「恋愛放棄」にまつわる個人的な話

 お久しぶりです。
 最近更新が滞りがちなのはネタがないのではなくて、書こう書こうと思いつつ、うまくまとまらないままネタばかりが溜まっていっているという状況なんですが、書けるものからぼちぼち消化していきたいと思います。
 今回はその、これまで何度も書こうと思いつつ何となく書いてなかった記事の一つ、私自身の「恋愛放棄」についての話です。基本的に自分語りなので、大して面白い話でもないですが、少しばかりお付き合いください。



 「恋愛放棄」という言葉は割と非モテ界隈特有の用語かなぁと思っていたんですが、実際にGoogleで検索してみるとそういうわけでもないみたいです。とはいえ、二番目にシロクマ氏のページ、三番目に喪男道と、非モテ関係のページが上位にヒットすることは確かです。
 この二つのページを改めて読んでみて印象的だったのは、立場こそ違えどどちらも「恋愛すること」のメリット・デメリットについて語っているということでした。まぁ、「恋愛放棄」という言葉を使う以上、そうなるのは自然だとは思います(私自身も、喪男道に書き込んでいた際には「恋愛放棄」をメリットの問題として語っています)。が、私が最初に「恋愛放棄」を考えたときには、それは単純なメリットやデメリットの問題ではありませんでした。

 以前こちらの記事などでちょっと書いたことがありますが、私の小学生時代は一貫して友人関係が極端に乏しく、クラスの中で誰かと話すことすらも滅多にないくらいで、休憩時間は基本的に図書室に入り浸りでした。それほど極端な状況になると、自分がクラス内での「異端」であることが当たり前になってきます。「スクールカースト」という言葉で表されるようなクラス内の人間関係や権力構造にも鈍感になります(考えても意味がないので)。当時のクラスメイトの名前は覚えていても、誰が人気者だったとかいうのは全く分かりません。覚えていないんじゃなくて、もともと意識していなかったし、意識のしようもなかったんですね。
 今だからこそこのように整理して語れるわけですが、当時は私は「自分のこと」を語ることができませんでした。コミュニケーションから断絶されているということは、楽しかったとか辛かったとか、そういう感情すら語れないということでもあるのです。当然ながら作文は極端に苦手で、放課後何時間も残されても一行も書けなかったりしたことがよくありました。
 唯一自己表現らしいことが出来ていたのは、三歳下の弟との「遊び」においてだけでした。弟と二人で、おもちゃを様々なキャラクターに見立て、手にとって台詞を語らせ、交互にロールプレイをしながら空想物語を作っていくというもので、テレビゲームやアニメ、時には小説などから題材を取っていました。今でも、その空想の世界でのいくつかの固有名詞や設定、出来事などのいくつかを詳細に思い出すことができます。ただ、弟との「遊び」の中での語りでは、私は現実の自分自身を語ることはできませんでした。「遊び」の世界において、私は私でなかったからこそ語れたのでしょう。

 ともあれ、コミュニケーションから断絶されていた私にとって、「自分を語れない」ということは他のどんなことよりも決定的でした。自分を語れないということは、確固たるアイデンティティを何も持てないということであり、それは「自分には価値がない」ということと同義でした。もちろん「今から考えれば」そうだったということであり、当時にしてみれば「自分に価値がない」ということは空気のごとく自明のことだったので、特に意識していたわけではなかったのですが。

 そんな状態にあって、恋愛するとかしないとかを現実的に考えられるはずもなく、ただ漠然と自分からは遠いものと考えていただけでした。自分にとっての「恋愛」を初めて意識的に考えたのは、中学に上がってしばらく経った頃で、その頃読んでいた一冊の本が原因でした。



 中学に上がってから、幸運にも友人と呼べるような同級生に出会い、その友人が社交的な性格だったおかげで、学校でのコミュニケーション断絶状態は小学校に比べると改善されてきていました。相変わらず自分の感情や気持ちを表現することは苦手で、図書室にも入り浸ってはいたものの、それはそれでそういうキャラクターとして認知されつつありました。ただ、「自分を語れない」ということに端を発する「自分には価値がない」という感覚は、まだまだ強く残っていたと思います。

 そうした中、中学二年の夏休みに入る頃、母の蔵書の中からたまたま見つけて読み始めたのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの書いた「第二の性」という本です。これは戦後の女性解放運動の一つのきっかけを作った著作として知られており、フェミニズムをかじった人ならよくご存知でしょう(当時の私はそんなことは知りませんでしたが)フェミニズムにあまり詳しくない人でも、冒頭の「人は女に生まれない。女になるのだ」という一節はご存知かもしれません。
 この本は、「女性の生涯において、女性が置かれている社会状況や抑圧」について中心的に述べています。当時中学生男子であった私がそれのどこに共感したのかといえば、やはり「語れなさ」でした。

 女性は一般的に受身で依存的で主体性を欠くと考えられがちだが、そのように見えるのは女性に固有の特性によるのではなく、女性の置かれた「状況」に依るのだ、とボーヴォワールは言います。その「状況」を形作る重要な要素のひとつとして指摘されているのが、「自分の尊厳を他者(男性中心社会)に委ねざるを得ないということ」だったんですね。男性に認められなければ自身の価値=アイデンティティを自分で定められないということ、それはすなわち「自分を語れない」ということと同義です。それはあくまで「女性」について書かれたものではあったものの、自分自身の過去から現在までの「状況」と呼応するものでした。もちろん、最初に読んだ時はそこまで意識していたわけではないのですが、とにかく私は、この本を「自分に対して言われているかのように」読み、そして、本を読んで初めて「自分は何をすればいいのだろう」という掻き立てられるような思いを持ったのでした。

 「第二の性」でボーヴォワールは、男女間の恋愛について数多くの事例を扱っていますが、その中にはデートレイプに類するような事例が少なからず出て来ます。「第二の性」に入れ込んでいた当時の私は、それらを女性の側に感情移入して読んでいました。性愛が暴力を伴うことがあることや、女性にとっての異性愛が常に妊娠などの恐怖とともにあることを、肌身に感じるように受け取った私は、本を閉じて「男性」としての立場に立ち戻ったとき、自分がどうしたらいいかを考え、こう結論しました。「これから一切、誰とも性的関係を持たないようにしよう」と。その考えから「恋愛放棄」という考えに至るのは、当時の私には必然のように思われました。

 そういうわけで、13歳のとき、私は「恋愛放棄」を一人で心に誓ったわけです。とはいえ、当時の私は、それは特に難しいことでもなんでもないと考えていました。告白などの具体的なリアクションさえ取らなければ、誰かを「好きになる」ことがあったとしてもそれだけに留めておけば、「恋愛関係」を避けて通るのは簡単だと思っていたんですね。
 ただ、簡単なことだとは思っていても、それには「自分で自分を規定し直す」という意味があったのではないか、と今では思っています。自分を語れなかった私にとって、それは重要なことだったのでしょう。

 その後、中学三年の夏休みに私は「第二の性」をもう一度読み直し、学校の課題だった読書感想文をそれで書きました。それまで作文の類が全く書けなかったのに、その時はすらすらと筆が進んで自分でも驚いたことをよく覚えています。

 ずっと後になって、ある女性に自分の恋愛観についてすこし語ったとき、その人から「自分の責任ばかりで、相手の責任を考慮に入れてないんじゃないか」と言われたことがあります。同様の感想を持った方もいらっしゃるかもしれません。13歳当時から私の「恋愛」をめぐる考え方もかなり変わりました。そのことはまた、次の機会に話すことにしたいと思っています。