ネット議論の信頼性についての補足

 予告していた話題です。
 まずは加野瀬氏へお答えする前に、kikunosuke_a氏の最後の記事に少し触れておきます。
私の「問題意識」は、最近起きたわかりやすい問題で表現すれば、「あるある大事典納豆ダイエットデータねつ造の結果、納豆が売り切れる」のと同じ事が、Web上でも起きるのではないか。むしろ、Web上の方が起きやすい/起こしやすいのではないか、という問題です。
そして、Webが、より身近なものになればなるほど(隣近所のおばさん達がTVを見るのと同じ程度に普通に使うようになれば(この意味で、皆さんが思われているほど、Webでの情報伝達はTV等と比較して、まだまだ浸透はしていません。))、「信頼性の担保」を、なんらかの形で、第三者的にわかるようにしなければいけない、という問題意識です。そういったモノが無ければ、最終的に、現在のブログで行われているような「個人の発言」の信頼性が失われ、「特定のサイトの情報しか信頼されない」という状態を作り出しかねないので。
私は、その「データねつ造的な事はWeb上において、恣意的に起きやすい」ことと認識し、また、「アルファブロガー」等、「周りから『信頼できる』と認識されている」人によって「その人の『恣意的な意見』を加味された、コントロールされた情報の発信」が、「既存のメディアよりも簡単に行われるのではないか」ということを危惧しました。

 前々回、私は「Web上での評価と議論の妥当性には何の関係もない」と述べました。しかし、読み手の中には、「Web上での人格評価」をもとに「議論の妥当性」を判断してしまう人達が居てもおかしくありません。「議論自体の信頼性」と「議論相手の信頼性」は、読み手によって混同されてしまう可能性があるわけです。kikunosuke_a氏がリテラシーと呼んでいるのは、「両者を峻別する能力」のことでしょう。これはこれで、「議論の妥当性・信頼性」に関する議論として成り立ち得るものです。
 しかしながら、kikunosuke_a氏の「実験」とその結果の分析は、最後まで支離滅裂なものでした。

その後の電波言説と、「全部ネタでした」というちゃぶ台返しは、こちらの実験として、想定通りの行動でした。
「ちゃぶ台を返す発言をする」と、それに対して、どのような反応が起きるのか。それが見たかったのですから。
私のちゃぶ台返しが、単に「頭の悪い電波さん扱い」されるだけで、ブクマされる事も無く、スルーされれば、私の考えていた問題は杞憂に過ぎなかったことになるので、それを期待していたのです。今回の問題に関しては、単に私が心配症だっただけで、ネット上のリテラシーは思っている以上に高いのだ、と。(つまり、最初からあの言説は「嘘/ネタである」と見抜かれていた、と。)
(中略)
その上での、「ちゃぶ台返し発言」以降の、このブクマ数と、disられっぷり、言説への反応は、十分に異常値と言えます。私にとっての期待値・理想値は「『ちゃぶ台返し発言』以前と同様のレベルで私の言説が無視されること」だったのですけれど。

 「ネタ宣言」以後に注目度が一気に上がるのは、ネット上である程度長く活動している人なら誰でも予想できる反応です。ネット上では「おかしな行動」を取る人物がとにかく注目を集めやすいからに過ぎません。(これについては、瀧澤氏がほぼ同様の見解を述べておられます。)kikunosuke_a氏の「分析」は、この「当り前の反応」を「議論自体の信頼性の問題」へと強引に結び付けたものでした。「おかしな行動をしたらネット上で注目されました」という事実から、「ネット住民のリテラシーが低い」という結論はどうやっても導き出せません。



 そういうわけで、kikunosuke_a氏の指摘そのものはかなりピントがずれているんですが、私が問題にしようとしたのは(氏の指摘とは)別のところでした。特にシロクマ氏の議論に顕著ですが、話が「ネット上での人格評価」の問題に終始しており、「議論自体の信頼性」が軽視されていること自体を問題だと考えたわけです。というのは、「ネット上での人格評価」を元に議論の妥当性が判断されるのであれば、既にネット上で高い評価を得ている人物ほど「議論の信頼性」を意図的に歪めることが可能になってしまうからです。

 しかし、加野瀬氏の言われるように、元々の益田ラヂオ氏の発言がそもそも「議論自体の信頼性」を問題にしておらず、加野瀬・シロクマ両氏はその質問の趣意に従ったに過ぎないと言われれば、確かに私の指摘は勇み足だったかもしれません。

ラヂオさんの記事で問題になっていたのは「議論自体の信頼性」ではなく「議論相手の信頼性」だった。そして、議論を打ち切られないためにはどうすればいいのか?という質問に対しては、そういう不安を持ちたくないのなら、ネット上に人格の担保をそれなりに持っている人を相手するしかないのでは、と書いた。

この読み違いの発生は何かなあと考えたんだけど、kikunosuke_aさんの意図を重視するかどうかなのではないか。この人はネタ宣言によって「議論自体の信頼性」がどう変わるかを観測しようとしていた。でも、反応を見る限り、「議論の信頼性」が下がっていると見てる人はいないようだし、自分もその点を問題にする必要性は感じなかったから、自分はラヂヲさんの問題提起のみに答えた。

 私は益田氏の質問を「議論を打ち切られないためにはどうすればいいか?」という風には捉えていませんでした。なぜなら、信頼性の云々に関わらず、相手の止むを得ない事情で打ち切られる可能性があるのがネット上の議論だと認識していたからです。「議論を一方的に打ち切られること」自体が問題になるとは思っていなかったんですね。私が誤読していたとすれば、この思い込みが原因ではないかと思います。

 益田氏の記事を再度読み返してみると、氏の発言は「メタあるいはネタとして『扱われること』それ自体が不安だ」という趣旨に読めます。これは一般的な議論の信頼性どうこうというより、一種の「対人不安」に近いものに見えます。だとすれば、話は議論の信頼性とかリテラシー以前の問題なのかもしれません。