「モテのパラダイムシフト」について

 前々回に予告したイカフライ氏への言及が残ってますが、その前に一つ「非モテ」関連の話題を取り上げます。

 「非モテ」すなわち「恋愛パートナーが存在しないことに悩んでいる人達」に関しては、「気の持ちようの問題だ」という意見がしばしば見受けられます。それ自体は必ずしも間違いとは言えないんですが、問題はこうした意見を言う人のほとんどが「恋愛至上主義」を前提にして語ってしまうことなんですね。今回取り上げる森岡正博氏の議論も、見事にその「罠」にはまっているんです。
 まず、森岡正博氏こちらの記事から見ていきます。

そもそも、「いろんな女からちやほやされたい、あわよくば、いろんな女とエッチしたい」という願望は、「権力欲」にほかならない。このような権力欲に裏付けられたモテにこだわっているかぎり、光明はさしてこないだろう。(沼崎一郎はこれを「男力」として批判している)。

そのような観念に絡め取られたうえで発せられる「モテ/非モテ」のパラダイムを、脱出しないといけないのではないのか。

 森岡氏の議論のこの部分には、私も完全に同意します。一般的な意味での「モテたい」という欲望は、森岡氏の指摘しておられる通り、一種の「権力欲」として考えることができます。また、そのような権力欲に拘泥することが不毛なことである、というのも至極真っ当な主張です。
 ところが、森岡氏の議論はそこからおかしな方向に向かっていきます。

では、コペルニクス的転回後のモテとは、いったい何なのか? 私が思うに、モテる男とは(とりあえずいまは男性の側に立った異性愛のみを考える。クィア論的次元についてはおいおいのちほど)、次のような男のことである。
モテる男とは、「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる」男のことである。
そういう男になることができたら、その結果として、「ただそこにいるだけで、まわりの女たちに、異性としての快い刺激を与え、かつ、安心させることのできる男」に、長い時間をかけて徐々に近づいていくことができる。

これが、私の考えるモテる男である。

 ここで問題になっているのは「非モテ男性」、つまりは「恋愛パートナーが存在しない」男性です。その状態にある限り、「ひとりの女を恋人として大切にする」ことは原理的に不可能です。
 つまりこの提案は、文字通り受け取るものではなく、「もし恋人が出来たらその人をただ一人大切にしよう」というような「意気込み」のレベルでしか語れないものなんですね。これは、この提案が「どのようなコミュニケーションを取ればいいのか?」という視点からではなく、「理想的な関係性の形はどのようなものか?」という観点から出発しているからとしか思えません。

 森岡氏によれば、「ひとりの女を恋人として大切にする」男であれば、「まわりの女たちに異性としての快い刺激」を与えたり「安心させる」ことが出来たりするのだそうです。何の関連性があるのか私には全く理解できませんが、是非とも詳細を説明して戴きたいところです。
 そもそも、「ひとりの女を恋人として大切にする」という態度ですら「権力欲」の発露でない保証はどこにもありません。恋愛の相手を一人に限って「大切にしよう」としたからといって、それがどうして「相手への支配欲」に結び付かないと言えるでしょうか?

 こうした無根拠な思い込みが盛り込まれてしまうのは、元々「ひとりの相手を恋人として大切にする」というテーゼが単にイメージでしか語られていないからです。「恋人として」とはどういうことか、「大切にする」とはどのような働きかけを意味するのか、といったことが森岡氏の記事には全く語られていません。はっきり分かるのは「恋人をひとりに限定する」ということのみであり、それだけのものに多くの幻想が上乗せされているに過ぎないんです。
 イメージでしか語られていないものを「目標にせよ」と言われても目指しようがありません。出来ることは、せいぜいイメージの断片を模倣することくらいです。



 さて、森岡氏はこの記事で、「モテ概念」を3つに分類・整理しておられます。

モテ・1
モテる男とは、つねにいろんな女と恋愛・性愛状態である、あるいはその気になればいつでもいろんな女と同時に恋愛・性愛状態になれるような男のことである。
モテ・2
モテる男とは、女と恋愛経験をしたことがあり、これからもすることが現実的に可能な男のことである。
モテ・3
モテる男とは、「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる」男のことである。その副次的効果として、「ただそこにいるだけで、まわりの女たちに、異性としての快い刺激を与え、かつ、安心させることのできる男」に、長い時間をかけて徐々に近づいていくことができる。だが恋人・性交相手は一人である。

 森岡氏は「モテ・1」「モテ・2」から「モテ・3」へと目標を切り替えることを「モテのパラダイムシフト」と呼んでおられるわけですが、これは実はパラダイムシフトでも何でもありません。「モテ・1」も「モテ・3」も、暗黙のうちに恋愛・性愛関係を至上のものと見なしている点では同じなんですね。違いは「複数の異性から性的に欲望されること」を「期待するか否か」だけでしかありません。
 「モテ概念」を用いている限り、恋愛・性愛関係の優位を前提としてしまうことは避けられません。すなわち、「モテのパラダイムシフト」は最初から不可能なんです。

 だとすると、「非モテ」にとってのパラダイムシフトは如何すれば可能なのでしょうか? これについては、ひとまず森岡氏の反応を待ってからにしたいと思います。


(7/13 追記

 この記事の記述は、森岡氏の言説に対する誤った解釈に基づいて書かれている可能性が高いです。こちらの記事を参照してください。