「文化系女子論」と「萌え」の構造(2)

 前回の記事について、「萌え」という語そのものをめぐって議論が迷走しそうな感じがするので、改めてまとめておくことにします。
 私は、今回の「文化系女子論」をめぐる話で「萌え」という語が問題になったのは、以下のようなプロセスの結果だと考えています。

  1. 文化系女子」という概念が「ダ・ヴィンチ」等によって「男性視点からのものとして」流布された。
  2. ネット上で語られる「(男性から見た)文化系女子」像に反発した人達が、これを「萌え」という言葉を用いて表現し、批判した。
  3. 「萌え」という言葉に深くコミットする人達が、「萌え」という概念自体へのバッシングを危惧し、これに反発した。

 加野瀬氏吉田アミ氏などは「萌えバッシング」を危惧する立場に立っているように見受けられます。しかし、これはやや見当はずれの見方で、「萌え」という言葉が使われていなくとも「文化系女子論」への反発は起こったでしょう。前回述べたとおり、「ダ・ヴィンチ」発の「文化系女子論」への批判は、「文化系女子」という概念の内実が男性の性的な願望による架空のものであるにも関わらず、現実の女性をカテゴライズするものとして流布されたことが原因です。

 「萌え」は多義的な語ですが、私の前回の記事では「架空の存在に対する性的視線を含んだ愛着」という意味で使用しました。文化系女子論をめぐって「萌え」という語が出てきたのも、おそらくは同様の文脈からでしょう。つまり、「文化系女子」なるカテゴライズが一見現実の女性の層を指すものと見えながら、その実男性の性的な願望を写し出したものに過ぎないことから、この意味の「萌え」が使われ出すようになったのではないでしょうか? nil氏などは、「文化系女子」を最初から「架空の存在」であるとした上で論じています。

おいらは文化系女子萌えじゃないから、ユリイカだから萌えるのかどうかは知らん。しかし、萌えには現実なんてどーでもいい事です。現実の文化系女子ユリイカ読んでようが読んでいまいが、関係無いんですよ。きっとユリイカとか好きなんだろうな、という妄想を巡らす余地が多少でも残っていれば萌えなんです。逆に妄想の余地がなければ萌え対象にはならない。現在の非萌え代表はエビちゃん系ですが、これは彼女たちのモテ完全武装ゆえに妄想するスキが無いからではないでしょうか。
(中略)
萌えは現実歪曲フィールド、都合が良くて当然です。脳内妄想や本やTVの中にいれば十分なんです。というよりも、そもそも居ない、居ても物理的に手が届かない、自分の手の届く現実世界から隔絶されているからこその萌えなのではないでしょうか。萌えは恋愛とは違うのですから。

 少なくとも「ダ・ヴィンチ」及びそれに応じて広まった「文化系女子」概念に対しては、このような解釈をされても不思議はないと思います。加野瀬氏の言われているような「女性視点による文化系女子像」もあったのかもしれませんが、それらはこうした「男性の性的願望の写し絵としての文化系女子像」によって駆逐されたんでしょう。
 「ユリイカ」執筆者の人達は加野瀬氏の言うように「女性視点からの文化系女子」像を描こうとしていたのかもしれませんが、単にその試みは失敗であった、ということなのではないかと思います。
吉田アミ氏の指摘により、事実に反する記述のため削除)

 私がnil氏のような立場をとらなかったのは、ネット上に流布した「文化系女子」なる概念が、内実はnil氏の言うとおりの「願望の写し絵」であるにも関わらず、願望どおりの「文化系女子」があたかも実在するかのような広め方、受け取り方がされていたからです。チェックシート一つを取ってもそれは明らかで、現実の女性に対して向けられたものでなければ「チェックシート」など存在するはずがありません。
 要は、「文化系女子」が全く架空の概念として、現実の女性などとは別物として扱われていたなら何ら問題はなかったわけです。そうした意味では、「文化系女子」が問題になったのは「萌え」として扱われていなかったからである、と言ってもいいでしょう。そこまで分かれば、「文化系女子萌え」という表現を積極的に用いたのがこれを批判する側であったことにも頷けるのではないでしょうか?