中絶が「女性の権利」である理由

 今回は久々にLeiermann氏のこちらの記事より引用。

 そして、中絶が紛れもなく子殺しであり、最悪の児童虐待であることは知っておくべきだ。無論、出産が母子いずれかに生命の危険を伴うといった場合、あるいは性犯罪などによって妊娠させられた場合、出産しても子供を育てられる可能性がない場合などはある程度中絶も仕方がないかもしれないし、これを子殺しと呼ぶのは酷だろう。実際現行法では、これらの要件のみに限って中絶を認めているのである。

 だが、現実には、年間出生数が百万前後で推移しているのに、中絶は統計に表れただけで数十万件も行われているのである。これはもはや大虐殺と言ってもよい。母体保護法の過剰な拡大解釈は、憲法だの教育基本法だのよりもはるかに由々しき問題ではないのだろうか!

 にもかかわらず、多くの「フェミニスト」達は「中絶は女性の権利」だなどと平然と主張する。正直、人格を疑ってしまう。男の「自分の子供を殺されない権利」が無視されているという問題だけではない。子供の権利はどこに行ったのだ、子供の権利は!

 Leiermann氏の本論は「子どもの権利」についてなんですが、上記部分で「中絶は女性の権利」という考え方を事実上否定してしまっています。確かに、「妊娠中の胎児も人間になる途上の存在なのだから、同様に人権を認められてしかるべきだ」という発想は成り立ちそうに思えますし、こうした発想に立てば当然「中絶は殺人である」という結論になります。少なくとも「子どもの権利と矛盾するではないか」というLeiermann氏の主張は、一見もっともであるように見えるでしょう。

 個人的な印象ですが、中絶問題は常に宗教(特にキリスト教との確執に晒されているにも関わらず、「中絶の正当性」についてきちんと述べた文章をあまり見かけません。そこで今回は、この「中絶は女性の権利」という主張がなぜ正当性を持ち得るのかについて、私見を述べてみたいと思います。



 中絶の正当化言説としてよく使われると思われるのは「人間の定義」です。出産が完了するまで胎児は人間とみなさず、出産を経て初めて人間として扱われる(人権が発生する)という考え方です。この考え方にはある程度の妥当性はあると個人的には思いますし、日本国内の法律は基本的にこの定義を基準としています。
 しかしながら、「出産」という線引きがどこまでも「恣意的な線引き」でしかない、という批判は簡単には免れないでしょう。日本の法律でも、妊娠12週目以降の中絶術の際には「死産届」を提出することになっています。つまり、胎児といえどある程度成長すれば、ある程度は人間としての扱いをせざるを得なくなるわけです。

 「産声を上げるまでは人間ではない」という論理だけでは、「中絶の権利」について半分のことしか言っておりません。もう半分を構成するのが「身体の自由」という概念です。

 人権概念のもとでは、人間は皆、自分達の所有物を他者に侵害されない権利を有しており、これが自由権の基礎になっています。人間の所有物として最も基本的なものは、自分自身の身体に他なりません。「身体の自由」とは、「自分の身体は、自分の意思に反して扱われない」ということです。殺人や傷害が悪とされるのは、もちろんこの「身体の自由」を侵害する行為だからです。
 仮に、子宮内の胎児が人間と同様の人権を有していると仮定しましょう。妊娠中絶をしようとしている状態は、妊婦側の「自分の身体を自分のものとして扱う権利」と、胎児側の「自分の生命・身体を侵されない権利」、すなわち両者の「身体の自由」がぶつかった状態として考えられます。そうすると、中絶という行為は「自分の身体(ひいては人生や実存)を他者(胎児)から守る」ための「防衛行為」として捉えることができます。これを否定すれば、妊娠した女性は「身体の自由」の権利、すなわち自分の身体をどうするかを自己決定する権利を、失ったことになるでしょう。

 このことは、そもそも自由権というものがどのような経緯で成立したのかを考えれば、よりはっきりします。「自分の所有物を侵害する者」を先ほどは漠然と「他者」と称しましたが、「人々の所有物を侵害」する最も重要で強大な他者とは、すなわち国家に他なりません。
 すなわち、中絶を禁止することで妊娠した女性の「身体の自由」(ここでは「選択権」とほぼ同義)を侵害するのは、国家そのものです。これが単なる比喩でないことは、中絶が禁止されている国で望まない妊娠をした女性がどうなるかについて少し考えれば、すぐに了解されるでしょう。ピンとこない人は、macska氏のこちらの記事をよく読んでみてください。

 この意味で、「中絶の権利」は決して「新しい人権」ではありません。人権に関する最も原初的な論理によって構成される人権なんです。

(「中絶の権利」は必ずしも「身体の自由」という言葉で正当化されているわけではなく、例えばアメリカでは「プライバシー権」がその根拠となっています。しかし、「プライバシー権」も「法のデュー・プロセスなしに自由を奪うことの禁止」という憲法の条文に基づいており、自由権の一部とみなすことができます。)



 さて、そうは言ったものの、Leiermann氏も、中絶反対を唱えている数多くの人達も、おそらくは納得しないでしょう。「自ら性交渉を行った以上、いくら望まない妊娠と言ったところで自己責任ではないか」と彼らは考えるであろうからです。しかしながら、これはあくまで個人的倫理の範疇の話でしかなく、こうした論理でもって「中絶の権利」を否定することはできません。

 件のLeiermann氏の記事から、氏自身のコメントを引用します。

ただ、安易な性行為を「子供」に限らず慎むべき、という考えには賛成です。所詮、いかに避妊したところで性行為とは子供を作る行為であるわけで、子供の誕生を喜べる準備ができていないのならば――あるいは最低限、受け入れる覚悟ができていないならば――すべきことではないでしょう。「愛」の証として、強迫的にこの種の行為を迫られる昨今の風潮は馬鹿げているとしか言いようがないし、多くの子供を犠牲にして大人が快楽を貪っている恐るべき時代としか言いようがありません。

 私個人のことに限って言えば、私はLeiermann氏とほぼ同じスタンスだと思います。私自身は「自分が女性を妊娠させること」を受容できないので、女性と性交渉を持つまいと思っています。しかし当然ながら、これはあくまでも私の個人的倫理に過ぎず、私以外の人間に適用すべきことではないわけです。


 ただし、『「愛」の証として、強迫的にこの種の行為を迫られる昨今の風潮』については話は別です。恋愛において性交渉が当然とみなされた場合、性的自由権が不当に侵害される可能性があるからです。これについては、今回の話と関連はあるものの別の話題なので、また別の機会に論じてみたいと思います。