「意味の変容の場」としての「非モテ」

 過去の「非モテ」という言葉のネット上での変遷については、以前「『非モテ』の変質と電波男」で述べた通りなんですが、今回はこれを「現在の『非モテ』の意味」と重ね合わせながら改めて見ていきたいと思います。

 まずは、件の記事での「非モテ」の説明を再掲しておきます。

非モテ」という用語はもともとはお笑いネタ系のテキストサイトにおける「芸風」の一つでした。それがどんなものだったかは、クリスマス殲滅委員会(1999年)などにその片鱗を見ることができます。

 当時の「非モテ系」は、「自分がいかにモテないか、女性に嫌われているか」を面白おかしくネタにするという「自虐芸」だったんです。このような芸風が成立するためには、「クリスマスにネット見てるような輩は(自分のように)モテない男ばかり」という暗黙の前提を、演じる側も見る側も共有していることが必要でした。
非モテ系とは「ネガティブを装うというお約束」であって、いくらモテないことを嘆いてもそれを機に行動を起こそうとする人は居ないんですね。即ち、ネット上でモテないことを嘆いている空間は実はそれなりに(恋愛なんかしているよりも!)居心地の良いもので、それを「お約束」で言わないことにしていたわけです。

 この時私は、テキストサイト全盛期当時(1999〜2002年頃)の「非モテ系」に参加していた人達の大半は「元々あまり恋愛に積極的でない」あるいは「恋愛自体には実はあまり興味がない」人達だったと考えており、そのように記述しました。ですが、この考え方はあまり正確ではなかったのではないか、と最近思うようになってきました。

 以前に書きましたが、私は「クリスマス殲滅委員会」のページを目にするまで「クリスマスは恋人と共に過ごす日」という風潮を全く知りませんでした。最初から「恋愛自体に興味がない人」というのはおそらく私と同じように、「クリスマスやバレンタインなど知らないうちに過ぎている」方が圧倒的に多いでしょう。だとすると、「非モテ系の自虐芸」を始めた人達は、元々は「恋愛」にそれなりの執着を持っていたと考える方が自然です。

 しかし、それにも関わらず、「非モテ系」に参加していた人達の間には「恋愛よりも居心地の良いネット空間」を楽しむ空気が醸成されていたように思えます。あくまで個人的な印象に過ぎませんが、「恋愛に対する強い執着」を感じることはほとんどありませんでした。最初は「恋人がいなくて寂しい」という感情の吐露であったかもしれませんが、それらは語られるうちに変質していった、ということでしょう。
 すなわち、「語ることの出来る場」が意識の変容をもたらしたわけですね。この見方が正しいとすれば、「恋愛に対する執着」や「モテないことに対する疎外感」は、「場」によって容易に変容する流動的なものだ、ということになります。



 先の記事中でも述べているように、このようなタイプの「非モテ系」ネタ文化は、ネットユーザーの多様化に伴って衰退しました。「執着」や「疎外感」をずらす場として「非モテ系」が機能しなくなったんですね。なぜそうなったのかを、ここでもう少し詳しく見ておきましょう。

 「非モテ系」は「恋愛経験が全くないか、殆どない」タイプの人を前提にした「自虐芸」であり、「恋愛に積極的で、恋愛に触れる機会の多い人」の参加が想定されていませんでした。「休日にネットでテキストサイト見てるような奴は非モテ」という自虐的な決め付けが、それなりに説得力を持っていると思われていたからです。
 ところが、実際にネットユーザーの幅が広がってくると、「恋愛に積極的な人」の参入は新たな問題を引き起こします。「恋愛に積極的な人」は、「恋愛」をネタ化することが出来ないんですね。

 裏返せば、「恋愛経験が殆どない」かつての「非モテ系」の人達は、恋愛経験がないが故に「恋愛(できないこと)」を容易にネタ化することができたわけです。ところが、ある程度以上の恋愛経験を持っている人の場合、それらの恋愛経験の記憶があるが故に、「恋愛」に自分なりの固定的な意味付けをしてしまいます。その分「恋愛の意味をずらす」ということが難しくなるわけです。
 そうした人達は「モテないことのネタ化」の意味を理解できず、自虐芸に対して「マジレス」を繰り返してしまうことになります。こういう人がごく少数の時は「空気読め」で済んでいたものが、大勢を占めるようになってくるとそれでは済まなくなり、結果として「非モテ系」全体の衰退を招くことになったのでしょう。

 そう考えると、今の「非モテ」がかつてよりずっと「恋愛」に執着しているように見えるのは、ネットの「非モテ」を名乗る人達そのものが大きく変わったわけではない、と推測することができます。ネット上に「モテないこと」を「ネタ化」させる効果的な場が失われた結果、そのように見えているに過ぎない、と考えられるわけです。

 少し余談になりますが、古澤克大氏の「革命的非モテ同盟」は、このかつての「非モテ系」に通じるものがあると私はこれまで思ってきました。「共産主義ネタ」という新たなネタのジャンルを開拓することで、再び「恋愛に対する執着」や「モテないことへの疎外感」をずらす場として機能し得るのではないか、と。そして、バレンタイン爆砕デモなどに見られるように、その評価は必ずしも間違いではなかったと思っています。
 しかしながら、この方法ではやはり「恋愛経験があるが故に、恋愛を固定化して見てしまう人達」を排除せざるを得ない、という問題が残ってしまいます。そしてこれでは結局、「非モテ」自体を固定化することにも繋がってしまうんですね。


 ともあれ、「執着」や「疎外感」が「場」によって比較的容易に変容し得る、と分かれば、「執着や疎外感を単純に固定化して考えること」に意味がない、ということも分かります。そして、それらの意味が変容していくためには「適切な場」が必要であることも理解できるはずです。
 これらを踏まえた上で、前回の続きである「恋愛というフレーム」の問題について、次回から見ていきたいと思います。