「権利」と「倫理」についての補足

 大変遅くなりましたが、中絶問題関連の話題の補足です。まずはjo_30氏のこちらの記事へのコメントから。

では「他者の人権」という概念の根拠は何でしょう。さらにさらにずるずると概念の連鎖を辿っていくとき、その先は「法」の範疇を越えるのではありませんか。先頃「どうして人を殺してはいけないの?」という話題がちょっとしたブームになった時、多くの解説者や世の人が当惑していたのは決して彼らが「他者の人権という概念から殺す勿かれが導き出しうる」ことを知らなかったからではないのではないかと思います。彼らが当惑していたのは、まさにその「ずるずる辿った先」が「法の領域を越える」ことにうっかり気付いてしまい、言葉を失ったからではないでしょうか。
その意味において、私は「『殺す勿かれ』の基盤はあくまで我々の倫理観である」という話を書いたわけです。たとえば我々と倫理観を共有しない人々が法を作れば、明らかに彼らの法は我々の社会のそれとは異なるものになりますよね。
もちろん、個々のケースで「法」が我々の個人的な(これは末端の一ケースの、というニュアンスで捉えて下さい)事例において自らの「倫理観」と一致しないことはあり得ます(その意味で道徳と法が峻別されるべきなのは仰る通りです)が、その場合でも我々に「すべし/する勿かれ」と命じている主体はやはり「国家」そのものではなく「我々自身の素朴な倫理観」でしょう、ということです。たとえ形式として「国家」が命じているように見えても。

 近代以前の倫理は、主に共同体(Gemeinschaft)の利益という観点から作られています。「自分一人よりもみんな(Gemeinschaft)のために行動する」ことが「道徳的」であるとされるわけです。このような倫理観を仮に「共同体倫理」と呼ぶことにしましょう。
 近代に入り人々の行動半径が広がっていくと、「共同体倫理」ではうまくいかない場合が生じてきます。「共同体のため」という理屈では、「別の共同体に属する人」との信頼関係を築くことが困難だからです。そこで、「他者が自分の生命・財産を侵害せず、嘘をついて騙そうとしない限り、自分も他者に対して同様の態度をとるべき」という倫理則が成立しました。ここではこれを「近代的倫理」と呼ぶことにします。

 こうした「倫理」は、実は「所有」という概念と不可分の関係にあります。共同体においては、所属する各人は究極的には共同体全体の共有物とみなされるため、「共有物」であるはずの「一個人の財産・身体」を好き勝手に処分することは許されないわけです。近代社会では各人の身体・財産は各人の所有に帰するため、自分のものは好き勝手に扱って良いが、他者の身体・財産に害を与えてはならない、ということになります。「環境倫理」などの話も同じで、「地球環境」は人間の所有物ではない、という発想が元になっています。

 人によって倫理観が様々に異なるのは、私達の「所有」に対する捉え方が少しずつ異なっているためです。これは、私達が倫理観を経験と学習によって獲得するためで、自他の「所有物」の境界線を明確に把握するには、実際の対他関係を経て経験的に理解するより他ないんですね。
 ということは、対他関係の経験が少なかったり偏っていれば、まともな(通常期待されるような)倫理観が身につかない可能性もある、ということです。この意味では、「倫理が通じない人間もいる」というsubscriber氏の指摘は正しいでしょう。



 さて、「人権」も「所有」概念を元にしているという意味では「倫理」と同様です。「人権」においては、個々人の身体・精神・財産は個々人の所有に帰するとされており、これは近代的な所有概念だと言えます。これらを保障することで初めて個人の「自由」が保障されるわけです。

 「権利」と「倫理」の違いはその内容にあるのではなく、社会的機能にあります。私達が「倫理」を身につけなくてはならないのは、それがなければ他者との間に信頼関係を築くことが困難だからです。
 逆に言うと、「倫理」を守ることで保障されるものは信頼関係であり、「倫理」に反することで壊されるものもやはり信頼関係である、ということになります。「法」が「倫理」とイコールであった時代には、「人々から信頼を失うこと」が即、社会的な死(場合によっては文字通りの死)を意味しました。

 「法的権利」が「倫理」とは異なるものになったのは、このような理由によります。倫理をもとにした信頼関係の有無とは別のベースで「他者から危害を加えられた」かどうか、「他者に危害を加えた」かどうかを判定する必要があったんですね。近代以前にはこの基準を宗教的規範や慣習に求め、近代にはこれを「人権」に求めるようになったわけです。

 以上を踏まえれば、「中絶そのものの是非」という問題が「我々自身の素朴な倫理観」で判断するには馴染まない問題であることが理解できると思います。中絶自体において問題とすべきなのは「当事者女性の権利」と「胎児の権利」であって、当事者でない人と当事者との間の関係性などは「無関係な問題」でしかありません。
 倫理の範疇に入るのは、むしろ中絶に至るまでの過程でしょう。避妊を行わない性行為といった問題は、まさしく倫理(=当事者間の信頼関係)の問題です。中絶の倫理性についての議論がこうした方向へ向かうのは自然な流れだと思います。

 しかし、一旦こうした倫理の問題と権利の問題とを直結させてしまうと、「権利の問題を倫理的基準で計る」ことになってしまい、人権の概念そのものが無視されてしまいます。このような論じ方をしている人達には、「そもそも倫理とは何のためにあるのか」ということを、もう一度よく問い直してみて欲しいと思います。