中絶が「女性の権利」である理由(2)

 私の前回の記事と前後して、海燕氏のところでも中絶について取り上げておられるようです。海燕氏の方の議論の展開にもおおいに興味はあるのですが、こちらはこちらで引き続き論じていきましょう。

 さて、前回の記事に、Leiermann氏からコメント欄にて反論を戴きました。ちょっと長いので、適宜抜粋して引用させて戴きます。イカフライ氏の方は、もう少しお待ちください。)

丁寧なご批判ありがとうございました。
色々考えてみたのですが、正直なところどうしても最後の最後で納得がいかないという感が拭えません。具体的には、「自ら性交渉を行った以上、いくら望まない妊娠と言ったところで自己責任ではないか」という意見を「あくまで個人的倫理の範疇の話」であるとする根拠が見えてこないというところです。むしろそここそが、この問題の肝だと思うのですが。

もう少し具体的に言うと、「身体の自由」という概念を、中絶を正当化するのに用いることに問題があるように思うのです。例えば、出産後の子供のことを考えて下さい。実質的に、親の少なくとも一方は生活の多くの時間を子供に費やすことが強いられる状況は多く、むしろその義務を放棄すれば虐待になってしまいます。そしてこの問題に対し、育児休暇の充実という解決案は出てきても、出産後の育児をいつでもまかせられる託児所の充実という案が真面目に取り上げられることはあり得ないわけです。
育児から離れても、自分の身体を常に自由に動かす権利があるわけではありません。早い話、他人に暴力を振るう権利はありません。
即ち、自分の身体およびその支配下に帰属しているものは、全て自己の責任において処分できるという考えには限界があるのではないでしょうか。例えば電車やバスの運転手が迷惑な客を窓からつまみ出せばこれは殺人未遂でしょう。要するに身体の自由は他の自由や権利と同様、他者の自由や権利を侵害しない程度にしか認められないもので、「胎児は人間でない」という前提を持たなければ「身体の自由により中絶は権利」という結論は出ないと思うのです。

 まず、「身体の自由」はどこまで許容されるか、という問題ですね。確かに「身体の自由」といえども、無制限に認められているわけではありません。適正な法的手続きを踏めば、国家は犯罪の被疑者を逮捕・拘束し、また懲役を科す権限を有します。Leiermann氏の指摘されている通り、他者の人権を侵害するような「自由」は認められない、とするのが人権の基本的な考え方です。

 そこで、「身体の自由」をもう一度考え直してみましょう。自由権が所有の概念と密接に結びついていることは前回も述べた通りですが、所有の概念は単純に「所有しているもの」と「所有していないもの」のモノトーンではなく、その間には段階があります。同じ所有しているものでも「自分の所有する土地」と「自分の身体」では扱いが異なって当然です。その中で「身体」が最も重要なものの一つであることには、議論の余地はないでしょう。
 ここで、近代法において「拷問」が「残虐な刑罰」であるとして禁止されている、という事実を思い出してみてください。懲役刑も拷問も、同じく「身体の自由」を侵す刑罰ですが、後者の方がより人権的に問題であるとみなされます。物理的な意味の「身体」はそれだけ特別扱いされているわけです。これを侵すことのできる刑罰は、日本では絞首刑のみです。
 「身体そのもの」を侵される危険がある場合、時には殺人も許容されます。そうでなければ例えば「正当防衛」の論理は成り立ちません。よほどのことがない限り、「身体そのもの」を傷つけたり、作りかえたりする権限は国家にもないんです。

 では、ここでもう一度「中絶」に戻ってみましょう。

むしろ「身体の自由」は、直接的間接的に性行為を強いられないという時点で用いられるべき概念なのではないでしょうか?この時点においては、個人の「身体の自由」が他者の自由を侵害する懸念はありません。それゆえ、性暴力の結果の妊娠を中絶することを禁止することは難しいでしょう。
そして、性行為は「身体の自由」たる各人の意志によってのみ行われるべきとした時点で、論理的帰結として、性行為の結果に個人は責任を持たねばならないということが導かれます。従って、「責任を持って受け入れろ」という理屈が「言語道断」であると言い切ることは難しいように思います。

 Leiermann氏の論理は一見正しそうに見えますが、一つ大きな落とし穴があります。それは、「責任を持って(妊娠という結果を)受け入れろ」という定言命令がなされるとき、誰が責任を問うているのか?という問題です。責任を問う主体とは、言うまでもなく国家です。
 国家が「責任を持って受け入れろ」と命令することによって、妊娠した人は「身体そのもの」への不自由を科されることになってしまいます。彼女は一体何の責任を負わされたのでしょうか? それはもちろん「性行為」への責任です。性行為をしたために、妊娠し、国家によって「身体の不自由」を科されたのですから!

 Leiermann氏の「性行為責任論」の何が問題なのか、勘のいい方はもうお分かりでしょう。性行為に対して不当に大きな「責任」を科すことによって、逆に性的自由そのものを国家が抑圧することになってしまうんですよ。



 前回も述べましたが、私が言っているのはあくまで「中絶の権利」についてであり、それ以外の側面についてはまた別の話です。中絶によって大きな罪悪感や心的外傷を抱える女性は数多く存在しますし、中絶が法的に正当だからと言ってそれが変わるわけではないでしょう。
 私が前回、個人的倫理と権利の正当性とは峻別すべきであるとした理由もここにあります。「法」と「道徳」とはイコールではないし、イコールであってはならないんです。

 性行為が無責任なものであってよいとは、私は全く思っていません。むしろ、性行為によって生ずる結果に対し、どのように考え、どのように対応(response)すべきかを自分で決める責任(responsibility)を誰もが持っていると言えます。女性に対し「妊娠したら出産すべき」という「不自由」を科すことは、むしろ本来の「責任」とは相反することではないでしょうか?