他者性と「モノ」と「意味」の構造

 前回の記事に対してトラックバック戴いたMaybe-na氏への返答です。

 たとえば、引きこもりでも部屋のちょっとした隙間からシミやカマドウマが忍び込んできたり、差し入れられたトウモロコシを茹でようとして包葉をめくったら、にょろりとイモムシが出てきたりすることはあるでしょう。こうした偶発的な他者との遭遇は決して避けられません。そして、そういう「他者」に異常なほどの興味を持ってしまう子どもが将来おたくになるんですよ。私のことなんですが。
(中略)
 「他人」は、交渉次第では自分の言うことを聞いてくれることがあり得ます。でも、おたくが好きなのはモノなんですよ。モノって所有は出来ても言うことなんて聞いてくれないし、動かすにしてもいちいち自分で操作しなくちゃいけない。自分の思い通りになるのは、道具よりも自分自身よく訓練された人間だと思います。

 Maybe-na氏の「虫との遭遇」という例は、私自身も実感として理解できます。トウモロコシの葉のかげから現れたイモムシは、まさしく「偶発的に現れる他者」の姿そのものでしょう。
 しかし、ここで注意しなければならないことは「何が他者なのか」ではないんです。現実の世界は偶発性に満ちており、これを否定することは出来ないんですから、日常の中にやってくる「他者」を見つけるのはそう難しいことではありません。問題は、そうした「他者」に対して人間がどのように対応するか、という点にあります。

 そもそも、完全な偶発性の只中に置かれてしまうと、人間は現実に従った行動決定ができなくなります。人間が現実を参照しながら行動決定するには、偶発性の塊のような現実を「解釈」し、現実を意味的に捉える必要があるわけです。
 例えば、私達は交通事故に遭う確率をゼロにすることはできませんが、確率を減らすことならできます。「赤信号の時は車が停止している」ということを知っていれば、それに従って「道路を渡るか渡らないか」を決めることで事故に遭う可能性は減ります。

 現実の世界はこれよりもずっと複雑ですが、私達はこのようにして「世界を意味的に理解」することで行動決定をしています。言うなれば、世界が「偶発性の塊」であるからこそ、世界を「意味の連関」として捉える必要があるんですね。

 ここで「モノ」と「他人」の差異を改めて考えてみましょう。「モノ」は確かに「言うことを聞いてくれない」存在ですが、その代わり「自分に影響を及ぼしてくる」わけでもありません(例外もありますが)。自分で操作すればその通りに動いてくれる場合も多いでしょう。それに対し「他人」は自分に影響を及ぼしてくる存在です。

 おたくは虫を標本箱に並べて、「等身大」の虫をただ虫として見ているだけです。そこに何か機能的な意味があるわけじゃないし、探しても見つからないから非おたくの人にとっては不気味かもしれません。ただし、この場合虫の都合は考えていません。つまり、他者を他者として見ることと都合を考えるというのは、そもそも無関係なんじゃないでしょうか?

 「標本箱に並べられた虫」に「機能的な意味」を問う必要はありません。そこに意味を被せようが被せまいが、それに対して反応が返ってくるわけではないからです。しかし「他人」はそれと違い、「どのように扱うか」によって返ってくる反応が変わってきます。
 私達が「他人に被せた『意味』」はしばしば、その人自身の反応によって否定されます。私達はその度に、一度他人に付与した「意味性」を書き換えなくてはなりません。この相互関係が成立して初めて、私達は「他者」を「他者」として受容できるのだと思います。(こうした相互関係は「自分と他人の関係」に限った話ではなく、例えば「自然科学における理論と実験の関係」においても見出すことが出来ます。)



 さて、これでようやく本論に入れます。Maybe-na氏の「オタク=フェティシズム説」について、これまでの話を踏まえつつ見ていきましょう。

 あと、自己愛とおたくの欲望は正反対のベクトルを向いていると思います。欲望を投影しようがしまいがモノのカタチは変わりません。だからおたくは、モノに過剰な意味を塗りたくったりしないと思うんですよ。そんなことしても本当に何にも起こらないんだから。
萌えおたくという生き物もまた、アニメ顔というモノをただモノとして愛好しているのではないのでしょうか? 私があずまんの「動物化=萌え記号論」にも鳥蛇さんの「萌え虚構論」にもいまいち納得できないのは、こういう理由です。
(中略)
おたくは本やモニターやフュギュアやラブドールといった具体的なモノをモノとして見て、モノに欲情する。そういうことなのではないでしょうか。

 本当にアニメオタクは「アニメ顔というモノをただモノとして愛好している」のでしょうか? とてもそうは思えません。この2chのスレッドのコピーを見れば、彼らが「絵」を「単なるモノとしての絵」として見てはいないことが分かると思います。アニメオタク達が「単なるモノとしての絵」に萌える人達であれば、このスレッドがここまで共感を呼ぶことはなかったでしょう。
 また、オタクが「モノ」に「過剰な意味を付与しない」というのも誤りです。アニメオタク界隈の歴史を知っている人なら、「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメ作品にどれだけ多くの人が「過剰な意味」を塗りたくったか、よくご存知だと思います。

 「萌え」は「モノ」ではなく「物語」なのではないでしょうか? そう考えれば、これらの点をすんなり飲み込めます。少なくとも「萌えオタク」に関しては、Maybe-na氏のような「単にモノをモノとして見る」フェティシズムでは説明がつきません。
 「萌え」が「物語」すなわち意味の連関の集積であるならば、「萌え」は先程述べた意味で「閉じている」と言えます。Maybe-na氏自身も指摘しているように「萌え」は「他者の都合」を見ようとしませんから、「萌えの意味性」は他者からの否定によって変化する可能性がないからです。

では、ラブドールと人間の女性を区別しなくてもいいのか。もちろんそんなことはありません。他者性を持って両者を比べたとき、外見と機能にはそれほどの違いなんて無いのかもしれませんが、それでも区別しなくてはならない。何故なら人間は人間であるだけで人権があるからです。人権に実体なんてありません。虚構です。逆に言えば虚構こそが大切なわけです。おたくはこの人権という虚構を頼りに他人と対話すべきなんですよ。萌えが自閉しないためにも。

 「萌え」る人達が自閉しないためには「人権」という概念が必要である、というMaybe-na氏の主張には私も賛成ですが、それは「虚構こそが大切」だからではありません。「人権」概念は他者との距離を測るための道具であり、他者との間で「他者に合わせて意味を再生成する」相互作用を成立させるために必要なものの一つだからです。