「非モテ論議」と語りえぬ欲望

 前回前々回の記事に関してあれこれ考えている間に、大野氏のところをはじめ色んなところで取り上げられて話題が広がっているようです。ここで一旦、ここまでの反省も含めて話を整理してみたいと思います。

 まずは、大野氏の記事を受けてのshinpants氏の記事から。
「恋愛できない苦しみ」を度々味わい、「それが嵩じて非・非モテから言及されることに怒りを表す非モテ」、A氏がいるとする。
このA氏に対して、「なぜモテたいのか」と問うことを烏蛇氏は提案した。
このA氏への問いかけは「暴力的ではないか」と大野氏は指摘した。
ぼくは大野氏に賛成する。確かにこれは酷な宣告だろう。
本人が、生きている世界のこだわりの対象に「恋愛」を選んでいるのだ。
感覚的にだろうが、そういう世界に生きているのだ。
そういう世界で生きている人間に向かって、「なぜそういう判断をするのか考えろ」と言うことは暴力的だし、無責任に聞こえる。
>このA氏への問いかけは「暴力的ではないか」と大野氏は指摘した。

問いかけそのものは構わないと思うのですが(その有効性は別として)、烏蛇さんは非モテについて「「恋愛することは価値があることだ」という規範意識が、自己を反省的に語り直すことを阻害する」と書かれていたので、それを前提として問うならちょっとアレだと思ったのでした。
まさしく、ぼくも問題はそこだと思います。君は規範があるから反省が足りない!というつもりで本人に向かって直接「問う」のはやっぱり暴力的でしょう。だとしたら、間接的にならいいのかというと、そうでもない、やっぱりそれは嫌味にしかならない。ぼくはこの問いかけ自体が有効ではないと思います。

 shinpants氏(及び大野氏)の指摘は、前々回での私の「問いかけ」そのものが暴力的ではないか、というものでした。確かにこの指摘は妥当だと思いますし、私の「問い」は軽率だったと言わざるを得ません。最も問題となる部分はここでしょう。

 では、なぜ「非モテ」は「どうしてモテたいと思うのか」を語ろうとしないのでしょうか? はっきりとは分かりませんが、その理由の一端は彼らの自己言及の拙さにある、と私は考えています。「非モテ」に限らず自己評価の低いタイプの人にはありがちなことなんですが、「恋愛することは価値があることだ」という規範意識が、自己を反省的に語り直すことを阻害するんですね。  「あなたはどうしてモテたいのですか?」という問い返しは、そのような「非モテ」に対して自己を語り直すことを促すものでもあります。それがうまくいけば、「非モテ論議」は特別不毛なものにはならないでしょう。たとえうまくいかなくても、少なくとも激しい反発を買うことはないと思います。

 shinpants氏の指摘にもあるとおり、この書き方ではどう読んでも「規範に囚われているお前が悪い」という非難の含みを持ってしまいます。
 大野氏がこちらの記事で「ミソジニー」に関して言っておられるように、「反省的に考え直せ」ば逃れられるというほど「規範」の話は簡単ではありません。しかし、前々回の私の言い回しは、「反省的に考え直すことで規範から脱せよ」と読まれかねないものでした。
 この「含み」はナツ氏のコメント
だからわたしがそういう人に言いたいのは本当のところ、「恋愛したいのか、したくないのかどっちなんだ!」ということではなく、そういう風に自分の内面を突きつめることによって、恋愛至上主義的価値観を内面化していることに気づいて、そこから自由になったら?ということなんですけど。
まず自分の気持ち・欲望をきちんと掘り下げて向き合ってみないことには、どこにも進めないし、闇雲に他者を攻撃することもやめられません。
の主旨と重なりますが、「恋愛至上主義的価値観から自由になるべき」というのは私の本意ではありませんので、慎んで撤回させて戴きます。(このことについては、もう少し後で補足します。)

 shinpants氏は「モテたいと思うこと」を「『恋愛』という形での『世界』へのこだわり」として言い換えています。

では、人が「恋愛」に生きることは勝手でしかなくて、そういう「恋愛」にこだわることの偏りや副産物について指摘することはできないのだろうか。
A氏がなぜ「恋愛」をこだわりとして選ぶのか、その構造を理解することで、この問いの糸口が見えるかもしれない。
A氏をこだわりへと結び付けているのはA氏の美的な感覚である。
(中略)
人間は、二段階で欲望や現実を理解する。
理屈どうこう抜きにして、「なんとかしろ」と自分自身に迫ってくる「欲望」や「現実」を、まず経験的に理解する。この理解はあくまでも、まだ実践の段階でバラバラの状態である。
そして、その実践領域での経験を、統合し、これまでの自分の理解との対応を判断することで、これまでの蓄積で体系付けられている概念の枠組みに組み込む。この段階で、今後の自分の行動に影響する形式的で体系的な「欲望」や「現実」の理解になる。
美的な感覚は、形式的な概念の体系と、経験的な実践の領域とを対応させる、各自が経験により学習してきた一定の基準を持つ感覚である。この感覚が本人の「幸せ」を決める。

 shinpants氏が整理しておられるように、「自分自身に迫ってくる『欲望』や『現実』」は、その時点ではいわば感覚的なものであり、概念として言葉で説明できるものではありません。私達はそれを「語り直す」ことによって概念の体系を作っていきます。例えば「恋愛感情」であれば、私達は最初からそれを「恋愛」という枠組みで認識するわけではなく、事後的に「これは恋愛感情なんだ」と語り直す(再確認する)、といったようなことです。
 「恋愛へのこだわり」というものも、基本的にはこのような「自分自身に迫ってくる何か」であり、それに対する自身による語り直しはあくまで事後的なものです。従って、「なぜこだわりを持つのか」「なぜそれにこだわるのか」ということの正確な答えは本人にも、他人にも分かりません。「推測」ならできますが、それはあくまで私達が蓄積している「概念の体系」をあてはめることによって、です。

 ここで、「どうすればモテますか?」という質問について考えてみます。

 この質問の「意味するところが曖昧である」ということは既に述べましたが、なぜ曖昧になってしまうのか、ということですね。「モテたいという欲望」も先に述べたのと同様、事後的に語らざるを得ない「自分自身に迫ってくる何か」です。一方、「恋愛」とは私達が持っている「概念」です。これらを連結するものが、shinpants氏の言葉で言えば「美的な感覚」なんですが、これは各人の経験によって形成されます。

 ここで比較のために「食欲」という欲求を考えてみましょう。私達が空腹感を覚え、食物を欲するとき、私達には既にこれまでの「食べるという行為によって空腹感が解消される」という経験の蓄積があります。「食欲」と「食べるという行為」はダイレクトに結び付けられ、そこに疑問を差し挟む余地は(ほとんど)ありません。

 では「恋愛したいという欲望」はどうでしょうか? 恋愛経験のない人であれば、「恋愛したい」と思ったとき、その欲望の対象を「恋愛」という概念と直結させることは出来ません。なぜなら、その人にとって「恋愛」それ自体は「概念」ではあっても「現実として感じられるもの」ではないからです。そこにこそ「美的な感覚」に基づく「こだわり」が介在する余地があるんですね。
 これは実は、恋愛経験のある人でも基本的には変わりません。なぜなら、「Aさんとの恋愛」と「Bさんとの恋愛」という経験はそれぞれ別の関係性に基づいたものであって、それらを同じ「恋愛」という概念で括っているのはやはり「美的な感覚」に他ならないからです。「恋愛という概念」が明確に定義できない以上、「恋愛したいという欲望」を明確化することはできないんですね。

 このことを別の角度から見てみましょう。「食欲」は「満たされた状態」がほぼ自明ですが、「恋愛したいという欲望」はそうではありません。どのような「恋愛」であれば「満たされた状態」になるのか、誰にも分からないわけです。「恋愛」に限らず、およそ「欲望」という名で呼ばれるものは全てそうです。(というか、「欲望」という言葉はそのようにして「欲求」から区別されます。)
 それでも「モテたい」とか「恋愛したい」と思うのは、「恋愛すれば良いことがある(幸せになれる)はずだ」という「こだわり」が介在しているからです。「モテたい」あるいは「恋愛したい」という欲望は(というか、どのような欲望も)、突き詰めると「幸せになりたい」という欲望に帰結します。「どうすればモテますか?」という問いは、すなわち「どうすれば幸せになれますか?」という問いに他なりません。

 従って、「どうすればモテますか?」という問いは、そのままでは問い自体が不適切(「どうすれば幸せになれますか」という問いに簡単に答えられる人は居ないでしょう)であるため、問いの内容を限定しなければ有効に機能しません。迂闊に答えようとすれば、それは回答者自身の「恋愛への美的感覚に基づくこだわり」を相手に押し付けてしまうことになります。
 上で挙げたコメントでナツ氏が言っておられることをここでの文脈に沿って解釈するならば、「自身の欲望を明確に語り直すことによって、問いを再設定せよ」ということになるかと思います。しかし既に述べた通り、「欲望を明確に語り直す」ことは誰にとっても困難なことであり、それを他者に強要することは暴力的たり得ます。
 しかしながら、「問いの再設定」をしないことには話が通じないことは確かです。前々回の記事はそのような「問いの再設定」を念頭に置いていたものだったのですが、結局ナツ氏と同様「欲望を明確にせよ」と迫る罠に陥ってしまっていました。

 それでは、有効な「問い直し」とはどのようなものでしょうか? 次回以降に考えてみたいと思います。