「非モテ」の苦しみとは何か?

 前回「クリスマス粉砕デモ」に参加してみての雑感を述べてみたわけですが、その中で「非モテの共通利害など存在しない」と述べたことに対し、益田ラヂオ氏から次のような反応がありました。

rAdio Commented 俺はまず自己利益。それでついでに「同志」の支持も得られたら、互助的でええ感じやん、というわけです。大義名分さえあれば何でもできる!さあ、デモだテロだ死ぬのはどいつだ?
自分にとっての利益とは、一言でいえば「おいしい思い」でしょうかね。

非モテであるがゆえにモテる、とか、ラクしてお金が儲かる、とか、好き放題できる、とか、そういった、ありがちなヤツですね。
非モテであるがゆえに、法外な得をする、みたいな社会が望みです。
(中略)
要するに、既存の「イケメン補正」をなくして、新たに「非モテ補正」でもって、その位置におさまりたいな、と。

 今回は、ここから話を始めてみたいと思います。すなわち、益田氏が挙げておられるような「利益」は本当に「利益」か? ということです。もっと直截に言えば「モテることはそんなにいいことか?」ってことですね。ラクしてお金が儲かる云々は無視するとして、この点に絞って考えてみましょう。(「イケメン」故にラクしてお金の儲かるというのは、ちょっと考えられませんし。)

 そもそも「モテる」とはどういうことでしょうか? これを巡っては、以前にも森岡正博氏の「モテ定義」に関する議論がありましたが、今回は触れないでおきます。さしあたり「異性から恋愛対象と見られること」くらいに考えておきましょう。「非モテであるがゆえにモテる」という表現の自己矛盾についても、今のところはスルーしておくことにします。

 さて、「モテる」ことは非モテにとって利益でしょうか? 「非モテ」とはモテないことで悩んでいる人達なのだから、モテるようになればそれは利益だろう、と単純に考える人も居るかもしれません。しかし、「恋愛対象として見られること」は、果たしてそんなに良いことでしょうか?

 以前にもどこかで述べたと思いますが、「非モテ」は基本的にコミュニケーション、特に非言語的なコミュニケーションを苦手としています。ところが、「恋愛」というコミュニケーションは非言語的コミュニケーションの塊です。umeten氏が「恋愛は想像力の遊戯である」と述べておられるように、そこでは、日常的なコミュニケーションの何倍も「空気を読む」ことが要求されます。
 「モテる」ということを「恋愛対象として見られる」ということだとすると、それは「非モテ」にとって「苦手なタイプのコミュニケーションの場に無理矢理引きずり込まれる」に等しいんですね。恋愛についてよく言われることに「振られるより振る方が辛い」ということがあります。「非モテ」がこのことを想像できないのは、単にたまたま「振る立場」になったことがないだけの話です。
 しかしながら、「モテる」人(男女問わず)をじっくり観察していれば、彼らの多くが、がこうしたコミュニケーションの負荷に対して相当な精神的リソースを割いていることが分かります。果たしてコミュニケーションスキルの低い「非モテ」の人達は、そんな負担に耐えられるのでしょうか?

 もっとも、上記は極端な話であって、コミュニケーションスキルが低い人は恋愛できない、というわけでは勿論ありません。けれども、非モテ」にとって「モテる」ことが必ずしも良いことではない、という事実はきちんと押えておくべきでしょう。

 さて、だとすると、「モテなくて苦しんでいる」というのは一体どういうことなのでしょうか? 「非モテ」の人達は、本当なら「モテないがために余計な苦しみから免れている」のかも知れないにも関わらず、「モテないことが辛い」と言っているように見えます。「非モテの苦しみ」とは一体何なのでしょうか?



 そこで、「非モテの苦しみ」を最も端的に示した記事を以下に紹介しましょう(これが「非モテの苦しみ」の全てだと言うつもりはありませんが、多くを占めるものであることは確かです)。以前多くのブックマークが付いた記事なので、読んだことのある方も多いはずです。

そしていつしか話題は同僚Bの非モテ話に発展しました。

或る中堅社員「お前(同僚B)は女にモテたくないのか?もっと積極的になって合コンやらに参加しなければダメだ!正直やりたいんだろ?」
同僚B「いいんです私は…そういうのはもういいんです…」

という同僚Bの恋愛資本主義からの脱却ともとれる発言が、まわりの人達の神経を逆撫でしました。

「本当にそれでいいと思っているの?五年後に後悔するよ?」
「そんなことを言っているとアキバ系と同じに見られるぞ!人形の着せ替えとかして萌えーとか言ってんの、おえー」
「40過ぎても独身でいいのか?あんな奴ら、人として終わってるよ」
「そんなだからモテないんだよ」

などと罵詈讒謗をグロスフスMG42機関銃の如く浴びせ続けたのです。私も聞いていて耳が痛かったのですが、素知らぬ振りをして芋焼酎を飲んでおりました。可哀想だけれど、同僚Bがいなかったら私がMG42の餌食にされていました。

 この記事に表現されている「辛さ」は、「恋愛できないことが辛い」というのとは全く別のところにあることがすぐにご理解戴けるでしょう。k-d-hide氏のこちらの記事でも似たような「辛さ」が表現されていますが、こちらはさらに読んでいて痛々しいものになっています。長くなるので引用はしませんが、是非読んでみてください。
 この同僚B氏やk-d-hide氏の辛さは、「恋愛関係の有無」にではなく、「同僚・友人関係」の中で発生しています。「非モテ」の真の問題は、恋愛関係ではなく、それ以外の交友関係の中にある、と言い切ってもいいでしょう。特に非モテ男性の場合、上に挙げた記事のように、男性同士の間での関係の中に問題が潜んでいることが多いわけです。

 こうした「恋愛はするのが当然」という感覚の人達は恋愛観も固定的であることが多く、先に述べたような「恋愛の苦手」なタイプの人がこうした「説教」を真に受けると、より悲惨なことになります。(理由は敢えて説明しません。)

 このようなものが「非モテの苦しみ」であるとするならば、それはどのようにすれば解消できるでしょうか? 少なくとも、「非モテ」同士で「団結」すれば解決するようなものではなさそうです。また、政策的にどうにかなる問題とも思えません。恋愛至上主義という思想はこうした人達の中にがっしり根を張っており、法律や国家権力がどうにかできるものではないからです。フランスの哲学者ミシェル・フーコーは「権力は下から来る」と述べましたが、この場合にもそれが当てはまります。
 かといって、このような交友関係の中での問題を個人的に解決することも、容易にできるとは限りません。ただの友人なら縁を切れば済むかもしれませんが、職場の同僚などの場合はそうもいかないでしょう。ただ言えることは、このような問題にシンプルな解決法など無い、ということだけです。

 革命的非モテ同盟の古澤氏は、権力の根源は暴力であり、個人個人が「暴力を留保」した上で社会が成り立っているのだ、だからこそ団結して立ち上がり力を結集することには意味がある、と述べておられました。しかしながら、上記のような関係性の中において「暴力」はほとんど考慮の余地の外であることに注意せねばなりません。暴力は権力を形作る一つの要素ではありますが、それ以上のものではないんですね。実際には、人は食べなければ生きていけないし、それ以外にも多くの人の助けがなければ社会生活を送れないのであり、そうした必然的な相互依存関係の中にこそ「下からの権力」の本質がある、と理解すべきでしょう。
 背後にあるものが「暴力」ではない以上、「団結」による示威行動自体は無意味かつ無力です。前回のクリスマス爆砕デモの時に述べたように、「非モテ」として同じ悩みや辛さを共有する人が集まって語り合うことや、パフォーマンスという形での表現には意義があると思いますが、それは「団結することで力を結集できる」からではない、ということを肝に銘じておくべきだと思うのです。

 今回の「クリスマス粉砕デモ」の総括的なことは未だに行われていないようですが、参加者の一人として、これを以って今後の古澤氏の活動に向けての提言とさせて戴きます。