恋愛感情は「普遍」ではない

 前回の話に付け加えるべき点も幾つかあるのですが、それはひとまず置いておいて別の話を。

 以前の記事で、「恋愛資本主義」と「恋愛至上主義」は異なるものであり、また「恋愛至上主義」を批判することは「恋愛」それ自体を批判することと同義ではない、といったことを確認しました。これに対し、umeten氏がこちらの記事で次のような問題整理をしておられます。

 「恋愛普遍主義」とは、「恋愛とはすべての人間が誰でも同じように体験可能なものである」とするものである。

 恋愛や、非モテ喪男の文脈で問題にされるべき争点とは、この「個々人が持つあらゆる偏差を善人面をして塗りつぶし、誰もがみんな同じ条件を等しく持っているのだとするあきらかにゆがんだ悪平等思想の押し付け」なのではないのか。

 対して、恋愛至上主義とは、「恋愛こそがこの世で最も価値のあるものだ」、「恋愛をしない/できない人間は価値のない人間だ」とするものであるが、
 この考えは、「人間なら誰でも恋愛ができるはずである」という恋愛普遍主義を前提としている。

(中略)

 つまり、恋愛を問題化して、批判検討をするのならば、そもそもの大前提である「恋愛普遍主義」をこそ、対象にしなければならないのである。

 この「恋愛普遍主義」という概念は非常に有効なのですが、「恋愛」という言葉で指し示しているものが「恋愛感情」なのか「恋愛関係」なのかはっきりしない、という問題点がありました。素朴な疑問氏はこの点を指摘し、「恋愛感情は普遍だが、恋愛関係は普遍ではない」として次のように述べておられます。

私は基本的に、

・「恋愛感情」を伴う諸行為は、両性として分かれた動物なら、本能として刷り込まれていて当たり前。

という考えです。「恋愛感情」は「普遍」。「当たり前に存在する」という立場です。それがなければ両性が交わって次世代を残すという生命としての連鎖が途切れますから。両性を交わらせるための仕組みとして、他者(異性)との交わりを求める、結果的にそれに結びつく「感情」があるのは、ごく自然のことです。人類に限らず存在する「感情」の一つだと思ってます。
人類においても、「恋愛感情」を「異性」に持つことが仕組みとして刷り込まれていて、その意味で、「他者との交わりを求める」のは、動物の本能として「当たり前」のことだと思っています。

 素朴な疑問氏のこの反論は、却ってumeten氏の提起した「恋愛普遍主義」の意味内容をはっきりさせてくれます。結論を先に言うと、「恋愛感情」「恋愛関係」のどちらの意味においても「恋愛」は「普遍」では有り得ません。そして、「恋愛感情」を「普遍」と言い切ってしまうことは、「恋愛」に対する思考停止に他ならないんです。



 まずは引用部分の誤りから指摘していきましょう。純粋に生物学的に言えば、「恋愛感情」は「本能」とは言えません。wikipediaによれば、生物学における「本能行動」は次のように定義されます。
本能行動(ほんのうこうどう)とは、動物の高度で合目的的行動のうち、学習や思考によらず、先天的に獲得されているものをさす。
(2006年11月6日の版より)
 本能行動は先天的に行動様式が決まっており、学習などによって勝手に変更されることはありません。この定義に従えば、人間の「恋愛感情」が「本能」でないことは明白です。

 しかし、「恋愛感情は普遍」論の問題の核心は、こんなことではありません。

 上の素朴な疑問氏の文章を、もう一度よく読んでみてください。「次世代を残すという生命としての連鎖」「他者との交わりを求める」という言葉が「恋愛感情の存在理由」として挙げられています。この二つには何の関連性もないということにお気付きでしょうか?

 「生命としての連鎖」に関与する欲求とは、おそらく「性的欲求」のことでしょう。「他者との交わりを求める」欲求とは、「親和欲求」または「承認欲求」のことと考えられます。マズロー欲求段階説を持ち出すまでもなく、これらは互いに異なる欲求概念です。素朴な疑問氏は、全く異なる複数の欲求を一緒くたに扱ってしまっていることになるわけです。

 「恋愛感情」を「普遍」なものとして扱う議論のおかしさは、複数の心理的・情動的要素が複雑に絡み合って成立している「恋愛感情」を、「ただ一つの感情ないし情動」と見なすところから始まっています。
 もちろん、先程挙げた「性的欲求」「親和欲求」「承認欲求」といったそれぞれの欲求は、互いに強く影響を及ぼし合っているはずです。「恋愛感情」においては特にそうでしょう。しかしながら、いくら深い関係を持っているからといって、異なるものを一つのものとして扱うべきではありません。

 ここまで述べれば、「恋愛感情」が「普遍的」でない理由は明らかでしょう。仮に「性的欲求」や「承認欲求」といった個々の欲求が「普遍的」であるとしても、それらが重なり合って成立する「恋愛感情」は最早「普遍的」とは言えない、ということです。私達は、こうした複数の欲求の重なり合いの一定のありがちなパターンを以って「恋愛感情」と称しているわけなんですね。それ故に、「恋愛感情」の内実はその時代の「恋愛文化」に大きく左右されます。
 「近代的恋愛」という概念が成立するのもこうした理由です。社会体制が大きく異なれば性のコミュニケーションの形も変貌しますし、「恋愛感情」とみなされる欲求の組み合わせの構造も、それに伴って変化を余儀なくされるわけです。

 「恋愛普遍主義」は単に誤っているというだけでなく、セクシュアルマイノリティや「恋愛に合わない人」に対する差別の温床となります。素朴な疑問氏は「そうした人達を排除する意図はない」という旨の予防線を張っておられますが、私はこれに懐疑的にならざるを得ません。「恋愛」を「普遍」なものとして扱うことで、結果的に「偶然できあがった恋愛文化」の押し付けに繋がったり、「恋愛」の中に内在する問題を追認してしまう事態はこれまでも起こってきたし、これからも起こり得るからです。


(3/9追記
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