「萌え」と「恋愛」それぞれの嘘

 久々に恋愛についてのお話です。
 今回は宮台真司氏のこちらの記事について。

生身の人間関係には全体性があるの。たとえば性格や振る舞いにも肯定面と否定面とが表裏一体あって、それらが合わさって人格になってる。人間関係もそうで、不愉快なもの、不幸なもの…全てを含めて初めて現実のドラマが成り立つ。悲劇がドラマの不可欠の部品だと理解することが、全体性に開かれた態度なの。全体性を踏まえて理想を目指すのが本来あるべき形だよ。ところが萌えにおける恋愛は全体性と何のつながりもない。「理想のコならこんな僕でも認めてくれる」って、現実にあり得ない「承認幻想」なの。

 宮台氏の議論は非モテ界隈ではよくある「脱オタのすすめ」の一種であり、「萌えに逃避せずに現実(の恋愛)と向き合え」という論調です。「萌えに逃避している」と言われた側は当然反発するわけで、kagami氏のこの記事はこうした「反発」の分かりやすい例でしょう。

重要なのは現代日本社会はコミュニケーションが圧倒的に断片化されていて、
コミュニケーションにおける全体性なんてとうに喪失していることですね。
現実の人間社会におけるコミュニケーションが断片化されすぎているが
ゆえに、フィクショナリーな全体性の通じ合うコミュニケートの物語
(愛の物語)が人気を集める訳で、二次元萌えを単なる無条件承認の
断片化したものとして捉えることは、私は誤りではないかと思いますね。

本田透さんも「電波男」「萌える男」で書いていますけど、
二次元の女の子(男の子)の方が、現実よりもずっと陰影に富んだ、
全体的な人間性を感じさせる存在、ヒューマニティー豊かな存在として
描かれていて、だからこそ、二次元の方に魅力を感じる訳ですよ。
それを「断片的現実社会に戻れ」と云われても、誰も戻らないかと(^^;

 kagami氏は、生身の人間(ここでは女性)よりもフィクションの中の存在の方が「全体的な人間性を感じさせる、陰影に富んだ存在」であるとしています。「『萌え』とは自分に都合の良いだけの『お人形』ではないのだ」ということでしょう。しかし、これはある意味当然のことであり、宮台氏の論旨に対する反論になっていません。(宮台氏の「全体性」概念にも問題があるんですが、それについては後述します。)

 フィクション作品は基本的に「プロット」に従って構成されます。作中の出来事には因果関係があり、長編作品であれば因果関係をうまく形作るために「伏線」が張られます。そうした作品世界を成立させるためには、フィクションは「読者に都合のいいもの」ばかりを描いているわけにはいきません。優れているとされる物語ほど「読者に都合の悪いもの、不快なもの」も表現されるわけです。

 現実世界もフィクションと同様、それぞれの出来事に因果関係があると考えられます。しかし、ここで一つ、現実世界にはフィクション世界と大きく異なる点があります。それは、「現実世界では全ての因果関係を把握することは不可能である」という事実です。
 フィクション作品の読者は、描かれた全ての物語を追うことができます。しかし、現実に生きる人は、目の前に起こっていることしか把握できません。現実に起こる多くの出来事は、全く予想もつかないことが殆どです。現実世界はいつも偶発性に晒されています。

 kagami氏が「二次元の人物の方に全体性を感じる」理由はこれで明らかでしょう。フィクションの中の人物を、我々は明確な因果関係の中で捉えることが出来ます。そこには「不愉快なもの」はあっても「誰にも理解できないもの」は存在しません。現実の他者よりも、フィクションの中の人物の方が「統一された存在」に決まっています。

 宮台氏は「生身の人間関係の全体性」を持ち出す際、「肯定面と否定面」ではなく、「理解できる部分とできない部分」という対比を用いるべきだったと思います。「肯定面と否定面」が両面あるという意味では、フィクションの世界だって同じです。



 以上のことを踏まえれば、宮台氏の言説は「偶発性(=他者性)に開かれよ」と読み直すことができます。ここで私は「他者性に開かれよ」という命題自体を否定する気はありません。しかし、宮台氏が「他者性に開かれる」ために持ち出した手段が問題なんです。

ガンダムアムロの成長物語。他方、エヴァのラストは「こんな僕でもいいんだ」で、碇シンジには何の成長もないし、社会ともつながらない。唐突に自己承認を獲得するだけなの(自己承認の獲得を成長と呼ぶ言い方もあるけどね)。僕は憐れだと思うよ。「こんな僕でもいいんだ」って思った瞬間、試行錯誤に乗り出す必要は免除されちゃうから。生身のコとつきあうには「こんな僕じゃダメ」という修行が不可欠なのになあ。
ちょっと頭を切り換えりゃ生身の女のコと物欲ゲームじゃない別のゲームができるのに。具体的にはね、女のコは理解を求めてるから、理解してあげる力を持てばいいだけさ。理解する度量をつけるには、承認欲求を取り下げる必要がある。それができないから萌えが増えるの。とにかく昨今は、承認を求める男のコと、理解を求める女のコとの、ミスマッチ。男のコの幼児的な承認欲求は、成育環境を変えない限り、収まらないだろうな。

 問題なのは、「生身のコとつきあうには」という条件の付け方をしてしまっているところです。この言い方だと、「生身のコと付き合いたいと思わないなら、他者性に開かれてなくていいよ」ということになってしまうんですね。他者性を希求する動機が恋愛や性愛にしかない、という発想は危ういものに思えます。
 そもそも「他者性に開かれる」には「生身で恋愛せよ」というアドバイス自体も、どこまで適切か疑問なんですよ。詳しい話は以前に述べた通りですが、「恋愛という形式」自体が「偶発性を取り除く」ように機能するんですね。「生身の女に愛されてエッチ」することで「お互いの回路が開かれる」保障なんか全くないんです。

 「他者性に開かれる」ことを「性愛的コミュニケーションの成功」とワンセットで捉えている限り、宮台氏の批判は批判としての普遍性を失ってしまうんですよ。脱オタ論にありがちな袋小路ですが、この原因は言うまでもなく「性愛の自明視」にあります。「そんなことじゃ女の子と付き合えないよ」という「批判」はもはや当事者の耳に届きません。

 本当なら、「他者性に開かれること」そのものの必要性と快楽とを語るべきであり、性愛的コミュニケーションはその選択肢の一つに過ぎない、とすべきなのだと思います。それが難しいからといって、「女の子と付き合えるよ」という「エサ」をちらつかせるという論法は安易であるだけでなく、全く別の悪影響を生じさせかねません。性愛的コミュニケーションにそもそも「向いてない」人達、性愛が苦手・嫌いな人達を、無意味に追い詰めてしまう可能性だってあるんです。

 他者との深いコミュニケーションは恋愛・性愛に限るものではありません。フィクションの中の人物を「他者」として考えることは安易であり誤りですが、「他者」との関わりを「性愛」に限定してしまうことも、同じくらい安易で誤りなんです。