ジェンダーを論ずる理由は?

 中絶をめぐる議論がもう少し残ってますが、その前にちょっと別の話を。引用はシロクマ氏のこちらの記事より。

 なぜ、彼ら彼女らはジェンダーに拘って白熱した議論を続けていられるのだろうか?佳い女だったら何でもいいじゃんと思う私にとって、一見すると彼らの行動選択は不可思議で非生産的なものにみえる。“そんな議論に心血を注いでいる暇があったら、もっと異性の魅力を追いかけ回せばいいのに”とか、“女の魅力からジェンダーを除去して、何が面白いんだろ?素直に欲情してイカれちまえばいいじゃん”とか考えてしまう。ジェンダーを議論したところで印税が入ってくるわけでもないのに、異性への恋慕がよりドラマチックになるわけでもないのに…不思議だ。

 シロクマ氏が「ジェンダーに拘って白熱した議論ができる」ことが理解できない理由は一見すると単純で、「シロクマ氏にとって興味を惹かれない話題だから」というだけの話に過ぎないように見えます。それだけなら話は簡単で、「あなたには興味ないかもしれないけど、私にとっては重要なことなんですよ」と言えば済む話なんですが、問題は以下のコメント欄です。

# kiya2014 『非モテの古典であるhttp://www.blog.net/nerds-jp.htmに書いてありますが、
「頭が良くなりたい」という欲望じゃないでしょうか、それは。』

# p_shirokuma 『>>kiyaさん
どういう類の「あたまがよくなりたい」かはともかく、何らかの「あたまがよくなりたい」に違いないことだけは間違いないような気がしました。

 「頭が良くなりたい」という動機が主なのであれば、何も対象がジェンダーである必要はありません。物理学でも経済学でも法学でも、「頭の良さを証明できる」ような学問であれば何でもいいはずです。つまり「頭が良くなりたい」をジェンダーを論ずる主な動機と考えるシロクマ氏は、ジェンダー論に切実な存在理由はない」と言っているに等しいんですね。そして、記事本文を読み返してみると、シロクマ氏が実際そのように見なしていることが伺えます。

 当然このような見方は、ジェンダーを切実な問題として捉えている人からすれば噴飯ものです(既にSaki氏watapoco氏からの批判があります)。しかし、これを言ってみてもシロクマ氏には「なぜジェンダーを論ずる切実な理由があるのか」はおそらく理解できないでしょう。なぜなら、シロクマ氏が「理解できない」のは、単に「ジェンダーに元々関心がないから」だけではない、それ以上の理由があるからです。

 その「理由」は、以下の部分に顕著に表れています。

 私自身の適応や欲求充足にとって重要なのは、ジェンダーがどうとかセクシャリティがどうという峻別ではない。ジェンダー由来かセクシャリティ由来かに関わらず、あるいは拘束か自由かといった命題に関わらず、ただ、目の前の異性が“異性らしく魅力的に映るかどうか”という問題だ。また逆に、意中の異性を射止めようと思った時(や、意中の異性と適切な関係を維持する時)には、自分自身が拘束されているかや自由かなどそっちのけで、男としてどう異性に魅力をディスプレイするのかだけが問われることになる。
 でも、どんな不思議なことにも理由なり原因なりがある筈だ。楽しい異性の魅力にぞっこんになるよりも、難しいタームを駆使してジェンダー議論をやってたほうが適応を促進したり快楽を促進したりする、実は身も蓋もない理由が隠れている筈だ。僕にはまだその理由がわからないけれど、彼らには彼らなりの事情があってわざわざジェンダーを云々しているんだろうな、とは類推しておこう。

 ここでは、シロクマ氏が「異性にアピールしたい」動機として、「意中の異性を射止めること」や「意中の異性との適切な関係の維持」が挙げられています。ここで注意すべきことは、行動の動機がいずれも「適応の促進」や「快楽の促進」といった正のものに限定して考えられていることです。
 ここには、「不快を避ける」「危険を回避する」といった負の行動動機が全く考えられていません。そのため、上の記述からは「葛藤」という概念が出てこないことになります。しかし、性的な関係を含む含まないに関わらず、「葛藤」を含まない交友関係というものはほとんど考えられません。つまり、上でシロクマ氏が述べているような性的関係のイメージというのは、それ自体きわめて非現実的なんです。

 現実の性的関係の中には、様々な負の行動動機が含まれ、関係性に影響を与えているはずです。例えばシロクマ氏は、「男性性というジェンダーに拘束されていても構わないから異性にアピールしたい」と述べていますが、これは氏が「男性性というジェンダー」に何の葛藤も持っていないためです。「男性性というジェンダー」それ自体に何らかの不快感や違和感を持っている人であれば、決してシロクマ氏のようには考えられないでしょう。
 シロクマ氏が「性的関係においてジェンダーを考える必要がない」と思えるのは「ジェンダーに関わる葛藤がなかったから」だけの話でしかありません。実際には性に関する何らかの葛藤を持っている人は少なくないわけで、そのような人達にとって、性をシロクマ氏のように単純に捉えるわけにはいかないんです。

 シロクマ氏がこのような現実認識を誤ったのは、人間の行動を「身も蓋もない理由」で考えようとしたからではないか、と思います。「実も蓋もない理由」とは言い換えれば「誰にでも簡単に理解できる理由」のことでしょう。つまり、人間の行動を単純な「正の行動動機」のみに還元できると見なすような還元主義的思考が、こうした誤謬を生じさせるわけです。



 さて、ここまで来れば、「ジェンダーを論ずる理由」を改めて問う必要はないと思います。例えば、自分自身や近しい人に何らかの「ジェンダーに関わる葛藤」を持っている人なら、「自分が悩んでいるジェンダーから一度距離を取って問い直してみたい」と考えるのは何も不思議なことではないでしょう。

 何度も問い直されていく中で、「ジェンダー」という概念は学問的に先鋭化されていきました。そのため、ジェンダーを論じる動機の中に「頭が良くなりたい」といったものが含まれることも有り得るでしょう。しかし、それはあくまでもジェンダー論が学問として成立した結果、派生した現象でしかありません。

 このあたりの話は「教養主義」「反教養主義」といった問題とも絡んでくるところなんですが… これについては、またの機会に。