「文化系女子論」と「萌え」の構造

 文化系女子論をめぐる論争については、当のMasao氏も謝罪したことだし、あまり余計なことは言わずに黙っておこうと思っていたんですが、kmizusawa氏に対するLeiermann氏の反論記事を読んで考えを改めました。
 文化系女子論をめぐる議論の流れについては、utsutsu氏がこちらこちらでまとめておられるので、初めて見る方は参考にしてみてください。

 Leiermann氏は一連の「文化系女子萌え」騒動に関して次のように述べています。

 正直な話私自身はこの件自体に関してはどうでもよく、「好みのタイプ」「理想の異性」という話は、深いところでは無意味であると考える立場だ。そのようなことをいくら妄想していても、実際に好きになってしまう相手はそういう「理想」とおおよそかけ離れた人であることが世の常だと思うからである。

 だから、このような話は所詮は与太話であり、ただの戯言と聞き流せばよいはずである。「好みの女性」を語られることが気にくわないならば、「好みの男性」を語って逆襲すればよい。それでお互い様である。

 にもかかわらず一部の人は、「メガネ男子」という「好みの男性」を語る言説は否定せずに、「文化系女子」という「好みの女性」を語る言説を激しく非難するのである。全く訳がわからぬ。

 このような主張は、議論の発端となったMasao氏もほぼ同様の立場なんですが、「文化系女子論」を「好みの女性を語る言説」であるとするところに既に一種のすり替えがあります。「文化系女子論」をLeiermann氏の言うような「好みの女性を語る言説」と捉えると、相対主義に陥って問題の核心を見失います。
 このことをはっきりさせるために、「文化系女子萌え」を他の「萌え対象」と比較しながら述べていきましょう。



 まず、「文化系女子」というカテゴリーの定義の中に既に問題が内包されています。それを見るには、SnowSwallow氏のこの記事を取り上げるのが適当でしょう。

 男性が文化系女子に憧れを抱くのは、彼女たちが恋愛に関して無気力・無感情なカラーにあるからだと思う。裏を返せば、彼女たちの個性は強いけど「純情そう」というイメージは、時に美徳となる。恋愛観や美意識に関しては全くの未完成で、未発達で、無垢で未熟な青い果実。

 その傷付きやすい木の実を手の平で撫でながら「真っ赤に熟んだ果実になるまで、僕が優しく丁寧に育ててあげるよ」的イメージの上に、文化系女子という価値があった。

 文化系女子論は、しばしば「ギャル系」や「モテ系」なるカテゴリと比較して「安易なモテ手法へと走らない」などという理由で「文化系女子」を称揚します。上の引用部分はこうした議論の深層を巧く突いています。「文化系女子萌え」とは、「文化系の趣味は『普通の』女性性に反する」という前提の上に成立し、それらの「逸脱者」を巧妙に「普通の女性性」の枠内へからめ取るためのものなんですね。「文化系女子萌え」の中には、「文化系の趣味」への理解など最初からありません。
 こうした幻想を抱かれる方の立場でみれば、単なる「自分の趣味」に過ぎないものを「純情さを演出する」ための指標としてしか見ないという態度に他なりません。自分の「文化系の趣味」に自負を持っている人なら「ふざけるな」と思ってもおかしくないでしょう。(分からない人は、「電車男」のヒットがなぜ独身男性板で拒絶されたのか、よく考えてみてください。)

 とはいえ、似たような構造を持ったカテゴライズなど掃いて捨てるほどあります。「ツンデレ」などはその最たるものと言っていいでしょう。しかしながら、「文化系女子論」は虚構を前提とした「ツンデレ」と違い、あくまで現実の女性をカテゴライズする概念として用いられました。このことが「文化系女子論」が「文化系の趣味」を持つ現実の女性を不快にさせた根本原因なんです。
 そもそも「萌え」とは「ツンデレ」にせよ「やおい」にせよ何にせよ、虚構を前提とした概念です。これらの萌えジャンルに関わっている人達のほとんどは「萌え」が「自分に都合よく加工された幻想」であることを自覚しており、「萌え」が現実の対象に大きな影響を与えないように常に気を配っています。「萌え」が現実の人間に向けられた場合、どんなに「愛」があろうと相手に不快感を与えざるを得ないことを彼らはよく知っています。

 「文化系女子萌え」を語る人達には、こうした「萌えの暴力性」への配慮が全くと言っていいほどありませんでした。彼らは何の屈託もなく「処女幻想」ならぬ「文化系女子幻想」を現実の女性に被せ、不快感を表明されれば「自分の好みを語って何が悪い!」と開き直ったわけです。

「萌え」って定義がよく分かんないんだけど、でも「性的な視線」が入ってることは間違いないですよね。しかも「やりたいなー」とかいう単刀直入な形ではなく、かなり迂遠な形で。

それから、二次元のものに対する愛着から発した言葉なんだから当たり前なんだけど、人に面と向かって使う言葉じゃないですよね。元々モノ(やアイドルなど手の届かない人)に言う言葉でしょう。

 watapoco氏のこの言葉は、「文化系女子萌え」の暴力性を的確に捉えていると思います。まさしく「萌え」は「人に面と向かって使う言葉じゃない」んです。

 Leiermann氏は件の記事で「ジェンダーの非対称性」を問題の中心と考えておられるようですが、以上述べたとおり、問題はそれ以前のところにあります。「文化系女子萌え」を語る人達が「人に面と向かって使わない」という「萌え」の最低限の礼儀を無視し、そこで生じる迷惑にも気づかないほどに鈍感であったことが、「文化系女子萌え」を「問題」化してしまった全ての原因なんです。



(5/15追記
 加野瀬氏から 「『ユリイカ』と『ダ・ヴィンチ』では文化系女子の意味合いが全然違う」 「非モテは『文化系女子萌え』とは言ってない」 との指摘が。

大きな違いとして、ユリイカでの「文化系女子」は女性側からの提案だったのが、ダ・ヴィンチは男性側の視点であることだ。ダ・ヴィンチ編集長にとっての文化系女子はなんと吉永小百合だという。だから、ダ・ヴィンチのチェックはそもそもが男性のドリーム視点。
(中略)
文化系女子」という造語が不幸だったのは、ダ・ヴィンチや『オタク女子研究』(ISBN:4562039922)でモテや恋愛の視点を持ち込まれてしまったこと。

 この指摘に関しては、「ユリイカ」の該当記事をチェックしていなかった私のミスでした。私の記事では「文化系女子」という言葉が全て男性視点によるものであるかのように読めてしまいます。この点については誤解を広めたという意味で、大変申し訳ありませんでした。

 しかし後者の指摘「『萌え』という言葉は元々使われていない」については、本質的な問題ではないと考えます。文化系女子をめぐる一連の議論の中で、「萌え」という語自体をめぐって一部で議論が迷走した観はありますが、そもそもの根本的な問題は「文化系女子を恋愛という視点でしか見ないこと」の方でしょう。誰も「『萌え』という言葉の使用」を問題にしているわけではないのですから、これは一種の論理のすり替えではないでしょうか?