「権利」と「倫理」についての補足(2)

 遅くなりましたが、前々回の続きです。コメント欄の議論の流れから、中絶論についてももう少し補足しておく必要があるかとも思っていたんですが、海燕氏のところでこれに関する論説が再開されたこともあり、これについてはちょっと保留にしておきます。というわけで、(元々の議論から少し脱線しますが)「倫理」についてもう少し語ってみようと思います。

 さて、まずは前々回の記事に対するjo_30氏とLeiermann氏のコメントを見てみましょう。

私の使う「倫理」という言葉は、おそらくcrowserpentさんが使っておられる言葉とはかなり違ったニュアンスを持っていると思います。私の使うそれは、趣味・性行や(あまり良い言葉ではありませんが)本能的性行・好み・信仰、という言葉に近い、「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル」という一般的意味の「倫理」であり、crowserpentさんのお使いの言葉は「共同体における人と人との関係を律する規範・原理・規則など」という意味なのでしょう。それは、たとえば私の話の前段が「人権を遡ったら所有にいきついて」という話のその先、さらにその先、について触れていることでおわかりいただけると思います。
(中略)
要するに、私もLeiermannさんも、crowseprpentさんが「個人的倫理としてはそうであっても、それを普遍的倫理とはできない」と仰っておられるまさにその部分において、「それは普遍化できるんじゃないですか」という話をしてるんじゃないかなあと思います。それを普遍化できない…と現代人は不当にも思いすぎているのではないでしょうか。
烏蛇さんは飽くまで、倫理則というのは時代・文化などの背景ごとに定まっているものだとお考えのようですが、私は違った考えを持っています。どこかには時代・文化を問わぬ普遍的な倫理原則というものがあるが、ただ人類はそこに到達したことはなく、従って時代・文化ごとに「近似」的な倫理則が定まっているだけではないか、と。つまり、倫理則が相対的であるとそもそも考えていないのです。
例えば、万人の最大幸福を実現できるような価値行動規範のようなものがもし存在するならば、これがいかなる「倫理則」よりも上位に来ることは、烏蛇さんの文脈からも明らかではないでしょうか。

 jo_30氏とLeiermann氏はいずれも、「普遍的な倫理」の確立を「個人的倫理」の中に見ておられます。これは一見正しそうに見えます。法や人権・国家制度といえども、国民の承認によって成立したものである以上、元を辿れば「個人的倫理」に帰結するはずだからです。
 しかし、このロジックには重大な見落としがあるんです。その見落としは「私達はなぜ『人権』という概念を必要としたのか?」を考えれば、おのずと明らかになります。

 順を追って説明しましょう。「万人の最大幸福を実現できるような価値行動規範」が仮にあるとすれば、「みんながそれぞれ最適な行動を採ればみんなが幸せになれるはず」ということになります。では、「最適な行動」をどうやって判断すればいいのでしょうか? それにはまず、「どのような状態が最適か」を判断しなければなりません。
 ここで言う「最適」はもちろん、自己と他者の両方についてのものでなくてはなりません。これを判断するにはまず「この行動を採ると、どのような結果が導かれるか」を正確に予想しなくてはならないはずです。そのためには、現在の自己と他者の状態をも正確に把握しなければなりません。人間の頭脳の容量と感覚器官の機能が有限である限り、そんなことは不可能です。

 つまり、Leiermann氏の言われるような「普遍的な倫理原則」は、人間の能力が有限である限り不可能なんです。私達は他者の意志や欲望を容易に見誤りますし、様々な側面で現実を誤って把握しています。そして、人間関係における倫理的問題の多くが、こうした私達自身の無知や鈍感さによって引き起こされている以上、どんなに精緻な倫理則を構築しようとも「最適な行動」など実現しないんです。

 ここから直ちに導かれることは、「倫理もまた能力の一つである」という事実です。前々回も述べたことですが、倫理は何らかの人間関係の中で初めて作られます。人間関係の多様性や複雑性への理解を経験によって養っていかなければ、倫理的態度は身につきません。倫理則に従うことや倫理的態度を貫くことは、論理的思考力や芸術的感性などと同じく、適性や鍛錬の要求される人間的能力なんですよ。
 普遍的に通用する倫理的原則が存在しないのは、人類がたまたまそこに達していないのではなく、永久に私達はそこに達することが出来ないんです。私達が未来を知ることができないという現実は、未来永劫変わりません。

 よく考えてみてください。私達が常に最適な行動を採り、他者に迷惑をかけることがなくて済むのなら、国家や法は存在しなくていいはずです。私達は必ず間違いをおかしますし、いけないと思いつつ非倫理的な行動を採ることもあります。そうした場合に、「倫理」とは異なる判断基準が必要になってくるわけです。「人権」とはつまりそのようなものであり、私達人間が完璧とは程遠いからこそ必要な概念なんです。

 人権を倫理に帰結させてはならないのは、以上のような理由です。人権は行動の規範を与えてはくれませんが、他者や国家権力(国家を動かしている人間もまた、間違いをおかす不完全な存在です)による侵害を防ぐために必要な概念だと言えるでしょう。人権という概念をもとにして例えば「国民」と「国家」は対等に対峙することができ、「国家」は他者としての「国民」を尊重せざるを得なくなります。

 個人的倫理を普遍に広げてはならないのは、私達が他者を完全に理解することは不可能であり、その結果として、私達の感覚・感情がどこまでも個人的なものに留まるからです。個人的な感覚のみに振り回されないためには、他者との関係性を築く経験を積み、信頼関係を維持するための倫理観を身につけなければなりません。そして、それは最早「普遍的」では有り得ないんです。