「愛」という名の性的搾取

 前々回の記事でのイカフライ氏のコメントへの返信記事です。

あと、もうひとつ。

>『「愛」の証として、強迫的にこの種の行為を迫られる昨今の風潮』

 うーん、これって良く解りません、「脅迫的に迫られる」
 あくまで自分の経験に過ぎないのですが、好きな人とは抱きたい、抱かれたい、って、自然に湧いてくる気持ちじゃないんですか?
いや、勿論、愛が無くてもセックスなんていくらでも出来ます。実際、昔は親が決めた結婚なんていくらでもあるし、今だって国によってはそうです。
 欲望だけでも出来るでしょうし、セックスをお仕事にすることだってあります。
 ただ、「したい」という気持ちは、「家のために子供を作らねば成らない」というような社会的強要とは違うもののように思えるんですが。
 まあ、もしかしたら、その、特に若き日に「好きだからしたい」と思う感情が、本能に根ざした繁殖システムなのかも知れませんけれど。

 「愛があればセックスするのが自然」と思っている人は少なくないし、保守的な性道徳に対するアンチテーゼのつもりでこのことを強調する人も居るかもしれません。しかし、このような「愛」と「セックス」を安易に結びつける捉え方は、大きな問題を含んでいるんです。

 このことを説明するため、まずは以前の記事を再掲します。

 通常、人間は誰でもとは性交渉を持たず、特定の限られた相手としか性行為を行いません。「何故そうなのか」はひとまず置くとして、この事実が、他の類人猿と異なる人間独自の性文化を作り上げてきました。性行為の相手を限定することで、性交渉は人間にとって、特別に親密な関係を意味することになったんです。(売春がタブーとされるのは、この原則に逆らっているからです。)

 ここでごく単純に考えれば、「性交渉の相手を見つければ、それだけで特別な承認が得られる」ということになります。しかし現実には、誰でもいいから性交渉に誘えばいいわけではありません。それでは「特別な存在」にはなれないんです。ではどうすればいいか? 性交渉を結ぶにあたって、「私はあなたをかけがえのない存在として認めますよ」ということを何らかの形で示さなければならないんです。

 これが「恋愛」という形式の正体です。
 すなわち「恋愛」という形式は、「自分は相手にとって特別な存在である」ということを確認するため、ただそれだけのためにあるんです。

 性交渉が人間にとって「特別に親密な関係」を意味するために、性交渉は「相互承認状態」を確認するための手段の一つとして機能します。これがLeiermann氏の言う「愛の証」という意味です。恋愛においては、性交渉やその他の性的行為によって「相互承認状態にある=愛し愛されていること」を確認しているわけです。

 もちろん、「相互承認状態を確認する」手段が性的行為である必要はありません。性欲の大きさは人によって大きく異なりますし、性的な行為そのものにも人によって向き不向きがあります。相互承認を得たい両者が、好きな確認手段をとればいいわけなんですね。

 ところが、「愛があればセックスするのが自然」という言葉を信じると、愛の確認手段は性行為に限定されてしまいます。「愛があるのにセックスしないのは不自然」という風に裏返してみれば、このことがよく分かるでしょう。これをさらに極端にすれば「愛しているならセックスしたいはずだ」「セックスに応じないのは愛していないからだ」に容易に転化します。
 相互承認状態を作ろうとしている両者がお互いに「セックスしたい」と思っている場合はいいんです。問題は、一方が相手に「愛して欲しいのならセックスに応じろ」と「承認」を餌にして性行為をさせようとする場合なんですよ。このように性行為を強迫的に迫ることは、一種の性的搾取だと言っていいでしょう。

 この種の「性的搾取」を行う人間は、承認欲求と性欲の区別を曖昧にすることで自らの行為を正当化します。特に、自己承認がまだ不充分な未成年は、このような性的搾取の対象にされやすいと言えます。「愛があればセックスするのが自然」という言葉は、こうした「性的搾取」の構造を後押ししてしまうんですよ。


 そもそも、どうしてこんな風潮があるのかと言えば、「愛があればセックスしてよい」「愛がなければセックスすべきでない」という具合に、「セックスの是非」を「『愛』の有無」で判断する考え方が蔓延しているからに他なりません。この手の考え方は、「愛」を何か特別なものとみなしている点で「恋愛至上主義」と同類項なんです。
 どうして「セックスの是非」を判断しようとするのでしょうか? それは、かつて「セックスの是非」が「結婚」を担保にして決められていた時代の名残なんです。「愛があればセックスしてよい」は「結婚すればセックスしてよい」を変形させたものに過ぎないんですよ。

 「愛」は何物をも保障しません。「愛」とはあくまで「相互承認状態」でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないんです。私達は「愛」に過剰な意味を付加することで、「愛」を「正当化の道具」にしてしまうんですね。