背後にある「恋愛についてのフレーム」問題

 一つ前のエントリの書き直しです。(前エントリはあまりにピント外れだったので削除しました。)

 森岡正博氏の「モテ論」をめぐる前回までの話について、掲示板での議論を踏まえて再度まとめてみることにします。
 森岡氏の元々の命題は、このようなものでした。

モテる男とは、「一人の女を心から大切にできる男」のことであり、つねにいろんな女と恋愛・性愛状態になれる男のことではない

 森岡氏は前者を「モテ・3」、後者を「モテ・1」とし、「モテ・3」こそが望ましい状態(真の「モテ」)であると見做しています。また、「モテ・1」は「モテ・3」とは相反する場合が多いのではないか、とも述べています。
 これだけだと曖昧で、何のことを言っているのか分かり辛い。そのためにこの言葉の「解釈」をめぐって齟齬が起きているのだろうと私はこれまで考えてきました。しかし、問題は全く別のところにありました。

 「モテ・1を目指している男性」とはどんな状態か、をまず考えてみます。すると、「相手が誰であるかに関係なく、色んな相手と恋愛状態になれること」を希求しているわけですから、特定個人に対する「特別な感情」があるわけではない、と言えます。すなわちこれは「恋愛したいという感情」はあるが「恋愛感情」はない、という状態です。
 次に、「モテ・3の状態にある男性」はどうか考えてみます。「一人の相手を心から大切にすることができる」というのですから、これは「恋愛感情に基づいている」と見做せます。

 「恋愛したいという感情」は「恋愛という観念」に対する欲求であり、具体的な相手は存在しなくても発生するのに対し、「恋愛感情」は特定の相手が居なければ成立しません。「感情」という言葉はかなりあやふやなものですが、上記の定義で一応問題なく話は通じると考えて、話を先に進めます。

 問題はこの両者がどのような関係にあるか、です。
 「恋愛したいという感情」は、模倣欲望によって発生します。恋愛漫画や恋愛をテーマにしたドラマなどに影響されて、あるいは周囲の恋愛中の人に刺激されて「恋愛したい!」と思うことは、特に若年ではよくあります。一方、「恋愛感情」は特定の相手との出会い、または関係性の構築途上で偶発的に発生します。
 私はこの両者を「基本的には別物」と考えていました。それに対し、イカフライ氏はこれを「段階」として捉えておられるように思います。この捉え方の違いで、森岡氏の言説は見え方が変わってきます。



 まず、「恋愛したいという感情」と「恋愛感情」を全くの別物と考えるとどうなるか、を述べていきます。

 先に述べたとおり、「モテ・1」を目指すということは「恋愛したいという感情」に基づいています。これを元に実際に「モテ・1」の状態に至ると、「恋愛したいという感情に基づく恋愛関係」が成立するわけです。これは「恋愛感情に基づく恋愛関係」と違い「相手を真に愛することが出来ないのではないか」というのが森岡氏の主張でした。
 従って「恋愛感情に基づく恋愛関係」の中で「一人の女を大切にすることが出来る」男を目指せ、というのが森岡氏の提言になります。ところが、こうして目指すものを変えたとしても「恋愛したいという感情」に基づいて「恋愛」を希求している、という構造自体には何の変わりもありません。
 「恋愛したいという感情」のみに基づいて「恋愛を目指している」限り、目指すモデルが違おうと本質的には同じことではないのか、というのが森岡氏の提言に対する私の問題意識の骨子でした。

 次に、これらを別物ではなく「段階として」捉えるとどうなるか、を考えてみます。

 これは、「恋愛したいという感情」は真の「恋愛感情」への途中段階である、と見做すものです。この考え方では、「恋愛したいという感情」に基づいて「恋愛」を希求すること、それ自体は問題になりません。正しく「恋愛」を希求することによって、「真の恋愛」へと自然にステップアップ出来ると見做されるからです。
 ただし、いつまでも「『恋愛』という観念に憧れるだけ」のまま留まっていてはいけないので、もっと現実的な恋愛観へ目標を変える必要があります。それによって、「相手を大切にすることが出来る」ような恋愛関係を作れる、と見做されます。イカフライ氏の「恋に恋する概念をもっとリアルにしましょう」という解釈は、おそらくこういうことでしょう。

 これは、森岡氏の言説の解釈の問題というより、それ以前の「恋愛」をめぐる考え方のフレームの問題のように思えます。森岡氏の言説は一定の「恋愛についてのフレーム」を前提として成立しているため、そのフレームを無視して解釈すると意味不明になるわけです。
 私の当初の批判は、森岡氏が「恋愛についてのフレーム」を改変パラダイムシフト)しよう、または問い直そうとしてそれに失敗している、という想定に基づいていました。しかしこれがそもそも間違いで、森岡氏の言説は「恋愛についてのフレーム」を大前提とし、その上に乗って成立していたわけです。そのため、イカフライ氏との論争は森岡氏の言説そのものについてではなく、「恋愛についてのフレーム」の是非をめぐるものになっていたと考えられます。

 ここで言っている「恋愛についてのフレーム」とは、「『恋愛したいという感情』は恋愛感情へと移行できる、または移行すべきものである」という前提のことを指しています。考えてみれば、これはある意味では当然の前提です。この前提がなければ、「恋愛したい人達」は「恋愛のための努力」が出来なくなるんですね。

 ここから新たに論を進めることはせず、まずはここまでにしておきます。