「非モテ」の敵は「恋愛」に非ず

 本田透の「電波男」以来、「恋愛至上主義」ないし「恋愛資本主義」こそが「非モテ」の根本問題である、という認識が「非モテ」議論の暗黙の前提とされるようになりました。「革命的非モテ同盟」の古澤克大氏もまた、そうした「恋愛至上主義」を最大の問題の一つと考える「非モテ」論者の一人です。
 今回は、この「恋愛至上主義」の実体とは何か、を考えつつ、古澤氏を初めとする多くの「非モテ」論者が陥っている「落とし穴」について述べていきたいと思います。

 「非モテを苦しめているのは恋愛至上主義である」 という主張に対しては、古典的かつそれなりに有効な反論として 「世間は非モテ達が言うほど『恋愛』一辺倒ではない」「恋愛至上主義に陥っているのは実は非モテ自身である」 というものがあります。Paris713氏まりねこ氏ナツ氏の議論はこうした「反論」の典型的なものです。
 これらの指摘は、ある面では全く以て正しい議論です。たとえ「世間」に「恋愛至上主義」なる風潮が蔓延しているとしても、それは単なる流行に過ぎないのですから「相手にしなければいい」だけの話です。それを見て見過ごすことが出来ないのは、「非モテ」自身が「恋愛至上主義」に囚われているからに決まっています。

 ここで、 「世間にこれだけ蔓延しているものをスルーするのは無理だ」「いや、スルーできないのは自己責任だ」 という議論を繰り返しても無意味です。なぜなら、「自分の責任か、社会の責任か」という2択は、「非モテ」及び「恋愛至上主義」の本質と何の関係もないからです。

 不毛な議論を繰り返す前に、「恋愛至上主義」とは何か、をはっきりさせておかなくてはなりません。この言葉は(冒頭で並べてみたように)しばしば「恋愛資本主義」と混同されます。そこでまず、両者の違いをはっきりさせておくことから話を始めましょう。

 「恋愛資本主義」という概念については以前こちらの記事で述べた通り、「恋愛という形式」の交換可能性と密接に関係しています。「恋愛」は近代になって確立したコミュニケーション形式であり、その形式自体が「コミュニケーションのための媒介」の役割を果たします。この意味での「恋愛という形式」は、現実に在る「恋愛と名付けられるコミュニケーション」としばしば同一視されます。そこで、両者を同一視する考え方をここでは「恋愛資本主義」と呼ぶことにしましょう。

 一方の「恋愛至上主義」は、むしろ「交換可能性」という観念と真っ向から対立するものです。近代日本文学史の中で最も有名な恋愛至上主義者の一人である北村透谷も、「恋愛」を徹底して「他では代替できない特別なもの」と見做していました。「恋愛至上主義」は「かけがえのない私」「かけがえのないあなた」という観念を前提としなければ、そもそも成立しないんです。

 そして、「恋愛できない者は劣った者である」という「恋愛カースト思想」は、「恋愛至上主義」の副産物ではあっても、それそのものではありません。両者を混同して考えるのが、そもそも間違いです。



 本田透は、「恋愛資本主義」を批判し「恋愛至上主義」を二次元(フィクション)の中に見出す、という立場をとりました。多くの「非モテ」論者の態度も似たり寄ったりで、概ね「恋愛至上主義」が貫徹できないなら「恋愛資本主義」は要らない、という立場です(「脱オタ」主義者を除く)。この点を考えても「非モテ恋愛至上主義に囚われている」ことはほぼ自明なんですが、問題はその次です。

 古澤氏は「打倒・恋愛至上主義」を掲げて活動しておられるわけですが、なぜ「恋愛至上主義」は否定されなければならないのでしょうか? それは、「恋愛至上主義」を現実にあてはめる限り、それは一種の欺瞞であるからです。「恋愛至上主義」には、「恋愛という形式」というコミュニケーションの媒介でしかないものを「特別な体験」そのものとみなすという嘘が含まれています。
 しかし、なぜそこまで「欺瞞」が問題なのでしょうか? それは、恋愛至上主義という一種のロマンチシズムが、現実のコミュニケーションのあり方を歪めるからです。以前の記事でも、「愛している」という言葉が「強迫的に相手に性的行為を強要する」ものになり得る、ということを述べました。「恋愛という形式」が「特別な相互承認」を生み出すという嘘は、コミュニケーションのあり方を狭く、限られたものにしてしまいます。そのことが結果的に「非モテ」を追い詰めることになるのです。

 しかしながら、「恋愛はすべて交換可能な媒介形式の集まりに過ぎない」と断ずることも、やはり嘘です。時間が不可逆である限り、全てが交換可能になることなど有り得ません。すなわち、現実に在る「恋愛と名付けられるコミュニケーション」は、交換可能な「恋愛という形式」とは別物なんです。これを混同してしまえば、「恋愛至上主義者」達と同じ轍を踏むことになるでしょう。

 古澤氏の誤りはまさにここにあります。「恋愛至上主義」と「現実に在る恋愛」とは別物であり、恋愛至上主義」を否定することは、「今在る恋愛と呼ばれる関係性そのもの」を否定することではないんです。

 「現実の恋愛」そのものを否定することは、その分だけ「現実のコミュニケーションの可能性」を切り下げ、固定化して見てしまうことに繋がります。「恋愛の否定」という不寛容は、「非モテ」の可能性をも狭めているようにしか見えないんですね。性愛的コミュニケーションに不向きな人達が、「恋愛という形式」から距離を置きつつ「性愛」について語れるということ自体画期的だと思いますし、そのコミュニケーション機会を自ら狭めてしまうのは勿体ない、とも思います。