「非モテ論議」の傾向と対策(2)/「酸っぱいブドウ理論」の陥穽

 前回の最後で、私は次のように書きました。
非モテ」であるかないかに関わらず、「なぜ恋愛したいと思うのか」を今一度、自分自身に問うてみては如何でしょうか?
 この一文を書いた時点で私が想定していたツッコミは「そういうお前はどうなんだ」というものでした。私自身、「自分にとっての『恋愛』の意味」についてきちんと書いているわけではないからです。しかし、当のナツ氏からやってきたコメントは、そういった想定以前のものでした。

そうは思わないなあ。けっこうやってる人いるし、わたしも何度も訊いた覚えがありますよ。「何でモテたいの?恋愛だけが価値ではないんじゃない?」と。そもそもは、非モテ恋愛至上主義的価値観を内面化してるのが根本的な問題ではないか、という話は大昔に語りつくされた感がある。
そして、「何でモテたいの?」という問い返しは、質問者が恋愛経験者である以上、やっぱり反発を食らいます。「恋愛することの価値は自明ではないというお前だって、結局恋愛してるじゃないか!」と。
ナツ氏のコメントより、強調は引用者)

 ナツ氏の挙げた「問い」は一見「問い」のように見えながら、実は既に答えを用意しています。背後にあるのは「恋愛も価値があるが、それ以外のものにも価値があり、何を選ぶかは自由であるはずだ」という主張なんですね。もちろんこの主張は「正しい」んですが、「恋愛は『なぜ』価値があるのか?」という問いはスルーされています。

 なぜこの部分が抜け落ちてしまうのか、はっきりとは分かりません。理由の一つはおそらく、この「なぜ」を問う必要性が充分認識されていないということなのでしょう。前回の記事に対するブックマークコメントにも、以下のようなものがありました。

ohnosakiko なぜモテたいのか?ってそりゃあパートナーを求める人の多くが、性欲と被承認欲をもて余しているからでしょう。あまりに当たり前のことで、それを問われてもモテたい非モテの人は困るのではないか。

 ここには「恋愛したい(価値がある)のは当たり前」という認識があります。その理由は「性欲」として、あるいは多少気の利いた場合でも「承認欲望」で片付けられてしまいます。
 しかし、よくよく考えてみれば、これはおかしな話です。「性欲」は「恋愛」でなければ解消できないわけではありませんし、「承認欲望」なんて尚更そうです。それらを敢えて「恋愛」に求めるには、それなりの理由があるはずなんですよ。

 その「それなりの理由」とは何か? この部分をこそ、「自分自身に問い直してほしい」と私は前回述べたわけです。おそらく、その「理由」は個々人で異なった語られ方になるはずです。

 今回は、「『恋愛』でなければならない理由」を深く追究することはしません。その代わり、この「理由」が問われないことによって「非モテ論議」がどのような袋小路に陥るのか、という部分を少し見ておこうと思います。



 ナツ氏の発端の記事をもう一度見てみましょう。

最大の問題は、「モテたくないと主張している」のに、実際はモテない(異性に承認されない)ことに心の底から憤ったり絶望したりしている人のケース。
絶望した!三次元の女に絶望した!」という慨嘆は、女性に過大な期待を寄せていてその期待が裏切られない限りは、まず出てこない台詞である。
「絶望している」ことをアピールし続け、「三次元女」が優しくしてくれないことへの不満を垂れ流しまくっている以上は、「相手に優しくされたり承認されたいなら、まず自分がこうしろ」と言われるのは自明である。さんざん女性を罵倒し不満をまき散らしたあとで、「別にモテたくないし、二次元さえあれば俺は満足なのに、どうしてモテを強制されなければならないのか!」と逆ギレしても説得力はありません。

もちろん、「モテないけど、そのことで女性や社会を恨んではいないし、一人でも十分楽しく生きていけます」と本気で言ってる非モテに対して、「異性に承認されたいならこうしろ」と言うのは要らぬお節介であり、価値観の押し付けである。女の承認に頼らずとも自己を確立し、己の価値観に沿って充実した人生を送っているという意味で、精神的に自立した立派な人だと言えましょう。
(強調ママ)

 ナツ氏は「三次元の女に絶望した!」という「非モテ」の慨嘆から、「女性への過大な期待」すなわち「本当はモテたいはずなのに、モテたくないと主張している」という構造を読み取ろうとしています。これはナツ氏に限らず、「非モテ」に批判的な人たちの多くが口にすることです。この論理を「酸っぱいブドウ理論」と仮に名づけておくことにしましょう。
 ナツ氏の理屈は一見、筋が通っているように見えます。しかし、この理屈が成り立つためには、「一人の人間の中で、『恋愛したい』と『恋愛したくない』という状態は同時に成立しない」という前提が必要です。
 ところが一方で、ナツ氏はこのようにも述べているんですね。

恋愛に価値があるから恋愛したわけではないけれど、ある人を特別好きになり、逆に特別好かれることによって得た「恋愛関係」はわたしにとって価値がある。それは確かなことなので、「価値がない」とは言えない。

 ナツ氏自身はどうなのか?と問われたとき、これは「恋愛したい」のか「恋愛したくない」のかどちらでしょうか? 上記コメントを読む限り、「どちらとも言えない」あるいは「どちらかでは答えられない」という答え方が最も正確ではないでしょうか?
 「非モテ」の場合も多くは同じはずで、彼らの「恋愛」に対する感情は「恋愛したい」のか「恋愛したくない」のかという単純な二項対立では語れないでしょう。にも関わらず、ナツ氏は彼らに対し「本当はモテたいはずなのに、モテたくないと主張している」と単純化して解釈してしまいます。

 ナツ氏自身にその気がなくとも、結果的に氏は「恋愛したいのか、したくないのかどっちなんだ!」と「非モテ」に迫っていることになるわけです。このように迫りたくなる気持ちは、これまでのナツ氏と一部の「非モテ」の人達との論争の経緯を考えれば、わからなくもありません。けれども、それによって非モテ」に対してだけ「恋愛への欲望」を単純化してあてはめてしまう、というのはちょっといただけません。
 ナツ氏に限らず、「酸っぱいブドウ理論」を用いる人の多くは、自分自身をその枠外に置きます。例外は私の知る限りシロクマ氏くらいです。

 この結果、ナツ氏が「『非モテ』は『恋愛』を単純化して見ている」と感じるのと同じように、「非モテ」の側も「ナツ氏は『恋愛』を単純化して見ている」と感じてしまうわけです。そうなってしまう理由は、もう言うまでもないでしょう。

 私自身、かつてはナツ氏同様「『恋愛したい』のか『恋愛したくない』のかをはっきりさせる」ことが「非モテ」にとって重要であると考えていましたここでのコメント等)。しかしながら、「恋愛」に対する態度はもっとこみ入っていて、一概に「したい」「したくない」だけで片付けられるものではない、と今では考えています。それは今回の記事で述べた通りです。



 最後にもう一度確認しておきます。前回私が提案した「『なぜ恋愛したいと思うのか』を問い直せ」というのは、「恋愛したいのかしたくないのかをはっきり自覚せよ」という意味ではありません。また、「どうしたらモテますか?」と聞いてもいない人に対して「なぜ恋愛したいんですか?」と訊けとは言っていません。あくまで「問い返せ」または「自分自身に問い直せ」です。
 ただ、これは私が当初思っていたより複雑で分かりづらいもののようです。少なくとも「攻撃的な非モテを避ける処方箋」としてはあまり適切ではない気がしてきたので、「処方箋」としてはひとまず撤回させて戴きます。



(4/15追記
※ この記事に関しては、後で大幅に考えを改めています。「非モテ論議」と語りえぬ欲望をお読みください。