「社会的弱者論」を考えるための基礎

 ナツ氏のところのコメント欄で、以前の「非モテ弱者論争」に関連した話になっています。この議論に関しては以前「意味のある問題設定とは思えない」と述べてスルーしたんですが、「非モテ」に関する議論の中で「弱者」概念が極めてルーズに扱われている現状を考えると、改めてきちんと述べておく必要があると思い直しました。

 ひとまず「社会的弱者」という概念について、もう少し一般的な話から初めてみたいと思います。まずは、「バックラッシュ!」の中での議論について取り上げたmacska氏のこちらの記事から。

新自由主義による経済構造の変化が過剰な流動性を生み出し、それを不安に感じる層がいわば身近なターゲットを「誤爆」するかたちでバックラッシュが起きるという分析は鈴木氏と同じだ。しかし違うのは、わたしがあくまで「誰が弱者であり、どの程度の手当てが必要とされるのか」という社会的合意が成立しなくなったことがジェンダーフリーフェミニズムがバッシングの対象となる理由だと見ていることだ。鈴木氏は実際に女性への手当ては既に行き届いており(だから「恨まれる」対象となる)、現在手当てをより必要としているのは男性の側だと主張しているようだが、わたしからみるとかれは社会の複雑化と不透明化によって起きた「社会的合意の変化」と現実社会の変化を取り違えているのではないかと思う。
(強調は引用者)

 記事の趣旨は、フェミニズムジェンダーフリーへのバックラッシャーが「なぜ発生するのか」「どう対処するべきか」をめぐってのものですが、その中で「弱者男性」について扱われています。macska氏は、バックラッシュが生じた一因が「弱者概念の不透明化」にあるとして、氏自身の経験による次のような例を挙げておられます。

さて、charlie さんもマイノリティに対する手当ては(その形態がどうなるかは別として)いままでと同じく今後も必要だと言いますが、不透明化した現在の社会では政策的にそうすることが困難になっています。上の方のコメントで斉藤さんがそうした困難をどのようにして解きほぐせばいいのかという質問をしていますが、わたしも頭を抱えています。たとえば先日わたしの知人の売春婦が HIV に感染するリスクをあまりに軽く考えているのを知って現実はこうだという話をしていたのですが、彼女が「HIV に感染すれば住居や医療の提供してもらえるし、さまざまな社会的サービスが受けられる」と軽く言うので非常に驚きました。それほどまでに「弱者」はむしろ優遇されている、利権となっているという嫌疑が広まる中、どのようにすればかれらに対する手当てを存続あるいは拡充することができるのか、とても悩むところです。「『弱者』を恨む強者」の情緒的な手当てをすればそれで済む問題なのでしょうか?

 益田ラヂオ氏の「弱者利権が欲しい!」という発言も、元を辿ればこうした「社会的弱者への手当て」への不信感に端を発すると考えられます。要は、「弱者になりたい非モテ」という構図自体が「弱者への不信感」に支えられている、ということです。
 ナツ氏の言う「自称弱者」の問題も、この構造に由来するものと捉えて良いでしょう。

自称弱者が要求してるのは「障害者のように気を遣え」ってことだと思うんです。社会的認知された障害者というのは、「バカにしてはいけない」「人と同じ事ができないのは当然だから責めてはいけない」という「一応の」コンセンサスの元に生きてますよね。そういう社会的コンセンサスがあたかも「特権」のように見えている。それが証拠に、かれらは障害者なり同和なりに対しては概ね冷ややかです。

 このような漠然とした「不信感」と、それによる「弱者は優遇されている筈なんだから俺にも甘い汁を吸わせろ」的な空気に対しては、「社会的手当ての正当性」を何らかの形で分かりやすく提示していく以外にない、と私は考えます。そのためには、単に「正当性を論理的に説明する」だけでなく、「実際の社会的手当てはどのように行われているか」という点を細かく解説していくのが効果的です。というのも、漠然とした「弱者への不信感」を抱いている人の多くは、実際に行われている手当ての内実について詳しく知らないことが多いからです。むしろ、具体的な姿を知らないからこそ「漠然とした不信感」に繋がっている、とも言えます。
 そこで、「弱者への社会的手当て」の一つとして、macska氏によるアファーマティヴ・アクション積極的差別是正措置)の解説を見てみましょう。

人種や性別を考慮に入れるアファーマティブアクションに反対する人の中には、「人種や性別でなく親の収入を考慮すべきだ」という人もいる。たしかに黒人でもお金持ちはいるし、女性だって親にが裕福で教育熱心なら貧しい家庭で育った白人男性より有利な環境にいると言える場合もあるはず。過去のアファーマティブアクションで一番得したのは「裕福な家庭出身の白人女性」であってそれ以外の女性はあまり恩恵をこうむっていない、という説もあるしね。でも、ここで「階級か、それとも人種か、あるいは性別か」といった不毛な論争に引き込まれる理由は何もない。アファーマティブアクションの一環として親の収入を考慮に入れるのもアリだと思うし(現にそういう制度もあるし)、収入さえ考慮すれば人種や性別を考慮に入れることは不必要になるということもないはず。

米国の大学でよくある例だと、両親が大卒でない家庭出身の子どもを優先的に入学させるところがある。これはまさしく、生まれ育った家庭の階級的背景を考慮に入れたアファーマティブアクションで、そうすることで世代間階級格差の再生産を防ごうとしている。また、軍隊経験者を優遇するところもあるけれど、これはただ単に国のために体を張って働いてくれた人に報いるためだけじゃなくて、貧しい家庭出身の人が多い元兵士たちに機会を再配分する意味もある。

アファーマティブアクションは、なにも入学審査や採用試験のときにだけ行われるわけでもない。例を挙げると、物理学などハード・サイエンスを専攻する女性が少ない理由の1つとして、子どもの頃からメディアにおいても周囲の意識としても科学は男性的という決めつけがあったりして女の子が科学に興味を持つことを阻害している、という事実があるかもしれない。もしそうだとすると、女の子が科学に興味を持てるようなプログラムを実施すること,例えば女の子を対象とした科学教室を開いたり、女性科学者の話を聞く機会を設けたりすることが、動機の供給という意味で「機会の平等」かもしれない。いや、何も女の子だけのために何かやれというわけじゃなくて、例えば小学校で消防士さん(あるいは看護士さんでもいいんですが)の話を聞くことがあれば必ず男性と女性の消防士を一緒に行かせるということだけでも、将来の進路をより自由に考えられるようになるはず。

子どもだけじゃない。例えば大学が女性や少数民族の学生をサポートするためのオフィスを作って差別やセクハラなどの問題について相談できるようにするのもアファーマティブアクションに含まれるし、企業が求人広告を女性がよく読む雑誌や(米国なら)スペイン語や中国語の新聞に積極的に載せたりするのも、積極的に応募を促すという意味でアファーマティブアクションだ。もっと言えば、差別や嫌がらせは許さないぞ、と学内や社内に周知させるだけでもアファーマティブアクションと言って良い。

 この記事では様々な形の「弱者への社会的手当て」が挙げられていますが、それらが単なる「弱者への施し」ではなく、従って「弱者」概念を固定的に捉える必要のないものであることがお分かり戴けると思います。それぞれの方策は個々の差別や不平等の形に応じて設定されれば良いのであって、「弱者認定された者にのみゲタを履かせる」ような形である必要はないんですね。

 もう少し考えてみれば、広い意味での「社会的手当て」を受けることのない人など皆無であることが分かるはずです。年金や健康保険制度、それに義務教育や様々なインフラに至るまで、全て広い意味での「社会的手当て」と言えるでしょう。生活保護や障害者手当だって「一部の弱者」のものではなく、その立場になれば誰もが利用できるものです。

 「弱者への不信感」は「弱者概念の不透明化」によって生じたものだ、と先に述べました。これを「本物の弱者」を限定することで解消しようとしても、ますます「弱者として扱われることの根拠が不透明」になっていくだけです。そうではなく、個々の差別や不平等と、それらへの方策のあり方をはっきりさせていくことによってしか、今のところ「不透明化」を解消する道はありません。

 「非モテ弱者論」においても同じです。前提のはっきりしない漠然とした「非モテは弱者か否か」論を廃し、「『非モテ』とはどんな差別や不利益を受けている人達なのか、またそれはどの程度のものなのか」「それは何らかの方策によって解決可能か、可能だとしたらどのような方策か」をはっきりさせることです。前者については、前回の記事「非モテの苦しみとは何か?」で既に概略は述べました。
 ただし、前回にも言ったように、今のところ「非モテの苦しみ」に対する有効な社会政策はありません。従って、「非モテ」をとりたてて「社会的手当てを受ける弱者」として考えてもあまり意味はない、と私は考えています。急いで「方策」を考えるよりも、むしろ「恋愛至上主義に拘る人達」の動機について考察することの方が重要だと思うんですね。


(1/15追記
 コメント欄でのumeten氏の指摘を受けて、記事タイトルを変更しました。また、エントリ内容に直接関係のない最後の一文を削除しました。