「オタク」のアイデンティティを巡って(2)
前回の続きです。
「オタクは死んだ」と宣言した岡田斗司夫氏は、「オタクは一般人とは違う、特別な存在でなければならない。そうしなくてはオタク文化は維持できない」と考えていました。今回はこうした考え方がなぜ生じたのかについて、もう少し煮詰めて考えてみましょう。
「おたく」が本来差別語であったことは前回も述べた通りです。「オタク」というカテゴライズはあくまで「差別の内面化」に過ぎないものであり、「オタク文化」が「特別な存在でなければ維持できない」ようなものであるというのは岡田氏の幻想に過ぎません。しかし、「そんな幻想がなぜ広く共有されていたのか」を考えることは重要だと思います。そもそも、岡田氏はなぜ「オタク文化」を「維持できない」と考えたのでしょうか?
これはやはり「アイデンティティ」を前提に考えなければ理解できません。岡田氏が「オタク文化を維持できない」と述べているのは、「オタク文化」が文化として衰退しているという意味ではなく、「一般化・大衆化してしまい、我々(オタク)のアイデンティティの受け皿として機能しなくなる」という意味なんですね。彼が「オタク文化は死んだ」と言わず「オタクは死んだ」と言ったのは正確です。大衆化したオタク文化は、今やオタク達のアイデンティティを支えることはできないんです。
これは、戦後に起こった「大学の大衆化」「学問の大衆化」現象とよく似ています。誰もが学問をするチャンスを得れば、それまで学問をしていた人達の「我々は学問エリートとして一般大衆を啓蒙するのだ」といった使命感は崩壊します。しかし、これによって学問そのものが崩壊するわけではありません。
岡田氏言うところの「オタクの死」はこれと同じなんです。「ある種の普遍性を希求する崇高なオタク文化」と「それにコミットできる選ばれた私」というのをアイデンティティの拠り所とする人達は路頭に迷うかもしれませんが、そうでない人達、おそらくオタク文化に関わる人達の大半にとっては、そんなものは関係のないお話です。
「一般化してしまったら文化を維持できない」という考え方は、「たまたまその文化にコミットしている人」が「それをアイデンティティの拠り所にしたい」時に都合の良い発想です。例えば、 「我々は日本人であるための誇りを保つために、日本独自の文化を継承・維持していくべきだ」 という文の、「日本」を「オタク」に置き換えればそっくり岡田氏の言説になります。オタクの一部が右翼思想と親和性が高かったりするのはこのためで、彼らは根本的に「自己のアイデンティティを自分一人で維持できない」人達です。
ここまでくれば、岡田氏の言う「貴族→エリート→アイデンティティ」の「流れ」が、正確でないことがお分かり戴けるでしょう。「オタク」は最初からアイデンティティの問題だったのであり、最近になって「オタク=アイデンティティ」という捉え方が浮上したのではありません。
ここで、前回さらっと流したもう一つの部分について見ていきます。というのは「オタク女性」の扱いについてです。再びゾゾミ氏のレポートを引用しましょう。
「男オタクと女オタクは相互理解なんかできない」というのは、以前に取り上げた本田透氏の言説と同じです。引用部の最後の行の(男は「趣味の問題」と思っている。)というのは先にも指摘したように誤りで、「男オタク」が自らのアイデンティティの問題を自覚していなかっただけの話なんですが、こうして「女オタク」を排除していることから、ある重要な事実が分かります。岡田氏言うところの「貴族的・エリート的」なオタクは、女性を排除してアイデンティティを確立させてきた、という事実です。
ということはつまり、オタクとはセクシャルアイデンティティの問題に他ならないんです。岡田氏のような「オタク」達は、女性を排除することで自らの不安なセクシャルアイデンティティを維持しようとしてきた、という推論が容易に成り立ちます。このことは、「オタク」から「非モテ」に繋がる連結点でもあります。
本田透氏が自身の萌え論から「女オタク」や「腐女子」を排除したのは、それを許容すると「オタクとしてのアイデンティファイ」が不可能になってしまうからに他なりません。「男オタク」の世界がホモソーシャル的に見えるのはこのせいでしょう。「男としてのアイデンティティ」に不安を持つ彼らは、現実の男社会でのホモソーシャルから弾き出されながらも、何とかアイデンティティを維持するために別のホモソーシャルを形成せざるを得なかったわけです。
彼らが自らのアイデンティティの根拠としてオタク趣味を用いるのは、そうした媒介がなければ自身のアイデンティティの揺らぎを直視しなくてはならないからではないか、と私は思っています。そのためには、オタク趣味は自分達だけの文化でなければ困る。「みんなのもの」になってしまえば、オタク趣味はアイデンティティの受け皿になれないからです。
「オタクは死んだ」と宣言した岡田斗司夫氏は、「オタクは一般人とは違う、特別な存在でなければならない。そうしなくてはオタク文化は維持できない」と考えていました。今回はこうした考え方がなぜ生じたのかについて、もう少し煮詰めて考えてみましょう。
「おたく」が本来差別語であったことは前回も述べた通りです。「オタク」というカテゴライズはあくまで「差別の内面化」に過ぎないものであり、「オタク文化」が「特別な存在でなければ維持できない」ようなものであるというのは岡田氏の幻想に過ぎません。しかし、「そんな幻想がなぜ広く共有されていたのか」を考えることは重要だと思います。そもそも、岡田氏はなぜ「オタク文化」を「維持できない」と考えたのでしょうか?
これはやはり「アイデンティティ」を前提に考えなければ理解できません。岡田氏が「オタク文化を維持できない」と述べているのは、「オタク文化」が文化として衰退しているという意味ではなく、「一般化・大衆化してしまい、我々(オタク)のアイデンティティの受け皿として機能しなくなる」という意味なんですね。彼が「オタク文化は死んだ」と言わず「オタクは死んだ」と言ったのは正確です。大衆化したオタク文化は、今やオタク達のアイデンティティを支えることはできないんです。
これは、戦後に起こった「大学の大衆化」「学問の大衆化」現象とよく似ています。誰もが学問をするチャンスを得れば、それまで学問をしていた人達の「我々は学問エリートとして一般大衆を啓蒙するのだ」といった使命感は崩壊します。しかし、これによって学問そのものが崩壊するわけではありません。
岡田氏言うところの「オタクの死」はこれと同じなんです。「ある種の普遍性を希求する崇高なオタク文化」と「それにコミットできる選ばれた私」というのをアイデンティティの拠り所とする人達は路頭に迷うかもしれませんが、そうでない人達、おそらくオタク文化に関わる人達の大半にとっては、そんなものは関係のないお話です。
「一般化してしまったら文化を維持できない」という考え方は、「たまたまその文化にコミットしている人」が「それをアイデンティティの拠り所にしたい」時に都合の良い発想です。例えば、 「我々は日本人であるための誇りを保つために、日本独自の文化を継承・維持していくべきだ」 という文の、「日本」を「オタク」に置き換えればそっくり岡田氏の言説になります。オタクの一部が右翼思想と親和性が高かったりするのはこのためで、彼らは根本的に「自己のアイデンティティを自分一人で維持できない」人達です。
ここまでくれば、岡田氏の言う「貴族→エリート→アイデンティティ」の「流れ」が、正確でないことがお分かり戴けるでしょう。「オタク」は最初からアイデンティティの問題だったのであり、最近になって「オタク=アイデンティティ」という捉え方が浮上したのではありません。
ここで、前回さらっと流したもう一つの部分について見ていきます。というのは「オタク女性」の扱いについてです。再びゾゾミ氏のレポートを引用しましょう。
オタクブームや「電車男」ブームで、オタク人口が爆発的に増えた。
男オタクと女オタクは相互理解なんかできません。それは僕らが男だから分からないんじゃない。
なぜ女オタクから「岡田斗司夫」が出てこないのか。
「男オタクと女オタクは相互理解なんかできない」というのは、以前に取り上げた本田透氏の言説と同じです。引用部の最後の行の(男は「趣味の問題」と思っている。)というのは先にも指摘したように誤りで、「男オタク」が自らのアイデンティティの問題を自覚していなかっただけの話なんですが、こうして「女オタク」を排除していることから、ある重要な事実が分かります。岡田氏言うところの「貴族的・エリート的」なオタクは、女性を排除してアイデンティティを確立させてきた、という事実です。
ということはつまり、オタクとはセクシャルアイデンティティの問題に他ならないんです。岡田氏のような「オタク」達は、女性を排除することで自らの不安なセクシャルアイデンティティを維持しようとしてきた、という推論が容易に成り立ちます。このことは、「オタク」から「非モテ」に繋がる連結点でもあります。
本田透氏が自身の萌え論から「女オタク」や「腐女子」を排除したのは、それを許容すると「オタクとしてのアイデンティファイ」が不可能になってしまうからに他なりません。「男オタク」の世界がホモソーシャル的に見えるのはこのせいでしょう。「男としてのアイデンティティ」に不安を持つ彼らは、現実の男社会でのホモソーシャルから弾き出されながらも、何とかアイデンティティを維持するために別のホモソーシャルを形成せざるを得なかったわけです。
彼らが自らのアイデンティティの根拠としてオタク趣味を用いるのは、そうした媒介がなければ自身のアイデンティティの揺らぎを直視しなくてはならないからではないか、と私は思っています。そのためには、オタク趣味は自分達だけの文化でなければ困る。「みんなのもの」になってしまえば、オタク趣味はアイデンティティの受け皿になれないからです。