異なってくるからです。
さて、「単身者に固有の問題とは必ずしも言えない」とは言っても、単身生活の方がこれらのリスクがずっと大きいには違いなく、結婚して家族を作ればリスクは大幅に下げられるはずだ――このように考えている人は少なくないでしょう。そう考えている人たちは、「今現在単身者でない人が、今後もずっとそうであるとは限らない」という事実を失念しています。
家族関係は、時間経過とともに変化し、個々人を取り巻く状況も変わります。自分の配偶者や子、親族などとの関係性が常に良好とは限りませんし、特に関係が悪化しなくても、相互に扶助できる余裕や物理的距離が保てるとも限りません。平均寿命の伸びた現在では、自分が晩年にさしかかった際に子が先に死亡している状況だって、さほど珍しくはないでしょう。
晩年に至るまで「孤立せずに済むような人間関係を維持する」ことは、努力でどうにかなる問題ではない、ということです。うまくいくかどうかのかなりの部分は、運に左右されます。
リスクを自身でコントロールすることが困難である以上、「今のままでは将来孤独死するぞ」というような脅しは、「孤独死」の問題に対して全く無意味です。「孤独死」の各種の問題は個人がどうこうできるものではなく、社会全体としてそれぞれに対策を考えていくしかない、と言えるでしょう。
むしろ、「孤独死」をそのように脅しの道具に用いることは、「孤独死」の問題に対して有害であるとさえ言えるかもしれません。このような「脅し」の背景には、「孤独死」が当人の自己責任であるという認識があると思われるからです。しかし既に述べたように、「孤独死」を当人の責任に帰するのは無理があります。そして、そうやって「孤独死=自己責任」という認識を広めることは、社会全体として「孤独死」に関する種々の問題に対策を行っていくことへの妨げになりかねません。
「孤独死」の問題は、どれも一朝一夕に解決するようなものではないでしょう。社会がどのくらいコストを負担するのか、どの程度の効果が見込めるのか、も見極めなければなりませんし、プライバシーとの兼ね合いも考えなくてはなりません。その意味でも、個人が出来ることは限られています。
しかし、私たちが個人として今すぐ出来ることもあります。「孤独死」を自己責任の問題として語ったり、脅しの道具に使うのを止めることです。
千葉県のマンションに住む60代の男性は、孤独死してから半年間にわたって発見されなかった。男性の傍らには、犬と猫7匹が一緒に息絶えていたという。 (中略) この男性は、独身で一人暮らし。仕事はしておらず、親の遺産で生活していたようで、貯金は2000万円ほどあり、経済的には特に不自由ない生活を送っていた。
だが近所や親族との付き合いはなく、人間関係がほとんどなかった。
その結果として男性は、孤独死という事態を迎えたのである。
記事では、自室で亡くなった男性と、一緒に死んでいたペットの様子がおどろおどろしく描写され、「ペットの多頭飼い」は社会問題であると強調されたのち、単身者の「孤独死」が今後増加するであろうという危機感を煽る文章で締めくくられています。
この記事のはてなブックマークには少なからぬ批判が集まったのですが、その中には「孤独死の一体何が問題なのか?」と突き放すコメントが相当数ありました。一方で、「孤独死に開き直るのは自分勝手だ」という趣旨のコメントもみられます。
こうした「孤独死」(あるいは「孤立死」)の危機感を煽る記事というのはもちろんこれが初めてではなく、ネット上でも過去に何度も話題になっています。例えば、2016年の 『孤独死のリアル』著者・結城康博氏へのシノドスによるインタビューや、「本当に悲惨な独り身の最期」という匿名ダイアリーの記事などは比較的大きな話題になりました。
「孤独死」の危機感を煽る記事には共通点があります。「孤独死」が増えるのはよくないことであり、独身者ないし単身生活者にそのリスクがある、ということをほぼ暗黙の前提としている、ということです。
そのため、「孤独死」に対する危機感を煽る記事は、独身者ないし単身者をターゲットにした一種の脅し(場合によっては倫理的な非難)になりがちです。このことが、先に述べたような「孤独死」危機論への反発の背景にもなっています。
私たちは、「孤独死」の問題にどのように向き合えば良いのでしょうか?
それを考えるためにはまず、「孤独死」とされる事象について、何が問題とされているかを整理しておく必要があります。というのも、「孤独死」の問題は複数の論点にわたっており、それらが明確に区別されずに論じられていることが少なくないからです。
「孤独死」問題の論点は、概ね4つに整理できます。「QOLの問題」「医療機会の問題」「死後の衛生と負担の問題」「宗教的死生観の問題」です。それぞれ順にみていきましょう。
まずは「晩年のQOL」についてです。これは、「孤独死の何が悪いのおじさんが大量に沸いてるけど」という記事の主張が一つの典型といえます。
老人になって体の自由が利かずになった状態で
孤独な生活を数年、下手すりゃ数十年送るってことが孤独死の問題の本質だろ。
問題は「孤独死」じゃなく「孤独老人生」だってことなんだが、そこらへんはどう考えてるんだ?
ここで問題になっているのは死そのものではなく、老後あるいは晩年に孤独な生活を強いられることによるQOL(Quality Of Life , 生活の質)の低下です。身体の衰えた晩年に単身で暮らさざるを得ないことで生活が不便になるとか、孤独な生活の寂しさ・侘しさといったものが焦点になっているわけです。
次に、「医療機会を逃すことによる損失」の問題です。「単身生活者が自室内で突然の発作に見舞われ、助けを呼べなかったために救命治療を受けられずに亡くなってしまう」などの、医療を受けられれば助かったはずの命が失われてしまうという問題ですね。
「孤独死の現場をフィギュア化した展示」を紹介するねとらぼの記事で「若者の孤独死の死因は餓死が多い」と述べられていますが、これも「医療機会」の問題と関係しています。というのも、餓死の原因は「部屋から出られないこと」であり、その背景には鬱病などの精神疾患がある場合が多いと考えられるからです。自室で餓死によって亡くなった方の中には、精神科できちんと治療を受けていれば助かった人が相当数居る可能性があります。
そして、「死後の衛生と負担」の問題。これは、「孤独死した人が長期間発見されなかったことにより遺体が腐敗するなどして、住居の所有者に負担がかかる」といった問題ですね。最初の記事で述べられているような「飼っていたペットが一緒に死んでしまう」といった問題や、遺品の処分などの問題もこれに含めます。これらは亡くなった当人以外が損失を被る問題なので、「孤独死に対する非難」に利用されやすい論点といえます。
最後に、「宗教的死生観によって生じる問題」。これは何かというと、「無縁仏」などの、死後に供養やお墓参りをする人が居ない、という問題です。「東北大震災で死んだ人は幸せな死後を送っているよな」という記事で述べられているような、死後に弔ってくれる人が居るかどうかが幸福感を左右するという価値観の人に固有の問題といえます。
これらの問題は、いずれも単身生活する人にリスクとして降りかかりやすいと考えられますが、単身者に固有の問題とは必ずしも言えません。
例えば、晩年のQOLの問題は、単身生活でない人にも「子による虐待」や「家庭内での孤立」といったリスクがある一方、単身者も孤立した生活をしているとは限らず、一概に単身生活でない方がQOLが高いとは言い切れない部分があります。
また、医療機会の問題についても、子が親を介護している場合に、子が急病で倒れた結果親が餓死してしまうといったケースや、家族の精神疾患への偏見のために医師にかかる機会がなく、自室に閉じこもった状態で衰弱死してしまうなどのケースがあり、単身生活でないから医療機会を逃さないとはやはり言い切れません。
これらの問題を「孤独死」の問題として一まとめに扱うことには、良い点と悪い点があります。「名前を付けることで問題として可視化される」というメリットは小さくないでしょう。「孤独死」という概念があることで、行政が「孤独死の予防・対策」に予算を付けるといったことが行いやすくなり、医療機会の問題などの改善に役立つ可能性があります。
悪い点の一つは、「孤独死」の論点を一まとめに扱うことで、それらが単身生活にのみ有り得るリスクであるかのように誤認されるおそれがあることです。それにより、単身者が不当に悪者扱いされたり、単身者以外のリスクグループが見落とされたりする可能性があります。
私は、「孤独死」という言葉が人口に膾炙した現在においては、「孤独死」の各種の問題を一まとめに扱うことはむしろデメリットの方が大きいのではないかと考えています。各々の問題は、「誰にとってのどのような問題か」がそれぞれ異なりますし、考えうる対策・施策も異なってくるからです。
さて、「単身者に固有の問題とは必ずしも言えない」とは言っても、単身生活の方がこれらのリスクがずっと大きいには違いなく、結婚して家族を作ればリスクは大幅に下げられるはずだ――このように考えている人は少なくないでしょう。そう考えている人たちは、「今現在単身者でない人が、今後もずっとそうであるとは限らない」という事実を失念しています。
家族関係は、時間経過とともに変化し、個々人を取り巻く状況も変わります。自分の配偶者や子、親族などとの関係性が常に良好とは限りませんし、特に関係が悪化しなくても、相互に扶助できる余裕や物理的距離が保てるとも限りません。平均寿命の伸びた現在では、自分が晩年にさしかかった際に子が先に死亡している状況だって、さほど珍しくはないでしょう。
晩年に至るまで「孤立せずに済むような人間関係を維持する」ことは、努力でどうにかなる問題ではない、ということです。うまくいくかどうかのかなりの部分は、運に左右されます。
リスクを自身でコントロールすることが困難である以上、「今のままでは将来孤独死するぞ」というような脅しは、「孤独死」の問題に対して全く無意味です。「孤独死」の各種の問題は個人がどうこうできるものではなく、社会全体としてそれぞれに対策を考えていくしかない、と言えるでしょう。
むしろ、「孤独死」をそのように脅しの道具に用いることは、「孤独死」の問題に対して有害であるとさえ言えるかもしれません。このような「脅し」の背景には、「孤独死」が当人の自己責任であるという認識があると思われるからです。しかし既に述べたように、「孤独死」を当人の責任に帰するのは無理があります。そして、そうやって「孤独死=自己責任」という認識を広めることは、社会全体として「孤独死」に関する種々の問題に対策を行っていくことへの妨げになりかねません。
「孤独死」の問題は、どれも一朝一夕に解決するようなものではないでしょう。社会がどのくらいコストを負担するのか、どの程度の効果が見込めるのか、も見極めなければなりませんし、プライバシーとの兼ね合いも考えなくてはなりません。その意味でも、個人が出来ることは限られています。
しかし、私たちが個人として今すぐ出来ることもあります。「孤独死」を自己責任の問題として語ったり、脅しの道具に使うのを止めることです。
「童貞差別」の背景と「対人性愛の特権性」
少し前に、「童貞」をいじる(揶揄・侮蔑の対象とした言論活動)ことはセクシュアルハラスメントにあたるのか?という問題がインターネット上で話題になりました。
発端は、フリーライターのはあちゅう(伊藤春香)氏が過去に自身が受けたセクハラ・パワハラ被害を告発したことでした。この告発には大きな支持が集まったものの、kyoumoe氏による伊藤氏の過去の「童貞いじり」を含むセクシズム的な言説に苦言を呈する記事が書かれ、これに対する伊藤氏の反応が「セクシズム言説の自己正当化」と受け取られたことで、一転して伊藤氏に対して批判が集中しました。伊藤氏は「童貞いじり」について一端謝罪する記事を書きましたが、「本意ではなかった」として後に撤回しています。一連の流れはHagex氏によってこちらの記事にまとめられています。
「セクハラやパワハラ被害を訴えた人が別の場面で差別的発言やハラスメントをしていた場合、ハラスメント被害を支援する立場からはどのように対応・行動すればいいのか?」という問題は、それ自体難しいジレンマを孕んでいると思いますが、今回はこの問題には触れません。今回考えたいのは、「童貞いじり」というセクシズムの背景についてです。
ハラスメントに相当するかはさておき、「童貞いじり」が性差別的である、ということについては、ブログ記事やはてなブックマークのコメントなどを見る限り、この話題に関心を持っている多くの人が共有しているように思われます。そんな中でも、「『童貞いじり』はなぜ悪いのか」を論じて多くの人の注目と支持を集めたのが渡辺由佳里氏の記事でした。
渡辺氏の議論が広く支持された理由の一つは、「『童貞差別』が性差別の問題として正面切って論じられず、軽んじられてきた」という意識が、少なからぬ当事者の間にあったことでしょう。「男性に対するセクハラ」の社会的認知度は、この数年で大きく変わりました。
しかしながら、「童貞いじりはなぜ悪なのか」を論ずる渡辺氏の理路には論理の飛躍があり、この問題を扱うにあたってピントが外れている部分があるように感じられました。今回は、渡辺氏の記事の理路を批判的に検討しながら、「『童貞差別』とはどのような問題なのか?」を改めて考えてみたいと思います。
渡辺氏の記事の理路においてまず目を引くのは、「童貞いじり」を「レイプカルチャー」「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」と結び付けて論じている点です。この点に説得力を感じた、という感想も多かったように思います。
確かに、「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」において、性経験の乏しい人が蔑まれるというのはありそうなことだとは思います。ですが、「童貞いじり」は「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」の中でしか生まれない、あるいは、そうした文化と必然的に繋がってしまうものだ、と言えるでしょうか?
この繋がりについての渡辺氏の記述はやや曖昧ですが、引用した部分にもあるように「童貞いじり」の存在そのものが「性経験が多いほど価値が高い」という「男らしさ」の価値観なしには説明できないという前提が、これらを結び付ける論拠となっているように読めます。しかしながら、「童貞いじり」「童貞差別」の存在は、そのような価値観を想定しなくても容易に説明できます。
「性経験に価値がある」という考え方は、必ずしも「性経験が多いほど価値が高い」「性的対象の相手は道具扱いすべし」といった発想と結び付いている必要はありません。こうした考え方よりもはるかに多数派である「女性をモノ扱い・道具扱いしたりせず、愛情と尊敬をもって接するべき」という思想と、「性経験に価値がある」という価値観とは、何の問題もなく両立します。「両立する」というよりむしろ、「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という思想は、「性的関係」が大きな価値をもつことを暗黙の前提にしている、と言った方が良いかもしれません。
「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という考え方(ごく一般的な恋愛観・パートナー観と言っていいでしょう)は、「愛情を伴った性的関係が人格的陶冶に重要である」という発想としばしば結び付きます。ここから「愛情を伴った性経験のない人は人格的に劣っている」という偏見までの距離はごくわずかです。
「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という思想は、単に多数派であるというだけでなく、私たちの社会において公的な制度(例えば婚姻)と結び付いてある種の特権的な地位を占めている、性に関する規範の体系です。例えば「愛情を伴った相手とのセックスは、自慰行為などの人相手でない性のあり方に比べて優位である」という価値観は、ほとんど自明のことであるかのように見做されてきましたし、今でも見做されています。
そのような中で、「愛情を伴った相手とのセックス」から逸脱するような性のあり方は、繰り返し「対人セックスの優位性」を支える規範の内側へと回収されるように語られてきました。曰く、「社会病理」。曰く、「本当の恋愛を知らない不幸な人たち」。曰く、「本物の恋愛・セックスの代替物」。「童貞いじり」の多くも、そうした規範的な語りの一部であると捉えることができます。
こうした背景に基づく「童貞差別」が、「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」との関連が薄いことはお分かりいただけるかと思います。「あの人は人格的に問題があるから童貞(あるいは愛情を伴った恋愛関係に乏しい)に違いない」と言い放つ人たちの多くは、普段からパートナーを道具扱いしているわけでも、「性経験が多いほど良い」と信じているわけでもないでしょう。このような差別の背後にある規範は、渡辺氏言うところの「マッチョな」規範よりももっと巨大で、ずっと大きな影響力を持っています。
もちろん、「性的関係に大きな価値を置く」価値観それ自体が悪いというわけではありませんし、それが性経験のない人・乏しい人に対する差別的言説に即結び付くというわけでもありません。ただ、「女性をモノ扱い・道具扱い『しない』こと」、あるいは「性経験が多いほど価値が高いという価値観『ではない』こと」が、「童貞いじり」「童貞差別」と対極にあるわけでもなく、また、歯止めになりもしない、ということなんです。
「童貞いじり」「童貞差別」には、渡辺氏の述べるような「レイプカルチャー」に端を発するものも中にはあるだろうとは思いますが、全部がそうではなく、「童貞いじり」が「レイプカルチャー」の一部であるというような議論は根拠に乏しいように思います。これは、なにも「童貞差別」を擁護したいわけではありません。「レイプカルチャー」という「悪者」に全てを押し付けることは、ごく一般的で広範な恋愛観・性愛を背景にもつ差別から目を背けることなのではないか、と問いたいだけです。
渡辺氏の記事については、もう少し触れておきたいこともあるのですが、それについては別の機会にしたいと思います。
発端は、フリーライターのはあちゅう(伊藤春香)氏が過去に自身が受けたセクハラ・パワハラ被害を告発したことでした。この告発には大きな支持が集まったものの、kyoumoe氏による伊藤氏の過去の「童貞いじり」を含むセクシズム的な言説に苦言を呈する記事が書かれ、これに対する伊藤氏の反応が「セクシズム言説の自己正当化」と受け取られたことで、一転して伊藤氏に対して批判が集中しました。伊藤氏は「童貞いじり」について一端謝罪する記事を書きましたが、「本意ではなかった」として後に撤回しています。一連の流れはHagex氏によってこちらの記事にまとめられています。
「セクハラやパワハラ被害を訴えた人が別の場面で差別的発言やハラスメントをしていた場合、ハラスメント被害を支援する立場からはどのように対応・行動すればいいのか?」という問題は、それ自体難しいジレンマを孕んでいると思いますが、今回はこの問題には触れません。今回考えたいのは、「童貞いじり」というセクシズムの背景についてです。
ハラスメントに相当するかはさておき、「童貞いじり」が性差別的である、ということについては、ブログ記事やはてなブックマークのコメントなどを見る限り、この話題に関心を持っている多くの人が共有しているように思われます。そんな中でも、「『童貞いじり』はなぜ悪いのか」を論じて多くの人の注目と支持を集めたのが渡辺由佳里氏の記事でした。
はあちゅうさんがBuzzFeedでセクハラとパワハラを告白された #MeToo は、これまで黙っていた日本の女性たちに勇気を与える勇敢な行動だと思う。
私も大学に入学した18歳の頃から数多くの性暴力とセクハラを体験してきたので、他人事とは思えず、フェイスブックなどで支持してきた。
だが、その後、はあちゅうさんの「童貞いじり(ご本人自身の表現)」に関する過去のツイートを見る機会があり、これは彼女の勇気ある #MeToo とは別に問題として指摘しておくべきではないかと感じた。
(中略)この異性間のハラスメントは、はあちゅうさんだけでなく、世間一般にまだまだ誤解があると思ったので、「なぜ童貞を笑いのネタにしてはならないのか」を説明してみたい。
渡辺氏の議論が広く支持された理由の一つは、「『童貞差別』が性差別の問題として正面切って論じられず、軽んじられてきた」という意識が、少なからぬ当事者の間にあったことでしょう。「男性に対するセクハラ」の社会的認知度は、この数年で大きく変わりました。
しかしながら、「童貞いじりはなぜ悪なのか」を論ずる渡辺氏の理路には論理の飛躍があり、この問題を扱うにあたってピントが外れている部分があるように感じられました。今回は、渡辺氏の記事の理路を批判的に検討しながら、「『童貞差別』とはどのような問題なのか?」を改めて考えてみたいと思います。
渡辺氏の記事の理路においてまず目を引くのは、「童貞いじり」を「レイプカルチャー」「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」と結び付けて論じている点です。この点に説得力を感じた、という感想も多かったように思います。
多くの女性と性交渉をすればするほど「男らしい」。つまり、男としての価値が上がるという考え方も昔から存在する。
それが、男性の「初体験の年齢自慢」と「寝た女の数自慢」につながる。
(中略)これは「セックスしたことのない男は一人前ではない。ふつうの男ではない」という見下げた視線が一般に存在するためだろう。特に、性体験が多い男性からの優越感が混じった蔑みの視線がある。
その視点なしには、「童貞いじり」は笑いのネタにはならない。
アメリカの若い男性は、以下の3つのタイプに分けられる。
(1) 女性を自分が利用する道具や物としか考えない男性
(2) 女性の権利を強く信じるフェミニストの男性
(3) そのどちらでもない中間層
(1)と(2)は少数で、大多数は(3)の中間層だ。
だが、(1)の男尊女卑のマッチョなアスリートは、崇拝されやすく、強い影響力を持つ。だから、(3)の集団は、(1)につい引きこまれてしまう。
実際に男性の「童貞」を笑うことと、人格があるひとりの女性を「セックスの対象」というモノにしてしまい、「●人と寝た」という数のひとつにしてしまう行為は程度が異なるように感じるかもしれない。しかし、根底にある認識の構造は同じようなものなのだ。
確かに、「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」において、性経験の乏しい人が蔑まれるというのはありそうなことだとは思います。ですが、「童貞いじり」は「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」の中でしか生まれない、あるいは、そうした文化と必然的に繋がってしまうものだ、と言えるでしょうか?
この繋がりについての渡辺氏の記述はやや曖昧ですが、引用した部分にもあるように「童貞いじり」の存在そのものが「性経験が多いほど価値が高い」という「男らしさ」の価値観なしには説明できないという前提が、これらを結び付ける論拠となっているように読めます。しかしながら、「童貞いじり」「童貞差別」の存在は、そのような価値観を想定しなくても容易に説明できます。
「性経験に価値がある」という考え方は、必ずしも「性経験が多いほど価値が高い」「性的対象の相手は道具扱いすべし」といった発想と結び付いている必要はありません。こうした考え方よりもはるかに多数派である「女性をモノ扱い・道具扱いしたりせず、愛情と尊敬をもって接するべき」という思想と、「性経験に価値がある」という価値観とは、何の問題もなく両立します。「両立する」というよりむしろ、「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という思想は、「性的関係」が大きな価値をもつことを暗黙の前提にしている、と言った方が良いかもしれません。
「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という考え方(ごく一般的な恋愛観・パートナー観と言っていいでしょう)は、「愛情を伴った性的関係が人格的陶冶に重要である」という発想としばしば結び付きます。ここから「愛情を伴った性経験のない人は人格的に劣っている」という偏見までの距離はごくわずかです。
「愛情と尊敬を伴った恋愛関係・パートナー関係」という思想は、単に多数派であるというだけでなく、私たちの社会において公的な制度(例えば婚姻)と結び付いてある種の特権的な地位を占めている、性に関する規範の体系です。例えば「愛情を伴った相手とのセックスは、自慰行為などの人相手でない性のあり方に比べて優位である」という価値観は、ほとんど自明のことであるかのように見做されてきましたし、今でも見做されています。
そのような中で、「愛情を伴った相手とのセックス」から逸脱するような性のあり方は、繰り返し「対人セックスの優位性」を支える規範の内側へと回収されるように語られてきました。曰く、「社会病理」。曰く、「本当の恋愛を知らない不幸な人たち」。曰く、「本物の恋愛・セックスの代替物」。「童貞いじり」の多くも、そうした規範的な語りの一部であると捉えることができます。
こうした背景に基づく「童貞差別」が、「女性をモノ扱い・道具扱いする文化」との関連が薄いことはお分かりいただけるかと思います。「あの人は人格的に問題があるから童貞(あるいは愛情を伴った恋愛関係に乏しい)に違いない」と言い放つ人たちの多くは、普段からパートナーを道具扱いしているわけでも、「性経験が多いほど良い」と信じているわけでもないでしょう。このような差別の背後にある規範は、渡辺氏言うところの「マッチョな」規範よりももっと巨大で、ずっと大きな影響力を持っています。
もちろん、「性的関係に大きな価値を置く」価値観それ自体が悪いというわけではありませんし、それが性経験のない人・乏しい人に対する差別的言説に即結び付くというわけでもありません。ただ、「女性をモノ扱い・道具扱い『しない』こと」、あるいは「性経験が多いほど価値が高いという価値観『ではない』こと」が、「童貞いじり」「童貞差別」と対極にあるわけでもなく、また、歯止めになりもしない、ということなんです。
「童貞いじり」「童貞差別」には、渡辺氏の述べるような「レイプカルチャー」に端を発するものも中にはあるだろうとは思いますが、全部がそうではなく、「童貞いじり」が「レイプカルチャー」の一部であるというような議論は根拠に乏しいように思います。これは、なにも「童貞差別」を擁護したいわけではありません。「レイプカルチャー」という「悪者」に全てを押し付けることは、ごく一般的で広範な恋愛観・性愛を背景にもつ差別から目を背けることなのではないか、と問いたいだけです。
渡辺氏の記事については、もう少し触れておきたいこともあるのですが、それについては別の機会にしたいと思います。
『倒錯の偶像』と思想家がもたらす女性蔑視
墨東公安委員会氏の記事に対して言及した前回の記事に対して、墨東公安委員会氏から次のようなお返事をいただきました。
これは至極尤もな反論ですので、私の方でもブラム・ダイクストラ著『倒錯の偶像』を入手して通読しました。その上での私の結論を先に言うと、「墨東公安委員会氏の記事のような結論が『倒錯の偶像』の記述から導き出せるとは到底思えない」というものでした。なぜそう思ったのかをこれから述べていきますが、その前に、このブログの読者の多くが未読であろう『倒錯の偶像』の内容と主題について、まず説明しておく必要があるでしょう。(私の説明が妥当であるかは『倒錯の偶像』を実際に読んだ上で判断していただくしかないのですが、その点はご容赦ください。)
ブラム・ダイクストラ著『倒錯の偶像』のAmazonのページを参照しますと、紹介文は次のようになっています。
しかしながら、これは(間違いではないものの)やや偏った説明です。確かに本書には多くの19世紀〜20世紀初頭欧米における絵画の図版が収録されており、それらの分析にページが費やされているのですが、当時の文学作品や演劇についても数多く取り上げられており、視覚的な分析のみの本ではありません。それに何より、当時の知識人(思想家・科学者・医師など)たちの著作の社会への影響について詳細に取り上げられており、むしろこちらが主題と言ってもいいくらいです。
著者の目的は19世紀〜20世紀初頭の絵画作品の珍妙さをあげつらうことではなく、それらの作品が制作された思想的背景を明らかにすること、それらの女性蔑視的な思想の源流が誰のどのようなものであったかを論じることであると私は考えています。そこで、本書で取り上げられている「思想」の流れをごく簡単に追ってみましょう。
ヨーロッパにおいて、19世紀における女性の地位は17〜18世紀に比べて大きく後退した、と著者ダイクストラは言います。その入り口となったのは、資本主義経済の発展に伴って「商売人が道徳的な危機に晒される」(つまり、商売の世界に関わり続けると道徳的に堕落する)という議論でした。この「問題」に対する処方箋として幅を利かせ始めたのが「商売人の『魂の保護者』として『家庭』が必要であり、そのために女性は夫に献身するべきだ」という思想だった、というのです。この思想は19世紀半ばにジュール・ミシュレやオーギュスト・コントらによって盛んに唱えられ、「道徳的堕落」という「不安」を煽ることによって(主に上流階級に)浸透していきました。この思想は次第にエスカレートし、「病弱な女性に道徳的価値がある」という風潮にまで至ります。
19世紀後半には、これらの風潮に反発する形で女権拡張運動が高まっていきますが、それらを押さえ込むような思想も盛んに唱えられるようになります。特に、「科学的装いを持った、性欲を極度に危険視する」思想が目立つようになりました。すなわち、女性の自慰行為を破滅的なものと捉え、女性から男性への性的誘惑や要求を忌むべきものとするものです。これらは女性を「より自然的で原始的」と見做す発想へと繋がっていきました。性的な快楽に耽溺することは原始的・動物的であり、女性はそのような「誤った」方向へ流されやすい(ので理性的な男性が禁欲と母性へと導かなければならない)というわけですね。
さらに、チャールズ・ダーウィンの進化論から派生した社会ダーウィニズムが、女性蔑視に拍車をかけることになります。強い影響力を持った社会ダーウィニストの一人であるハーバート・スペンサーは、「性差の拡大は進化論的成長の証」であり「女性の成長は原始的な段階で留まっている」のだと主張し、「女性は原始的・動物的」とする思想にさらなる科学的装いの権威付けを与えました。
ダイクストラは、こうした女性蔑視的思想が当時の若者たちにどのような影響を及ぼしたのかについても、日記・エッセイなどの資料から詳細に分析しています。例えば、19世紀末から20世紀初頭にかけての欧米の若年男性は、女性蔑視的な「科学的」言説と現実の女性との大きなギャップ、それに長く続いた性欲危険視の思想による性教育の欠如に苦しめられ、それがどのような絵画・文学作品の傾向に繋がったか、といった調子です。
そうした作品解釈の部分には、ちょっと無理があるのではと思えるようなものもいくつかあります。しかし、女性蔑視的な思想の源流と蔓延の流れを把握するには十分すぎるほどであり、また、科学的な装いの差別的思想の危険性を改めて感じさせてくれる点でも意義深い本だと私は思いました。
さて、墨東公安委員会氏の記事に戻りましょう。大元の記事では、『倒錯の偶像』の内容が次のように紹介されています。
この説明には、違和感の感じられる点があります。それは、女性蔑視を煽る思想を流布し、権威付けしてきた思想家・知識人たちの存在が曖昧にされていることです。ダイクストラの議論においては、「誰が、どのように女性蔑視に繋がる理論を構築してきたのか」こそが中心的な論点であるにも関わらずです。その結果、「複雑化・高度化する社会で、男どもがミソジニーに走」ったのはなぜなのか、がこの紹介からでは分からなくなっています。
さらに、墨東公安委員会氏は大元の記事の反響に応える解説記事中で、次のように述べています。
『倒錯の偶像』でなぜ19世紀当時の絵画や文学作品が数多く取り上げられ分析されたかといえば、「それらの内容と、当時の女性をめぐる社会的状況との関係を考察するため」でした。ダイクストラが絵画や文学作品の表現内容のみを見て19世紀当時の社会状況を論じたわけではないことは既に述べました。当時の日記やエッセイなどの資料とも突き合わせて、作品の内容が当時どのように受容されていたか、どのような背景で描かれたものかを分析しているわけです。
「『萌え』美少女表象自体がミソジニーなのでは必ずしもない」のであれば、それはダイクストラの議論の文脈から大きく外れていることになります。墨東公安委員会氏は「『萌え美少女表象』の内容が社会状況をどのような形で反映しているか」について何も語っていません。
このように墨東公安委員会氏の議論は、重要な点でダイクストラの議論と決定的にずれています。その結果、氏の議論の展開は、ダイクストラとは正反対とも言えるところに着地してしまっているように思えます。
ダイクストラの議論に従えば、「自己の趣味嗜好の正統化(正当化)のための理論武装」は、まさしく19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの思想家・知識人たちが行ってきた女性蔑視的思想の強化・権威化の過程そのものです。「自分達が普段触れている女性表象(絵画や文学)」を自明とした(根拠になりえないものを間接的に根拠とする)論理構築こそ、女性蔑視的思想とそれを背景とした表現との間の相互に強化しあう関係を生み出したものでした。
「教養」もまた、女性蔑視的な思想の正当化/正統化におおいに貢献しました。科学的理論という装いを与えられることで、女性蔑視的な思想は身につけておくべき「教養」として権威付けられ、当時の女権拡張運動にとっての大きな壁となったからです。
「オタクはかつて読み巧者であった」という言説がどこまで妥当であるか、「オタク」の歴史にあまり明るくない私には判断できませんが、ダイクストラを踏まえて、少なくともこれだけは言えるでしょう。「読み巧者」であることや「教養主義」は、差別的思想を跳ね返すよりも、むしろそれを強化するものとして利用され得ます。もちろん、「読み巧者」であることそれ自体が差別的であるということには全くなりませんが、「自己の趣味嗜好の正当化/正統化のために社会を語る」ような人たちは、社会を大きく歪めて語ってしまう可能性が高いと思われます。
いずれにせよ、墨東公安委員会氏の「『萌え美少女表象』が社会に広く受け入れられていること」が「社会に蔓延するミソジニーを背景としたもの」であるという主張は、『倒錯の偶像』におけるダイクストラの議論からは全くかけ離れており、ダイクストラを論拠と見做すことはできません。
墨東公安委員会氏の理路の欠点の一つは、「社会に蔓延するミソジニー」という言葉で具体的に何を問題にしようとしているのかはっきりしないこと、にあると私は思います。ダイクストラの議論では、「当時の女性蔑視思想の何が問題であったのか?」という問いには「女性蔑視思想の権威化による女性への抑圧」「女性蔑視思想と現実の女性とのギャップに苦しむ若年男性」と明確に答えられます。しかし、墨東公安委員会氏はその点が曖昧であり、「ミソジニーの具体的に何が悪いのか」「『萌え美少女表象』が広く社会に受け入れられているとなぜ悪いのか」と考えると、何が問題になっているのかが今一つよく分かりません。そして、何を主要な問題として具体的に設定するかによって、議論の流れ自体が大きく変わってくるはずです。
19世紀ヨーロッパの女性蔑視的思想家たちの理路の欠陥の一つも、この点にあったと言えるかもしれません。コントやミシュレの議論における「道徳的堕落」とは具体的に何がどのように問題だったのか。「性欲や自慰行為の危険性」とは一体何だったのか。「進化論的成長」が阻まれるとどのような問題があるのか。どれも、一歩踏み込んで考えると「何が悪いのか」が曖昧であり、ただ何となく「悪そうな気がする」ようなものばかりです。
墨東公安委員会氏に限らず、「オタク」「萌え」などに言及する議論には「何が主要な問題なのか」が曖昧にされたまま議論されているものが少なくないように思います。「何を主要な問題として論じているのか」を、今一度立ち止まって考えてみましょう。19世紀の「女性蔑視思想を振り撒いた思想家・知識人」たちと同じ轍を踏まないために。
さて、烏蛇さんのご指摘は、小生が「『萌え』文化の本質はミソジニーである」という主張をしており、それは飛躍である、ということかと思います。しかし正直なところ、これは小生としてはいささか本意ではないのであり、弁解させていただければと思います。
先の記事に寄せられた数多くの言葉を読みながら、小生が喉元まで出かかっていて、でも「それをいっちゃあオシマイよ」と抑えていた言葉があります。それは
「『倒錯の偶像』読んでから来い」
です(苦笑)。
(中略) 小生が「萌え」表象の日本社会への浸透に、社会におけるミソジニーの瀰漫(これの一展開が「日本会議」の成長と影響力の増大です)を読み取ったのは、ダイクストラ『倒錯の偶像』が19世紀西洋を舞台として描いた構図を、21世紀の日本にも応用できるのでは、と考えたことが最大の要因なのです。残念ながら烏蛇さんは、小生のその論点をあっさりと閑却され、「墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)」とされています。しかし「フェミ嫌い」や「権威主義」が目に付くのはあくまでも補足であって、一番の理論的根拠はダイクストラに求められているのです。
これは至極尤もな反論ですので、私の方でもブラム・ダイクストラ著『倒錯の偶像』を入手して通読しました。その上での私の結論を先に言うと、「墨東公安委員会氏の記事のような結論が『倒錯の偶像』の記述から導き出せるとは到底思えない」というものでした。なぜそう思ったのかをこれから述べていきますが、その前に、このブログの読者の多くが未読であろう『倒錯の偶像』の内容と主題について、まず説明しておく必要があるでしょう。(私の説明が妥当であるかは『倒錯の偶像』を実際に読んだ上で判断していただくしかないのですが、その点はご容赦ください。)
ブラム・ダイクストラ著『倒錯の偶像』のAmazonのページを参照しますと、紹介文は次のようになっています。
一世紀前の上流階級の人々が抱いた、危険な幻想であふれんばかりの書。映画やコマーシャルの世界に氾濫する女性イメージの起源を世紀末絵画のうちに読み解き、三百枚を越す数多くの珍妙な図版を収録する。
しかしながら、これは(間違いではないものの)やや偏った説明です。確かに本書には多くの19世紀〜20世紀初頭欧米における絵画の図版が収録されており、それらの分析にページが費やされているのですが、当時の文学作品や演劇についても数多く取り上げられており、視覚的な分析のみの本ではありません。それに何より、当時の知識人(思想家・科学者・医師など)たちの著作の社会への影響について詳細に取り上げられており、むしろこちらが主題と言ってもいいくらいです。
著者の目的は19世紀〜20世紀初頭の絵画作品の珍妙さをあげつらうことではなく、それらの作品が制作された思想的背景を明らかにすること、それらの女性蔑視的な思想の源流が誰のどのようなものであったかを論じることであると私は考えています。そこで、本書で取り上げられている「思想」の流れをごく簡単に追ってみましょう。
ヨーロッパにおいて、19世紀における女性の地位は17〜18世紀に比べて大きく後退した、と著者ダイクストラは言います。その入り口となったのは、資本主義経済の発展に伴って「商売人が道徳的な危機に晒される」(つまり、商売の世界に関わり続けると道徳的に堕落する)という議論でした。この「問題」に対する処方箋として幅を利かせ始めたのが「商売人の『魂の保護者』として『家庭』が必要であり、そのために女性は夫に献身するべきだ」という思想だった、というのです。この思想は19世紀半ばにジュール・ミシュレやオーギュスト・コントらによって盛んに唱えられ、「道徳的堕落」という「不安」を煽ることによって(主に上流階級に)浸透していきました。この思想は次第にエスカレートし、「病弱な女性に道徳的価値がある」という風潮にまで至ります。
19世紀後半には、これらの風潮に反発する形で女権拡張運動が高まっていきますが、それらを押さえ込むような思想も盛んに唱えられるようになります。特に、「科学的装いを持った、性欲を極度に危険視する」思想が目立つようになりました。すなわち、女性の自慰行為を破滅的なものと捉え、女性から男性への性的誘惑や要求を忌むべきものとするものです。これらは女性を「より自然的で原始的」と見做す発想へと繋がっていきました。性的な快楽に耽溺することは原始的・動物的であり、女性はそのような「誤った」方向へ流されやすい(ので理性的な男性が禁欲と母性へと導かなければならない)というわけですね。
さらに、チャールズ・ダーウィンの進化論から派生した社会ダーウィニズムが、女性蔑視に拍車をかけることになります。強い影響力を持った社会ダーウィニストの一人であるハーバート・スペンサーは、「性差の拡大は進化論的成長の証」であり「女性の成長は原始的な段階で留まっている」のだと主張し、「女性は原始的・動物的」とする思想にさらなる科学的装いの権威付けを与えました。
ダイクストラは、こうした女性蔑視的思想が当時の若者たちにどのような影響を及ぼしたのかについても、日記・エッセイなどの資料から詳細に分析しています。例えば、19世紀末から20世紀初頭にかけての欧米の若年男性は、女性蔑視的な「科学的」言説と現実の女性との大きなギャップ、それに長く続いた性欲危険視の思想による性教育の欠如に苦しめられ、それがどのような絵画・文学作品の傾向に繋がったか、といった調子です。
そうした作品解釈の部分には、ちょっと無理があるのではと思えるようなものもいくつかあります。しかし、女性蔑視的な思想の源流と蔓延の流れを把握するには十分すぎるほどであり、また、科学的な装いの差別的思想の危険性を改めて感じさせてくれる点でも意義深い本だと私は思いました。
さて、墨東公安委員会氏の記事に戻りましょう。大元の記事では、『倒錯の偶像』の内容が次のように紹介されています。
複雑化・高度化する社会で、安楽を求めた男どもがミソジニーに走り、さまざまな(擬似)科学を総動員してそれを正当化しようと躍起になっていた、という歴史的な先例が存在しているのです。であれば、ミソジニーを軸とした運動が何となく社会に受け入れられ、そこではおよそ学問的には誤った「歴史修正主義」が横行しているというのも、同様の事例であると考えられます。
その先例とは何か――といえば、当ブログを長年読んでいただいている方でしたらまたかと苦笑されそうですが、それは第一次グローバリゼーションとも呼ばれる、19世紀での西洋でのことでした。19世紀西欧のミソジニーについては、ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』という本が、主として絵画に描かれた女性像を題材として、詳細に論じています。
この説明には、違和感の感じられる点があります。それは、女性蔑視を煽る思想を流布し、権威付けしてきた思想家・知識人たちの存在が曖昧にされていることです。ダイクストラの議論においては、「誰が、どのように女性蔑視に繋がる理論を構築してきたのか」こそが中心的な論点であるにも関わらずです。その結果、「複雑化・高度化する社会で、男どもがミソジニーに走」ったのはなぜなのか、がこの紹介からでは分からなくなっています。
さらに、墨東公安委員会氏は大元の記事の反響に応える解説記事中で、次のように述べています。
つまり、単に「オタク」な人が反動だとかなんだとかではなく(前記事でも「日本会議=オタク、ではない」と述べました)、今世紀の日本社会でミソジニーの滲出する状況があり、それがある面では日本会議の影響力の巨大化を、またある面では「オタク」的表象の瀰漫をもたらしたのではないかと、ダイクストラ『倒錯の偶像』を補助線として考えたというわけです。言い換えれば、「オタク」文化の「萌え」美少女表象自体がミソジニーなのでは必ずしもなく、本来マイナーであったそれが、社会に広く受け入れられている状況にミソジニーの反映が見られるのではないか、ということです。
『倒錯の偶像』でなぜ19世紀当時の絵画や文学作品が数多く取り上げられ分析されたかといえば、「それらの内容と、当時の女性をめぐる社会的状況との関係を考察するため」でした。ダイクストラが絵画や文学作品の表現内容のみを見て19世紀当時の社会状況を論じたわけではないことは既に述べました。当時の日記やエッセイなどの資料とも突き合わせて、作品の内容が当時どのように受容されていたか、どのような背景で描かれたものかを分析しているわけです。
「『萌え』美少女表象自体がミソジニーなのでは必ずしもない」のであれば、それはダイクストラの議論の文脈から大きく外れていることになります。墨東公安委員会氏は「『萌え美少女表象』の内容が社会状況をどのような形で反映しているか」について何も語っていません。
このように墨東公安委員会氏の議論は、重要な点でダイクストラの議論と決定的にずれています。その結果、氏の議論の展開は、ダイクストラとは正反対とも言えるところに着地してしまっているように思えます。
「オタク」の一般化・大衆化は、本来マイノリティであったオタクが自己の趣味嗜好を正統化するために行っていた理論武装を、放擲させるようになっていったと考えられます。本来子供のおもちゃで「下らない」存在だったはずのマンガやアニメ、ゲームにあえて耽溺するのは、それがこんなにも面白いからだ――と主張する必要があり、さてこそそこでテクストを面白く読みこなす技能が求められたのです。オタクは読み巧者であり、だから面白かったのですね。
同じ淵源に端を発している可能性のある、日本会議的な反動と、「萌え」表象の浸透拡散については、ミソジニーの他に、体系化を軽んじて、目前の自分にとって好ましい衝動の断片をかき集めて、オカルト的に世界を構築する傾向にあるのではないか、そう小生は考えています。その背景には、冷戦後の「大きな物語」の喪失という毎度ながらの話はやはり無視できないですし、教養という一身を超えた普遍的な存在への敬意が失われていることもあるのでしょう。
ダイクストラの議論に従えば、「自己の趣味嗜好の正統化(正当化)のための理論武装」は、まさしく19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの思想家・知識人たちが行ってきた女性蔑視的思想の強化・権威化の過程そのものです。「自分達が普段触れている女性表象(絵画や文学)」を自明とした(根拠になりえないものを間接的に根拠とする)論理構築こそ、女性蔑視的思想とそれを背景とした表現との間の相互に強化しあう関係を生み出したものでした。
「教養」もまた、女性蔑視的な思想の正当化/正統化におおいに貢献しました。科学的理論という装いを与えられることで、女性蔑視的な思想は身につけておくべき「教養」として権威付けられ、当時の女権拡張運動にとっての大きな壁となったからです。
「オタクはかつて読み巧者であった」という言説がどこまで妥当であるか、「オタク」の歴史にあまり明るくない私には判断できませんが、ダイクストラを踏まえて、少なくともこれだけは言えるでしょう。「読み巧者」であることや「教養主義」は、差別的思想を跳ね返すよりも、むしろそれを強化するものとして利用され得ます。もちろん、「読み巧者」であることそれ自体が差別的であるということには全くなりませんが、「自己の趣味嗜好の正当化/正統化のために社会を語る」ような人たちは、社会を大きく歪めて語ってしまう可能性が高いと思われます。
いずれにせよ、墨東公安委員会氏の「『萌え美少女表象』が社会に広く受け入れられていること」が「社会に蔓延するミソジニーを背景としたもの」であるという主張は、『倒錯の偶像』におけるダイクストラの議論からは全くかけ離れており、ダイクストラを論拠と見做すことはできません。
墨東公安委員会氏の理路の欠点の一つは、「社会に蔓延するミソジニー」という言葉で具体的に何を問題にしようとしているのかはっきりしないこと、にあると私は思います。ダイクストラの議論では、「当時の女性蔑視思想の何が問題であったのか?」という問いには「女性蔑視思想の権威化による女性への抑圧」「女性蔑視思想と現実の女性とのギャップに苦しむ若年男性」と明確に答えられます。しかし、墨東公安委員会氏はその点が曖昧であり、「ミソジニーの具体的に何が悪いのか」「『萌え美少女表象』が広く社会に受け入れられているとなぜ悪いのか」と考えると、何が問題になっているのかが今一つよく分かりません。そして、何を主要な問題として具体的に設定するかによって、議論の流れ自体が大きく変わってくるはずです。
19世紀ヨーロッパの女性蔑視的思想家たちの理路の欠陥の一つも、この点にあったと言えるかもしれません。コントやミシュレの議論における「道徳的堕落」とは具体的に何がどのように問題だったのか。「性欲や自慰行為の危険性」とは一体何だったのか。「進化論的成長」が阻まれるとどのような問題があるのか。どれも、一歩踏み込んで考えると「何が悪いのか」が曖昧であり、ただ何となく「悪そうな気がする」ようなものばかりです。
墨東公安委員会氏に限らず、「オタク」「萌え」などに言及する議論には「何が主要な問題なのか」が曖昧にされたまま議論されているものが少なくないように思います。「何を主要な問題として論じているのか」を、今一度立ち止まって考えてみましょう。19世紀の「女性蔑視思想を振り撒いた思想家・知識人」たちと同じ轍を踏まないために。
「萌え」文化はミソジニーの発露なのか
オタク文化、特に漫画・アニメオタクの人たちによる「萌え絵」の文化は、これまでもしばしばミソジニー(女性憎悪)、特に男性のミソジニーと結び付けて語られてきました。今回取り上げる墨東公安委員会氏の記事も、以前からよくある論旨の一つだと言えます。
この主張が妥当か否かを考える前に、注意しなくてはならないことがあります。「○○はミソジニーを含んでいる」などと言及する場合、それが「○○を構成する要素・関わる人たちの一部にミソジニーが含まれる」という意味なのか、それとも「○○は本質的にミソジニー的なものである」と理解するか、によって話は全く変わってくるからです。
これとよく似た問題が、BL(ボーイズラブ)ジャンルとホモフォビア(同性愛憎悪)との間にあります。BLにはホモフォビア的な描写がしばしば含まれる(あるいは、BL愛好家の人たちの中には同性愛者を蔑視する人たちが含まれる)、という批判は以前からなされてきました。この指摘が正しいとしても(実際、ある程度は正しいと思います)、「BLは本質的にホモフォビア的なものである」とか「BLはホモフォビアを原動力に発展したものだ」というような結論はここからは導かれません。
また、同様に「科学者コミュニティの内部における女性差別」といった例も挙げられます。「科学者の間での女性差別・蔑視」や、「女性差別を背景にした科学理論」などはしばしば批判の対象となってきました。これもやはり、ここから「科学は本質的に女性差別的なものである」というような結論は導けません。
女性差別やミソジニー、ホモフォビアといった現象は広く社会全体にみられるものであり、萌え文化などのコミュニティも社会の内部にある以上、これらの影響を受けてしまう、ということは言えるでしょう。「BLが同性愛表象を愛でるものだからといってホモフォビアと無縁とはいえない」という主張は妥当です。しかし、それを「BLは本質的にホモフォビア的なものだ」へと結び付けるのは論理の飛躍といえます。
墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)で、これは先ほどの区分けでいえば前者です。しかし、氏はそれを「『萌え』が広がったのはミソジニー的風潮の反映である」という考察に繋げており、これは後者の主張といえるでしょう。ここには論理の飛躍があります。
ただし、この「飛躍」は、ある前提を置くことで極めてスムーズに接続させることができます。それは、「萌え文化は現実の恋愛・性愛からの逃避により、その代替物として成立した」というものです。
この主張は、墨東公安委員会氏も取り上げている喪男道の覚悟氏や、その思想的背景のひとつである本田透氏の著書『電波男』が理論の前提としているものです。現実の恋愛が「恋愛資本主義」に毒されて価値が失われ、純愛を求める男性はその代替を求めて「萌え」に向かった、という主張であり、この考え方では「現実の恋愛(あるいは現実の女性)」と「萌え文化」が対立関係ということになります。
この対立関係を前提すれば、「社会のミソジニーの広がりによって、ミソジニーを根源とする『萌え』が広がった」という主張は当然の主張ということになるでしょう。逆にこれを前提しなければ、論理を飛躍させずに説明することは困難だと思います。
この主張は、覚悟氏のような狭義のミソジニスト(女性憎悪を公言し、それが正義であると主張する人)にとって大変都合の良い考え方です。一方で、この主張は現実的に考えて多分に無理があります。「萌え」を楽しみながら現実でも恋愛あるいは結婚をしている人は大勢いますし、また、現実の恋愛・性愛を忌避する人が必ずしも「萌え」を愛好しているわけではありません。何よりこの理屈は「萌え文化」に関わる数多くのオタク女性の存在について、整合的な説明が難しい。先の本田透氏は、女性オタクについての記述自体を避けています。
墨東公安委員会氏は、覚悟氏が「萌え的な表象がミソジニーの文化風潮を表している」と主張する書籍を評価していることについて、次のように述べています。
しかし、先ほど述べた「論理の飛躍と接続」を考えれば、これは意外でもなんでもない、と私は思います。「萌えは本質的にミソジニー的なものだ」という主張は、覚悟氏のような人物にとって、自身の女性憎悪的な論理を補強してくれる「有利」な主張だからです。もっとも、「ミソジニー批判の(つもりの)言説が、かえってミソジニー的な主張を補強している」という意味では「皮肉」ではあるでしょう。
女性憎悪的、あるいは女性差別・蔑視的な言説を批判すべきでないとは私は全く思いません。しかし、あるカテゴリー全般を女性差別的・蔑視的と決め付けることには(少なくとも)慎重であるべきだ、と考えます。なぜなら、そのような主張は女性差別的・蔑視的な論理を却って助長するものになりかねないからです。
そして小生が指摘せずにはおられないのは、ダイクストラが『倒錯の偶像』であまた紹介した、19世紀のミソジニーを表象した絵画のような文化風潮に相当する存在として、現在の日本で比定されるべきは、まさしく「オタク」文化とされる、「萌え」的な表象なのではないかということです。現在のオタクの「フェミ」嫌い、強いものに傾く権威主義などが、それを感じさせるにはおられません。
(中略) まとめて言えば、「萌え」好きな「オタク」の一般化・大衆化は、日本会議的な反動の風潮と軌を一にしているのではないか、というのが、幾つかの書物を読んで小生が考えていることなのであります。
この主張が妥当か否かを考える前に、注意しなくてはならないことがあります。「○○はミソジニーを含んでいる」などと言及する場合、それが「○○を構成する要素・関わる人たちの一部にミソジニーが含まれる」という意味なのか、それとも「○○は本質的にミソジニー的なものである」と理解するか、によって話は全く変わってくるからです。
これとよく似た問題が、BL(ボーイズラブ)ジャンルとホモフォビア(同性愛憎悪)との間にあります。BLにはホモフォビア的な描写がしばしば含まれる(あるいは、BL愛好家の人たちの中には同性愛者を蔑視する人たちが含まれる)、という批判は以前からなされてきました。この指摘が正しいとしても(実際、ある程度は正しいと思います)、「BLは本質的にホモフォビア的なものである」とか「BLはホモフォビアを原動力に発展したものだ」というような結論はここからは導かれません。
また、同様に「科学者コミュニティの内部における女性差別」といった例も挙げられます。「科学者の間での女性差別・蔑視」や、「女性差別を背景にした科学理論」などはしばしば批判の対象となってきました。これもやはり、ここから「科学は本質的に女性差別的なものである」というような結論は導けません。
女性差別やミソジニー、ホモフォビアといった現象は広く社会全体にみられるものであり、萌え文化などのコミュニティも社会の内部にある以上、これらの影響を受けてしまう、ということは言えるでしょう。「BLが同性愛表象を愛でるものだからといってホモフォビアと無縁とはいえない」という主張は妥当です。しかし、それを「BLは本質的にホモフォビア的なものだ」へと結び付けるのは論理の飛躍といえます。
墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)で、これは先ほどの区分けでいえば前者です。しかし、氏はそれを「『萌え』が広がったのはミソジニー的風潮の反映である」という考察に繋げており、これは後者の主張といえるでしょう。ここには論理の飛躍があります。
ただし、この「飛躍」は、ある前提を置くことで極めてスムーズに接続させることができます。それは、「萌え文化は現実の恋愛・性愛からの逃避により、その代替物として成立した」というものです。
この主張は、墨東公安委員会氏も取り上げている喪男道の覚悟氏や、その思想的背景のひとつである本田透氏の著書『電波男』が理論の前提としているものです。現実の恋愛が「恋愛資本主義」に毒されて価値が失われ、純愛を求める男性はその代替を求めて「萌え」に向かった、という主張であり、この考え方では「現実の恋愛(あるいは現実の女性)」と「萌え文化」が対立関係ということになります。
この対立関係を前提すれば、「社会のミソジニーの広がりによって、ミソジニーを根源とする『萌え』が広がった」という主張は当然の主張ということになるでしょう。逆にこれを前提しなければ、論理を飛躍させずに説明することは困難だと思います。
この主張は、覚悟氏のような狭義のミソジニスト(女性憎悪を公言し、それが正義であると主張する人)にとって大変都合の良い考え方です。一方で、この主張は現実的に考えて多分に無理があります。「萌え」を楽しみながら現実でも恋愛あるいは結婚をしている人は大勢いますし、また、現実の恋愛・性愛を忌避する人が必ずしも「萌え」を愛好しているわけではありません。何よりこの理屈は「萌え文化」に関わる数多くのオタク女性の存在について、整合的な説明が難しい。先の本田透氏は、女性オタクについての記述自体を避けています。
墨東公安委員会氏は、覚悟氏が「萌え的な表象がミソジニーの文化風潮を表している」と主張する書籍を評価していることについて、次のように述べています。
「喪男道」の「覚悟」氏といえば、十年ばかり前にネットの一部界隈で流行っていた「非モテ論壇」最右翼の、ネット上のミソジニーの権化のような方として、その筋では名を轟かせておりました。しかしその女性嫌悪は氏自身の心をも蝕んでしまったのか、やがて氏はネット上の活動を休止され、その消息は分からないままです。
そんなミソジニーの極北のような人が、知らずミソジニー批判の書である『倒錯の偶像』を自己の価値観に沿ったものとして受け入れている、これは何とまあ皮肉というか馬鹿げた光景であることよ、と小生は愕然というか憮然となったのでありました。
しかし、先ほど述べた「論理の飛躍と接続」を考えれば、これは意外でもなんでもない、と私は思います。「萌えは本質的にミソジニー的なものだ」という主張は、覚悟氏のような人物にとって、自身の女性憎悪的な論理を補強してくれる「有利」な主張だからです。もっとも、「ミソジニー批判の(つもりの)言説が、かえってミソジニー的な主張を補強している」という意味では「皮肉」ではあるでしょう。
女性憎悪的、あるいは女性差別・蔑視的な言説を批判すべきでないとは私は全く思いません。しかし、あるカテゴリー全般を女性差別的・蔑視的と決め付けることには(少なくとも)慎重であるべきだ、と考えます。なぜなら、そのような主張は女性差別的・蔑視的な論理を却って助長するものになりかねないからです。
「弱者男性論」によるフェミニズム批判と「社会運動の公正性」
「フェミニズムが弱者男性を弾圧・抑圧している」という議論とそれへの反論が話題になっています。この議論そのものは以前からみられるものですが、大きく話題になったのはこのまとめからでしょうか。途中までの流れは司馬光氏の記事にまとめられています。
最初のまとめの主題は「生活困窮する高齢男性」ですが、「困窮する高齢男性へのケアの方法論」といった問題はフェミニズム批判している側の主な論点にはなっていないようです。フェミニストであるfont-da氏の「弱者男性のケア」についての記事は、「弱者男性の不満は『ケア役割』の女性が自分に配分されないことではないか」と推測した点が「藁人形論法」であるとして批判されましたが(これが見当違いの推測であることは確かだと思います)、ケアの方法論などについての批判や提案はほとんど見られませんでした。
司馬光氏はフェミニズム批判の内実について次のように述べています。
つまり、フェミニズム批判は不満やケアの要求ではなく、「公正性を追求する活動を自称していながら、その実は自分たちの利益を追求しているのではないか」という疑念に基づくものだということです。この司馬光氏の見方が全てのフェミニズム批判に当てはまるわけではないでしょうが、「弱者男性」をめぐるフェミニズム批判においてはこれが多数派を占めると考えてもいいのではないかと思います。
さて、そうであるとして、実際にフェミニズムは不公正なのでしょうか。不公正であるとすると、それは「弱者男性」にどんな影響を及ぼすのでしょうか。……という問いの前に、そもそもフェミニズムのような社会運動における「公正性」とは何であるかを考えておく必要があります。まず社会運動の立場からの「公正」を考え、それと批判者の考えている「公正」とはズレがあるのかどうか、あるとすればどのようなものなのか、を見ていきたいと思います。
「公正」という単語は「順法・適法」という意味で使われる場合もありますが、社会全体の公正性を考える上ではこの見方は不十分でしょう。現行の法制度それ自体の公正性を問うことができないからです。
先の司馬光氏の記事では、「公正」を「法の下の平等」と言い換えています。確かに「法の下の不平等」すなわち法の二重基準性は、社会における不公正の大きな部分を占めると考えていいでしょう。ですが、これだけでは「法制度の問題」のみについてしか考えることができなくなりますので、これに加えて「非人道的ないし著しく不合理な社会的リソースの分配状況」を「社会的不公正」の一つとして挙げておきます。そして、法の二重基準またはリソース分配において不利な立場に置かれている人たちを「弱者」と呼ぶことにしましょう。これらの定義はいずれも曖昧さを残していますが、概念の性質上「厳密な」定義が困難なことはお分かりいただけると思います。
社会における不公正はなぜ生じるのか? これには、「過去の偶然の歴史的経緯により定着したものが、慣習として残ってきた」「権力の集中する集団が自分たちの利益を追求した結果生じた」といったことが考えられるでしょう。では、不公正を解消するにはどうすれば良いでしょうか?
まず考えられるのは「より公正な法や社会的ルールの形成」です。これは長期的には「社会の不公正の是正」そのものとも言えますが、短期的には実現が難しかったり、緊急を要するリソース分配の問題がある場合(「社会的不公正」の多くがそうでしょう)には他の手段が必要になってきます。そこで考えられるのが「弱者への直接的な手当て・ケア」と「弱者の強者に対する対抗権力の形成」です。実際の「弱者」に関わる社会運動(フェミニズム以外に、少数民族の運動、被差別階級の解放運動、労働運動、貧困・ホームレス支援、LGBTの運動など)も概ねこの3つの要素を包含しています。
ここで、「弱者に対するケアは分かるが、対抗権力の形成はなぜ必要なのか」と思われる方も多いと思います。弱者への対抗権力の付与は「逆差別」に繋がるのではないか、という懸念を持たれる方も居るでしょう。しかしながら、対抗権力なしに社会の不公正を是正することは事実上不可能です。
理由は、先程述べた「権力の集中する集団」(これを「強者」と呼ぶことにします)が社会的不公正の一因になっていることと、公正・不公正の概念の曖昧さにあります。現実の社会において「強者」がルール形成を主導できる立場に居る以上、公正・不公正の基準は強者の都合の良いように定められがちです。また、「弱者へのケア」は、それに条件を付けることで「強者に都合の良い弱者のあり方」を「弱者」に強要する道具ともなります。それは「弱者」の固定化にも結び付くことになるでしょう。
これらを防ぐには、「弱者が対抗権力を得る」ことにより「強者」に圧力をかけていく、ということが必要になってくるわけです。「社会的公正」と「弱者の利益・権力強化」は相容れないどころか、むしろ不可分であると言えます。
かといって、「弱者の対抗権力の強化」に問題がないわけではありません。というと「逆差別」を想起する人が少なくないと思いますが、この概念は社会運動の公正性を考える上でやや一面的に過ぎます。現実には、「弱者の対抗権力の強化」によって「強者」と「弱者」の立場が完全に逆転するようなことはそうそう起こりません。問題はそのはるか手前で発生します。「ある側面における『弱者』の対抗権力の強化が、別の側面からみた『弱者』に対する圧力になる」という問題です。社会運動の歴史のなかでは、実際にこのような問題は頻繁に起こってきました。
こうした問題を運動のなかで事前に予防することは困難であり、圧力を受ける弱者当事者や、運動内部からの批判によって是正されることが必要です。このような批判を契機として、新たな社会運動が起こる場合もあります。
社会の不公正の是正という観点から「社会運動に対する批判」を捉えるとすれば、その「批判」自体の公正性も問われなければなりません。これは「既存の社会運動がどのような問題を抱えているか」によって話が変わってきます。
まず、ある社会運動が、別の側面からみた「弱者」に対して「何もしない」、すなわちプラスにもマイナスにもならない場合(これを「不在型」と呼ぶことにします)は、既存の運動を批判してもあまり意味がありません。既存の運動に携わる人たちが、新たな運動に費やすリソースを十分持っている場合は多くありませんし、人には向き不向きもあるからです。この場合は、当事者やその問題に関心を持つ人たちが新たな社会運動を立ち上げるのが最善でしょう。
批判が重要な意味を持つのは、ある社会運動が別の側面からみた「弱者」に対してマイナスになっている場合です。例えば、ある社会運動による訴えや施策が、ある側面からみた「弱者」にはプラスになっているが、別の側面からみた「弱者」にはマイナスになっているような場合(これを「ジレンマ型」とします)や、ある社会運動の当事者や支援者が別の側面においては「強者」であり、その発言などが「弱者」に対する攻撃になっているような場合(これを「無自覚強者型」とします)には、「圧力を受けている当事者やそれに近い人からの指摘・問題提起」が社会運動のあり方の改善に寄与できるでしょう。
「弱者男性論」によるフェミニズム批判の場合はどうでしょうか? 各記事のはてなブックマークなどでよく見かける批判の様式は「フェミニズムは『救済対象の選別』をしており、これは欺瞞だ」というものです。これを「フェミニズムが『弱者男性』に対して何も救済しようとしない」という「不在型」の問題と理解するなら、この批判は不公正の是正という点からみてあまり意味のない批判だといえます。
一方で、この批判を「『救済対象』と認定した以外の人たちに対して『救済を求めること』自体を批判したり差別的に扱っている」という意味に理解するなら、これは「無自覚強者型」に近い話になり、(主張が妥当であれば)批判には一定の意味があるといえるでしょう。
実際のところはというと、この2種類の批判が入り混じっている(そして両者の区別があまりなされていない)ように見受けられます。また反批判側も、両者を区別せず単に「不在型」の主張と受け取っている人が多いように思います。
同様の不明確さは、最初に挙げた司馬光氏の記事にもあります。
「自分たちがかって批判した『強者男性』にならないために何をなすか」という一文を「『強者男性』のように更なる弱者を抑圧しないためには」と解釈すれば、確かにこれはフェミニズムにとって考えなくてはならない問題だと思います。しかし、「強者になるのだから当然他の弱者から要求に応えるべきだ」というのはそれとは話が違ってきます。
仮に、「『強者男性』個々人が『弱者』である女性のために一定の負担を負わねばならない」のであれば、同様の負担を「強者女性」も負うべきである、という主張には妥当性があるでしょう。が、実際にはそのような規範は存在しませんし、フェミニズムはそのような主張をしてもいません。フェミニズムの「強者男性への」(正しくは、強者男性が多数を占める権力者への)訴えは、社会全体に対する「より公正な法や社会的ルールの形成」についてのものであって、「強者男性」個々人への負担を要求するものではありませんでした。「強者男性」は個人として何らかの負担や責任を負っているわけではありません。
「フェミニズムは公正なのか」という最初の問いに立ち戻ってみましょう。フェミニストが例えば「性経験の有無」で男性を差別するような言動をしたとすれば、そうした振る舞いは「不公正」であり批判されるべきだ、と言えますし、仮にそのようなフェミニスト・フェミニズム支持者が多数を占めるのであれば、それはフェミニズム全体の問題として捉えることも可能でしょう。一方で、フェミニストが「女性にとって有益」な施策を進めているから不公正だ、と言うことはできません。それを否定することは「弱者への手当て」や「対抗権力の形成」自体を否定することになるからです。
フェミニズムに対する「不公正ではないか」という疑念は、「弱者の利益・権力付与」と「社会的公正」は相反するもの、という発想を前提にしていると考えられます。このような前提を置くと、不公正の是正を目指す社会運動・活動のほとんどが「不公正」である、という結論が導かれざるを得ません。「弱者男性」にフォーカスした運動についても同様です。従って、そのような運動を諦めるか、「弱者男性にとっての利益誘導を目指す運動は社会的公正とは相容れない、それで何が悪いのか」と開き直るしかありません。それは、多くの人たちの関心・共感を得る機会を自ら放り投げることになります。
こうした態度は、社会的公正に対する厳格さというよりむしろ、社会的公正へのニヒリズムと呼んだ方が的確ではないかと思います。ニヒリズムに陥ることを当人達だけの責任に帰すことはできませんが、それが当人達の首を絞めていることも間違いないでしょう。
フェミニストが常に「公正な」言動・行動をしているわけではありませんし、フェミニズム運動による施策がある側面における「弱者」に対する圧力として働く場合も考えられます。それらに対して必要なのはニヒリズムを背景とする「フェミニズムの偽善・欺瞞」という漠然とした「批判」ではなく、具体的な事象に対する具体的な批判です。社会的不公正を追及するならば、まず「公正性」という概念を自分自身が信頼することが必要なのではないでしょうか。
最初のまとめの主題は「生活困窮する高齢男性」ですが、「困窮する高齢男性へのケアの方法論」といった問題はフェミニズム批判している側の主な論点にはなっていないようです。フェミニストであるfont-da氏の「弱者男性のケア」についての記事は、「弱者男性の不満は『ケア役割』の女性が自分に配分されないことではないか」と推測した点が「藁人形論法」であるとして批判されましたが(これが見当違いの推測であることは確かだと思います)、ケアの方法論などについての批判や提案はほとんど見られませんでした。
司馬光氏はフェミニズム批判の内実について次のように述べています。
何故弱者男性は、フェミニストに窮状を訴えるのか?を考えていこう。多くの人が指摘するようにそこには具体的な要求は少ない。彼らは何を言わんとしているのか?
(中略)
弱者男性に具体的な要求は無いと書いた。彼らはむしろ、むしろある疑いを晴らそうとしているのだ。女性たちの訴えは「公正」を巡るものなのか?そうでなく「自分たちの都合」だけのことなのか?「公正」なら何故自分たちは応答しないのか?「自分たちの都合」ならむしろ強者男性が彼女たちに応答する意味は無くなる。
強者男性には「公正」(法の下での平等)を掲げ要求を通し、一方自分たちが強者として弱者男性への応答を無視するならそれは欺瞞ではないか?弱者男性はそのような疑いを持っている。
つまり、フェミニズム批判は不満やケアの要求ではなく、「公正性を追求する活動を自称していながら、その実は自分たちの利益を追求しているのではないか」という疑念に基づくものだということです。この司馬光氏の見方が全てのフェミニズム批判に当てはまるわけではないでしょうが、「弱者男性」をめぐるフェミニズム批判においてはこれが多数派を占めると考えてもいいのではないかと思います。
さて、そうであるとして、実際にフェミニズムは不公正なのでしょうか。不公正であるとすると、それは「弱者男性」にどんな影響を及ぼすのでしょうか。……という問いの前に、そもそもフェミニズムのような社会運動における「公正性」とは何であるかを考えておく必要があります。まず社会運動の立場からの「公正」を考え、それと批判者の考えている「公正」とはズレがあるのかどうか、あるとすればどのようなものなのか、を見ていきたいと思います。
「公正」という単語は「順法・適法」という意味で使われる場合もありますが、社会全体の公正性を考える上ではこの見方は不十分でしょう。現行の法制度それ自体の公正性を問うことができないからです。
先の司馬光氏の記事では、「公正」を「法の下の平等」と言い換えています。確かに「法の下の不平等」すなわち法の二重基準性は、社会における不公正の大きな部分を占めると考えていいでしょう。ですが、これだけでは「法制度の問題」のみについてしか考えることができなくなりますので、これに加えて「非人道的ないし著しく不合理な社会的リソースの分配状況」を「社会的不公正」の一つとして挙げておきます。そして、法の二重基準またはリソース分配において不利な立場に置かれている人たちを「弱者」と呼ぶことにしましょう。これらの定義はいずれも曖昧さを残していますが、概念の性質上「厳密な」定義が困難なことはお分かりいただけると思います。
社会における不公正はなぜ生じるのか? これには、「過去の偶然の歴史的経緯により定着したものが、慣習として残ってきた」「権力の集中する集団が自分たちの利益を追求した結果生じた」といったことが考えられるでしょう。では、不公正を解消するにはどうすれば良いでしょうか?
まず考えられるのは「より公正な法や社会的ルールの形成」です。これは長期的には「社会の不公正の是正」そのものとも言えますが、短期的には実現が難しかったり、緊急を要するリソース分配の問題がある場合(「社会的不公正」の多くがそうでしょう)には他の手段が必要になってきます。そこで考えられるのが「弱者への直接的な手当て・ケア」と「弱者の強者に対する対抗権力の形成」です。実際の「弱者」に関わる社会運動(フェミニズム以外に、少数民族の運動、被差別階級の解放運動、労働運動、貧困・ホームレス支援、LGBTの運動など)も概ねこの3つの要素を包含しています。
ここで、「弱者に対するケアは分かるが、対抗権力の形成はなぜ必要なのか」と思われる方も多いと思います。弱者への対抗権力の付与は「逆差別」に繋がるのではないか、という懸念を持たれる方も居るでしょう。しかしながら、対抗権力なしに社会の不公正を是正することは事実上不可能です。
理由は、先程述べた「権力の集中する集団」(これを「強者」と呼ぶことにします)が社会的不公正の一因になっていることと、公正・不公正の概念の曖昧さにあります。現実の社会において「強者」がルール形成を主導できる立場に居る以上、公正・不公正の基準は強者の都合の良いように定められがちです。また、「弱者へのケア」は、それに条件を付けることで「強者に都合の良い弱者のあり方」を「弱者」に強要する道具ともなります。それは「弱者」の固定化にも結び付くことになるでしょう。
これらを防ぐには、「弱者が対抗権力を得る」ことにより「強者」に圧力をかけていく、ということが必要になってくるわけです。「社会的公正」と「弱者の利益・権力強化」は相容れないどころか、むしろ不可分であると言えます。
かといって、「弱者の対抗権力の強化」に問題がないわけではありません。というと「逆差別」を想起する人が少なくないと思いますが、この概念は社会運動の公正性を考える上でやや一面的に過ぎます。現実には、「弱者の対抗権力の強化」によって「強者」と「弱者」の立場が完全に逆転するようなことはそうそう起こりません。問題はそのはるか手前で発生します。「ある側面における『弱者』の対抗権力の強化が、別の側面からみた『弱者』に対する圧力になる」という問題です。社会運動の歴史のなかでは、実際にこのような問題は頻繁に起こってきました。
こうした問題を運動のなかで事前に予防することは困難であり、圧力を受ける弱者当事者や、運動内部からの批判によって是正されることが必要です。このような批判を契機として、新たな社会運動が起こる場合もあります。
社会の不公正の是正という観点から「社会運動に対する批判」を捉えるとすれば、その「批判」自体の公正性も問われなければなりません。これは「既存の社会運動がどのような問題を抱えているか」によって話が変わってきます。
まず、ある社会運動が、別の側面からみた「弱者」に対して「何もしない」、すなわちプラスにもマイナスにもならない場合(これを「不在型」と呼ぶことにします)は、既存の運動を批判してもあまり意味がありません。既存の運動に携わる人たちが、新たな運動に費やすリソースを十分持っている場合は多くありませんし、人には向き不向きもあるからです。この場合は、当事者やその問題に関心を持つ人たちが新たな社会運動を立ち上げるのが最善でしょう。
批判が重要な意味を持つのは、ある社会運動が別の側面からみた「弱者」に対してマイナスになっている場合です。例えば、ある社会運動による訴えや施策が、ある側面からみた「弱者」にはプラスになっているが、別の側面からみた「弱者」にはマイナスになっているような場合(これを「ジレンマ型」とします)や、ある社会運動の当事者や支援者が別の側面においては「強者」であり、その発言などが「弱者」に対する攻撃になっているような場合(これを「無自覚強者型」とします)には、「圧力を受けている当事者やそれに近い人からの指摘・問題提起」が社会運動のあり方の改善に寄与できるでしょう。
「弱者男性論」によるフェミニズム批判の場合はどうでしょうか? 各記事のはてなブックマークなどでよく見かける批判の様式は「フェミニズムは『救済対象の選別』をしており、これは欺瞞だ」というものです。これを「フェミニズムが『弱者男性』に対して何も救済しようとしない」という「不在型」の問題と理解するなら、この批判は不公正の是正という点からみてあまり意味のない批判だといえます。
一方で、この批判を「『救済対象』と認定した以外の人たちに対して『救済を求めること』自体を批判したり差別的に扱っている」という意味に理解するなら、これは「無自覚強者型」に近い話になり、(主張が妥当であれば)批判には一定の意味があるといえるでしょう。
実際のところはというと、この2種類の批判が入り混じっている(そして両者の区別があまりなされていない)ように見受けられます。また反批判側も、両者を区別せず単に「不在型」の主張と受け取っている人が多いように思います。
同様の不明確さは、最初に挙げた司馬光氏の記事にもあります。
自分たちが地位向上の運動をして、その結果女性の地位が向上する。その結果強者となる女性も出てくる。強者になるのだから当然他の弱者から要求が出てくる。しかし、彼女たちはそれをどのように受け止めれば良いかわからないし、強者としての応答義務を果たすということも理論化出来ずに居る。
つまり、地位向上の運動をするが、その結果として何が責任として生じるかに無自覚だったのだ。地位向上の運動が成功すれば成功するほど、女性たちはかって強者男性たちが居た場所を占めるようになり、自分たちがかって批判した「強者男性」にならないために何をなすかという理論が重要になってくる。弱者男性とフェミニズム - shibacowのブログ (一部の誤字を修正)
「自分たちがかって批判した『強者男性』にならないために何をなすか」という一文を「『強者男性』のように更なる弱者を抑圧しないためには」と解釈すれば、確かにこれはフェミニズムにとって考えなくてはならない問題だと思います。しかし、「強者になるのだから当然他の弱者から要求に応えるべきだ」というのはそれとは話が違ってきます。
仮に、「『強者男性』個々人が『弱者』である女性のために一定の負担を負わねばならない」のであれば、同様の負担を「強者女性」も負うべきである、という主張には妥当性があるでしょう。が、実際にはそのような規範は存在しませんし、フェミニズムはそのような主張をしてもいません。フェミニズムの「強者男性への」(正しくは、強者男性が多数を占める権力者への)訴えは、社会全体に対する「より公正な法や社会的ルールの形成」についてのものであって、「強者男性」個々人への負担を要求するものではありませんでした。「強者男性」は個人として何らかの負担や責任を負っているわけではありません。
「フェミニズムは公正なのか」という最初の問いに立ち戻ってみましょう。フェミニストが例えば「性経験の有無」で男性を差別するような言動をしたとすれば、そうした振る舞いは「不公正」であり批判されるべきだ、と言えますし、仮にそのようなフェミニスト・フェミニズム支持者が多数を占めるのであれば、それはフェミニズム全体の問題として捉えることも可能でしょう。一方で、フェミニストが「女性にとって有益」な施策を進めているから不公正だ、と言うことはできません。それを否定することは「弱者への手当て」や「対抗権力の形成」自体を否定することになるからです。
フェミニズムに対する「不公正ではないか」という疑念は、「弱者の利益・権力付与」と「社会的公正」は相反するもの、という発想を前提にしていると考えられます。このような前提を置くと、不公正の是正を目指す社会運動・活動のほとんどが「不公正」である、という結論が導かれざるを得ません。「弱者男性」にフォーカスした運動についても同様です。従って、そのような運動を諦めるか、「弱者男性にとっての利益誘導を目指す運動は社会的公正とは相容れない、それで何が悪いのか」と開き直るしかありません。それは、多くの人たちの関心・共感を得る機会を自ら放り投げることになります。
こうした態度は、社会的公正に対する厳格さというよりむしろ、社会的公正へのニヒリズムと呼んだ方が的確ではないかと思います。ニヒリズムに陥ることを当人達だけの責任に帰すことはできませんが、それが当人達の首を絞めていることも間違いないでしょう。
フェミニストが常に「公正な」言動・行動をしているわけではありませんし、フェミニズム運動による施策がある側面における「弱者」に対する圧力として働く場合も考えられます。それらに対して必要なのはニヒリズムを背景とする「フェミニズムの偽善・欺瞞」という漠然とした「批判」ではなく、具体的な事象に対する具体的な批判です。社会的不公正を追及するならば、まず「公正性」という概念を自分自身が信頼することが必要なのではないでしょうか。
天賦人権説(あるいは自然権)の否定は何が問題なのか?
衆議院選挙を間近に控えて、自民党の憲法改正案が話題になっています。
その中で、自民党の参議院議員片山さつき氏の次の発言が特に問題になりました。
これに対し、「天賦人権論の否定なんて言語道断だ」という反応がある一方で、「天賦人権論なんておかしい、片山議員は正しい」という反論も複数出てきました。Twitter上での議論は既にかなりの量に上っています。以下のリストは私の目に付いたTogetterによる議論まとめを列挙したものですが、全部を網羅できてはいません。
天賦人権論が「神から人権を授かったという一神教的な前提に立つものだ」という批判に対しては、法華狼氏が解説記事を書いておられます。
天賦人権論が「一神教的な概念」であるという批判(というか誤解)に対してはこれで十分でしょう。「天賦」という言葉が嫌なら、「自然権思想」と言い換えれば同じことです。
しかしながら、そもそも「天賦人権論が何を言わんとしているのか良く分からない」という人にとっては、これでもあまり納得はできないのではないかと思います。なぜなら、おそらく、「天賦人権論」に疑問を感じる人の多くは、「国家が出来てから人権を保障する仕組みが出来たはずなのに、なぜそれを人間が生まれながらに持っていることになるのか?」という疑問が真っ先に浮かぶだろうと思われるからです。
そこで、まずは「天賦人権論」の基礎を作った一人であるイギリスの思想家ジョン・ロックの思想をもとに、「天賦人権論」という思想のアウトラインを辿ることから始めましょう。その上で、天賦人権(自然権)やそれを前提にした憲法がなぜ必要なのか、を見ていきたいと思います。
啓蒙思想家ジョン・ロック及び著書「市民政府論」は中学社会の教科書にも載っているくらい有名ですが、実際に読んだことのある人はそれほど多くないでしょう。「自然状態」という用語もよく知られてはいるものの、具体的にどんな状態が想定されているのか、詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。
「自然状態」とは、政府や成文法が存在しない人々の状態を指します。ロックは、この状態においても人々は完全な無秩序と混乱に陥るわけではなく、各人が自分及び他人の生命・自由・財産などを維持するため、各人の理性に基づいた法(のようなもの)に従って行動すると考えました。これを「自然法」と呼びます。人類の歴史において、国家や政府が最初から存在していたわけではないはずであり、その時代の人々が無秩序と混乱の中で生きていたわけではない、と考えれば、それほど受け入れ難い考えではないでしょう。「無政府と無法は異なる」ということです。
現在の成文法には、法を執行する政府があり、法に基づいて裁判を行う裁判所が存在します。国家の存在しない自然状態においては、法の執行・裁判を各人が行う、とロックは考えました。他人の生命・自由・財産などを不当に侵した者が居れば、当人あるいは第三者が自然法に基づいて裁定する。あるいは、権利がぶつかり合った二人の揉め事を解決するには、両者が自然法に基づいて話し合うか、あるいは適当な第三者に調停・裁定してもらう、ということになります。
このような状態は決して無秩序ではありませんが、しかし問題も多いものであるとロックは言います。人間はとにかく自分の権利は大きく見積もりがちであるし、自分の興味が薄いものに対しては真剣に考えない傾向があるため、各人が勝手にやっていたのでは自然法に基づく裁定が公正に行われず、各人の権利の保護に支障が出る。そのため、人々が互いに契約して国家を形成し、自然法の執行権・裁判権を人々が選んだ代表者に委ねたのである、というわけです。
この場合、人々が委ねたのはあくまで法の執行権・裁判権であって、もともとの生命・自由・財産などの権利ではありません。それらの権利を守るために国家を形成したのですから、国家によってそれらの権利が侵害されたのでは本末転倒です。
もし国家が、人々に託された法の執行権・裁判権を利用して人々の生命・自由・財産などを恣意的に侵害し始めるならば、そのような国家は国家としての存在意義がないことになります。従って人々は、そのような政府に従う道理はないので、現政府を打ち倒して新たな政府を立てる権利がある、とロックは主張しました。これが有名な「革命権」という概念です。
「人権を守るために国家があるのであり、国家が人権を与えたのではない」という考え方は、このような思想的背景に基づいています。天賦人権論は「国家の存在意義とは何か」という問いと不離の関係にあるわけです。
ロックが想定した自然権は生命・自由・財産など、現在の基本的人権の概念より狭いものですが、人権概念は時代とともに拡大していきました。しかし、「人権を守るために国家があるのであり、その逆ではない」という思想そのものは共有されていると言っていいでしょう。
さて、では、このような天賦人権論を否定すると、何が問題なのでしょうか?
天賦人権論を否定した場合の人権概念は、大抵の場合「国賦人権論」になります。これは、国が国民に人権を賦与したのだ、という考え方です(天賦人権論においては、国家は自然権を追認したに過ぎません)。
国家が人権を作り出して国民に賦与したのであれば、国家がなければ人権は存在し得ないわけですから、国民には人権を侵害する政府を倒す権利(革命権)はもちろん無いことになります。またそもそも、国家が人権を規定しているのですから、国家は人権を制限することも出来ます。
例えば「権利を享受するには義務を果たさなければならない」という主張は、国賦人権論的な発想に基づくと言えるでしょう。これは国家が国民に権利を与える代わりに義務を果たせ、というバーターの関係であり、国家が与えなければ人権は存在しないということを前提にした主張だからです。
「権利を主張したければ義務を果たせ」というのは当然ではないのか?と思う人も少なくないでしょう。しかしながら、ここにはある種の混乱があります。これについては電脳くらげ氏が詳細に解説しておられます。
つまり、「義務を果たす」ことと対になるのは「自分の権利」ではなく「相手の権利」であるわけです。このことは、「守秘義務」や「表示義務」のような言葉を考えてみても分かるでしょう。
とすれば、「人権の享受のために義務を果たせ」というフレーズの場合、「権利の受け手」は国家であるということです。「国家は国民に○○をさせる権利があるのだから、その義務を果たせ。さもなければ人権は与えないぞ」と言っているわけですね。
これの何が問題か? 国家が国民に人権を与える代償として義務を課すことが可能になるということです。これは、(国家が勝手に定めた)義務を果たせない人間から人権を取り上げることができる、ということでもあります。天賦人権論に基づく憲法は、このように「人権に恣意的な制限を加えてはならない」という国に対する義務を定めたものだと理解して良いでしょう。
それでもまだ疑問を感じる人が居るかもしれません。民主国家においては、国家の代表は国民の選挙で選ばれた人たちです。それがなぜ国民の権利を恣意的に侵害したりすると前提しなくてはならないのか?人権の内容の制限が民意に基づくものであるとするなら、国民の不利益になるとは言えないのではないか?――このように考える人も居るかもしれません(もっとも、このような考え方であれば、憲法はそもそも必要ないことになるわけですが)。
それに対しては、このように答えておきましょう。不可侵の基本的人権という概念のない民主政の場では、「8割の賛成で、2割の人権を剥奪する」ことが可能になってしまう、と。イギリスの清教徒革命やフランス革命における大量処刑や、ソ連のスターリンによる大粛清は、いずれも「市民」「人民大衆」の名のもとに行われました。そして、自分がいつ「人権を剥奪される側の2割」になるかは誰にも分かりません。
もちろん、憲法もまた多数決の原理で採択されたものである以上、少数派の人権を抑圧するものになってしまっている可能性は否定できません。また、天賦人権論に基づく憲法があるからといって、人権を保護するに十分であるわけでもありません。現に人権侵害は常に起こっていると考えられますし、現行の法の中には不当に人権を抑圧・侵害するものもあると考えている人は大勢います(私自身もそうです)。
しかし、国家に人権を守る義務を課させる憲法は、少なくとも国家による人権侵害をある程度食い止めうる歯止めの役割を果たしていることも確かです。そして、天賦人権論の否定の上に立った憲法は、そうした歯止めの役割を果たせないのです。
(12/14追記)
コメント欄でのやりとりの一部を掲示板へ移行しました。
その中で、自民党の参議院議員片山さつき氏の次の発言が特に問題になりました。
国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!
これに対し、「天賦人権論の否定なんて言語道断だ」という反応がある一方で、「天賦人権論なんておかしい、片山議員は正しい」という反論も複数出てきました。Twitter上での議論は既にかなりの量に上っています。以下のリストは私の目に付いたTogetterによる議論まとめを列挙したものですが、全部を網羅できてはいません。
- 自民党が公式に国民の基本的人権を否定し、さらに改憲案で日本国憲法第18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」を削除してしまいました
- 自民党の西田昌司と片山さつきが、国民主権と基本的人権を否定してしまいました
- 片山さつきさんと想田和弘さんの権利義務に関する憲法論議。そしたら地震が…
- 片山さつきさんに法学徒見習いが物申す
- 【天賦人権論】基本的人権の成り立ちを振り返る【素朴な出発点】
- 天賦人権説批判について
- 片山さつき議員が基本的人権を否定とかいう話を見たが、これって否定になってるのだろうか?
- 『権利』というものへの暴論
天賦人権論が「神から人権を授かったという一神教的な前提に立つものだ」という批判に対しては、法華狼氏が解説記事を書いておられます。
当然、天賦人権論は、単に天から人権が与えられたという宗教的な思想ではない。あくまで自然権思想を翻訳した時に「天賦」という表現が選ばれた。だから、天に与えられたという解釈を根拠として天賦人権論を批判しようとしても、レトリック以上の意味はないのではないか?
(中略)
そもそも「天賦」という言葉は、天に与えられたものという原義にとどまらず、生まれついての資質や、人の力で左右できないものも指す。
てんぷしぜん【天賦自然】の意味 - 国語辞書 - goo辞書天から与えられた、人の力ではどうにもならないもの。つまり「侵すことのできない」もののことだ。
天賦人権論が「一神教的な概念」であるという批判(というか誤解)に対してはこれで十分でしょう。「天賦」という言葉が嫌なら、「自然権思想」と言い換えれば同じことです。
しかしながら、そもそも「天賦人権論が何を言わんとしているのか良く分からない」という人にとっては、これでもあまり納得はできないのではないかと思います。なぜなら、おそらく、「天賦人権論」に疑問を感じる人の多くは、「国家が出来てから人権を保障する仕組みが出来たはずなのに、なぜそれを人間が生まれながらに持っていることになるのか?」という疑問が真っ先に浮かぶだろうと思われるからです。
そこで、まずは「天賦人権論」の基礎を作った一人であるイギリスの思想家ジョン・ロックの思想をもとに、「天賦人権論」という思想のアウトラインを辿ることから始めましょう。その上で、天賦人権(自然権)やそれを前提にした憲法がなぜ必要なのか、を見ていきたいと思います。
啓蒙思想家ジョン・ロック及び著書「市民政府論」は中学社会の教科書にも載っているくらい有名ですが、実際に読んだことのある人はそれほど多くないでしょう。「自然状態」という用語もよく知られてはいるものの、具体的にどんな状態が想定されているのか、詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。
「自然状態」とは、政府や成文法が存在しない人々の状態を指します。ロックは、この状態においても人々は完全な無秩序と混乱に陥るわけではなく、各人が自分及び他人の生命・自由・財産などを維持するため、各人の理性に基づいた法(のようなもの)に従って行動すると考えました。これを「自然法」と呼びます。人類の歴史において、国家や政府が最初から存在していたわけではないはずであり、その時代の人々が無秩序と混乱の中で生きていたわけではない、と考えれば、それほど受け入れ難い考えではないでしょう。「無政府と無法は異なる」ということです。
現在の成文法には、法を執行する政府があり、法に基づいて裁判を行う裁判所が存在します。国家の存在しない自然状態においては、法の執行・裁判を各人が行う、とロックは考えました。他人の生命・自由・財産などを不当に侵した者が居れば、当人あるいは第三者が自然法に基づいて裁定する。あるいは、権利がぶつかり合った二人の揉め事を解決するには、両者が自然法に基づいて話し合うか、あるいは適当な第三者に調停・裁定してもらう、ということになります。
このような状態は決して無秩序ではありませんが、しかし問題も多いものであるとロックは言います。人間はとにかく自分の権利は大きく見積もりがちであるし、自分の興味が薄いものに対しては真剣に考えない傾向があるため、各人が勝手にやっていたのでは自然法に基づく裁定が公正に行われず、各人の権利の保護に支障が出る。そのため、人々が互いに契約して国家を形成し、自然法の執行権・裁判権を人々が選んだ代表者に委ねたのである、というわけです。
この場合、人々が委ねたのはあくまで法の執行権・裁判権であって、もともとの生命・自由・財産などの権利ではありません。それらの権利を守るために国家を形成したのですから、国家によってそれらの権利が侵害されたのでは本末転倒です。
もし国家が、人々に託された法の執行権・裁判権を利用して人々の生命・自由・財産などを恣意的に侵害し始めるならば、そのような国家は国家としての存在意義がないことになります。従って人々は、そのような政府に従う道理はないので、現政府を打ち倒して新たな政府を立てる権利がある、とロックは主張しました。これが有名な「革命権」という概念です。
「人権を守るために国家があるのであり、国家が人権を与えたのではない」という考え方は、このような思想的背景に基づいています。天賦人権論は「国家の存在意義とは何か」という問いと不離の関係にあるわけです。
ロックが想定した自然権は生命・自由・財産など、現在の基本的人権の概念より狭いものですが、人権概念は時代とともに拡大していきました。しかし、「人権を守るために国家があるのであり、その逆ではない」という思想そのものは共有されていると言っていいでしょう。
さて、では、このような天賦人権論を否定すると、何が問題なのでしょうか?
天賦人権論を否定した場合の人権概念は、大抵の場合「国賦人権論」になります。これは、国が国民に人権を賦与したのだ、という考え方です(天賦人権論においては、国家は自然権を追認したに過ぎません)。
国家が人権を作り出して国民に賦与したのであれば、国家がなければ人権は存在し得ないわけですから、国民には人権を侵害する政府を倒す権利(革命権)はもちろん無いことになります。またそもそも、国家が人権を規定しているのですから、国家は人権を制限することも出来ます。
例えば「権利を享受するには義務を果たさなければならない」という主張は、国賦人権論的な発想に基づくと言えるでしょう。これは国家が国民に権利を与える代わりに義務を果たせ、というバーターの関係であり、国家が与えなければ人権は存在しないということを前提にした主張だからです。
「権利を主張したければ義務を果たせ」というのは当然ではないのか?と思う人も少なくないでしょう。しかしながら、ここにはある種の混乱があります。これについては電脳くらげ氏が詳細に解説しておられます。
よくある間違いなのだが、この「権利行使には義務が伴う」というのは、「義務を果たすことによって、初めて権利が付与される」という意味ではない。
(中略)
例えば、僕には選挙権がある。投票所に行って、国政の代表者を決めるための投票を行う「権利」があるわけである。そして、国には、僕(をはじめとする国民)が選挙権を行使できるよう、選挙を法律に基づいて実施する「義務」がある。「権利行使には義務が伴う」というのは、この場合、僕が権利を行使できるように、国家が義務を負うということである。
国家対個人以外に、私人間の契約でも「権利行使に義務が伴う」という場面はある。例えば、僕がパン屋であんパンを買ったとする。その場合、僕はあんパンの引渡しを店員から受ける「権利」を有する。一方で、店員は僕にあんパンを引き渡す「義務」を負っている(民法では、この権利・義務を債権・債務という言葉で表現する)。
(中略)
このように、「権利行使に義務が伴う」というフレーズは、国家対個人、あるいは私人対私人という関係において、一方が権利を実現するために、片方が義務を負うということを表現しているに過ぎない。(強調は原文ママ)
つまり、「義務を果たす」ことと対になるのは「自分の権利」ではなく「相手の権利」であるわけです。このことは、「守秘義務」や「表示義務」のような言葉を考えてみても分かるでしょう。
とすれば、「人権の享受のために義務を果たせ」というフレーズの場合、「権利の受け手」は国家であるということです。「国家は国民に○○をさせる権利があるのだから、その義務を果たせ。さもなければ人権は与えないぞ」と言っているわけですね。
これの何が問題か? 国家が国民に人権を与える代償として義務を課すことが可能になるということです。これは、(国家が勝手に定めた)義務を果たせない人間から人権を取り上げることができる、ということでもあります。天賦人権論に基づく憲法は、このように「人権に恣意的な制限を加えてはならない」という国に対する義務を定めたものだと理解して良いでしょう。
それでもまだ疑問を感じる人が居るかもしれません。民主国家においては、国家の代表は国民の選挙で選ばれた人たちです。それがなぜ国民の権利を恣意的に侵害したりすると前提しなくてはならないのか?人権の内容の制限が民意に基づくものであるとするなら、国民の不利益になるとは言えないのではないか?――このように考える人も居るかもしれません(もっとも、このような考え方であれば、憲法はそもそも必要ないことになるわけですが)。
それに対しては、このように答えておきましょう。不可侵の基本的人権という概念のない民主政の場では、「8割の賛成で、2割の人権を剥奪する」ことが可能になってしまう、と。イギリスの清教徒革命やフランス革命における大量処刑や、ソ連のスターリンによる大粛清は、いずれも「市民」「人民大衆」の名のもとに行われました。そして、自分がいつ「人権を剥奪される側の2割」になるかは誰にも分かりません。
もちろん、憲法もまた多数決の原理で採択されたものである以上、少数派の人権を抑圧するものになってしまっている可能性は否定できません。また、天賦人権論に基づく憲法があるからといって、人権を保護するに十分であるわけでもありません。現に人権侵害は常に起こっていると考えられますし、現行の法の中には不当に人権を抑圧・侵害するものもあると考えている人は大勢います(私自身もそうです)。
しかし、国家に人権を守る義務を課させる憲法は、少なくとも国家による人権侵害をある程度食い止めうる歯止めの役割を果たしていることも確かです。そして、天賦人権論の否定の上に立った憲法は、そうした歯止めの役割を果たせないのです。
(12/14追記)
コメント欄でのやりとりの一部を掲示板へ移行しました。
散弾銃的「ミソジニー非難」についての謝罪
今回は謝罪です。ずっと非モテや格差論やジェンダーの話に取り込まれていた - はてな匿名ダイアリーに対する私のブックマークコメントとTwitterでの発言について。(※コメント自体は削除しています)
これに対して、元の匿名ダイアリー記事筆者の方から追加記事で批判を頂きました。批判は概ね正しいというか、そもそも筆者本人がミソジニーを発露しているわけではないのに、私の冒頭のコメントは明らかにそう読めるものでした。
また、
この点についても筆者の方の仰るとおり「内面の忖度」の酷い失礼なコメントであったと思います。上記コメントは謹んで撤回致します。申し訳ありませんでした。
こういう回路で、いじめの経験とミソジニーは繋がっていくんだよね…。
私自身が当の「はてなの非モテ論者」だから、「慰撫を期待して裏切られた」という文句には私のことも入ってるのかもしれない。まぁ「慰撫を期待されても困る」と言えばそれまでなんだけど。
ただ、この人に考えて欲しいのは、そうやって「男性の内面を断罪」している(ように見える)人たちが、この人と同じように、いじめや侮辱や偏見に晒されてきたかも知れないってことなのね。
「女性を人間扱いしない男性ばかり見てきた。いじめの被害を受けた男性ですら、慰撫してくれる対象としてしか女性を求めない。期待した自分が馬鹿だった」 …そんな風に思ってる人も居るかもしれない。この人を見て、この人と同じように。
これに対して、元の匿名ダイアリー記事筆者の方から追加記事で批判を頂きました。批判は概ね正しいというか、そもそも筆者本人がミソジニーを発露しているわけではないのに、私の冒頭のコメントは明らかにそう読めるものでした。
また、
それに『この人を見て、この人と同じように』などと指摘されるまでもなく、自分と同じような立場にある人が女性に限らずいることは理解している。
(中略) 性別異和とまでは至らずとも、肉体的性別と精神的性別の配分は別物だし、そのような個人の持つ絶妙さを全て一蹴して黒く塗り潰すのが『キモイ』という言葉であって、どや顔で『女性にも居るんですよ?』だとか、どれだけ下らない指摘をしているんだと思う。
この点についても筆者の方の仰るとおり「内面の忖度」の酷い失礼なコメントであったと思います。上記コメントは謹んで撤回致します。申し訳ありませんでした。