「萌え」文化はミソジニーの発露なのか

 オタク文化、特に漫画・アニメオタクの人たちによる「萌え絵」の文化は、これまでもしばしばミソジニー(女性憎悪)、特に男性のミソジニーと結び付けて語られてきました。今回取り上げる墨東公安委員会氏の記事も、以前からよくある論旨の一つだと言えます。

 そして小生が指摘せずにはおられないのは、ダイクストラが『倒錯の偶像』であまた紹介した、19世紀のミソジニーを表象した絵画のような文化風潮に相当する存在として、現在の日本で比定されるべきは、まさしく「オタク」文化とされる、「萌え」的な表象なのではないかということです。現在のオタクの「フェミ」嫌い、強いものに傾く権威主義などが、それを感じさせるにはおられません。
(中略)  まとめて言えば、「萌え」好きな「オタク」の一般化・大衆化は、日本会議的な反動の風潮と軌を一にしているのではないか、というのが、幾つかの書物を読んで小生が考えていることなのであります。

 この主張が妥当か否かを考える前に、注意しなくてはならないことがあります。「○○はミソジニーを含んでいる」などと言及する場合、それが「○○を構成する要素・関わる人たちの一部にミソジニーが含まれる」という意味なのか、それとも「○○は本質的にミソジニー的なものである」と理解するか、によって話は全く変わってくるからです。

 これとよく似た問題が、BL(ボーイズラブ)ジャンルとホモフォビア(同性愛憎悪)との間にあります。BLにはホモフォビア的な描写がしばしば含まれる(あるいは、BL愛好家の人たちの中には同性愛者を蔑視する人たちが含まれる)、という批判は以前からなされてきました。この指摘が正しいとしても(実際、ある程度は正しいと思います)、「BLは本質的にホモフォビア的なものである」とか「BLはホモフォビアを原動力に発展したものだ」というような結論はここからは導かれません。
 また、同様に「科学者コミュニティの内部における女性差別」といった例も挙げられます。「科学者の間での女性差別・蔑視」や、「女性差別を背景にした科学理論」などはしばしば批判の対象となってきました。これもやはり、ここから「科学は本質的に女性差別的なものである」というような結論は導けません。

 女性差別ミソジニーホモフォビアといった現象は広く社会全体にみられるものであり、萌え文化などのコミュニティも社会の内部にある以上、これらの影響を受けてしまう、ということは言えるでしょう。「BLが同性愛表象を愛でるものだからといってホモフォビアと無縁とはいえない」という主張は妥当です。しかし、それを「BLは本質的にホモフォビア的なものだ」へと結び付けるのは論理の飛躍といえます。

 墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)で、これは先ほどの区分けでいえば前者です。しかし、氏はそれを「『萌え』が広がったのはミソジニー的風潮の反映である」という考察に繋げており、これは後者の主張といえるでしょう。ここには論理の飛躍があります。



 ただし、この「飛躍」は、ある前提を置くことで極めてスムーズに接続させることができます。それは、「萌え文化は現実の恋愛・性愛からの逃避により、その代替物として成立した」というものです。

 この主張は、墨東公安委員会氏も取り上げている喪男道の覚悟氏や、その思想的背景のひとつである本田透氏の著書『電波男』が理論の前提としているものです。現実の恋愛が「恋愛資本主義」に毒されて価値が失われ、純愛を求める男性はその代替を求めて「萌え」に向かった、という主張であり、この考え方では「現実の恋愛(あるいは現実の女性)」と「萌え文化」が対立関係ということになります。
 この対立関係を前提すれば、「社会のミソジニーの広がりによって、ミソジニーを根源とする『萌え』が広がった」という主張は当然の主張ということになるでしょう。逆にこれを前提しなければ、論理を飛躍させずに説明することは困難だと思います。

 この主張は、覚悟氏のような狭義のミソジニスト(女性憎悪を公言し、それが正義であると主張する人)にとって大変都合の良い考え方です。一方で、この主張は現実的に考えて多分に無理があります。「萌え」を楽しみながら現実でも恋愛あるいは結婚をしている人は大勢いますし、また、現実の恋愛・性愛を忌避する人が必ずしも「萌え」を愛好しているわけではありません。何よりこの理屈は「萌え文化」に関わる数多くのオタク女性の存在について、整合的な説明が難しい。先の本田透氏は、女性オタクについての記述自体を避けています。

 墨東公安委員会氏は、覚悟氏が「萌え的な表象がミソジニーの文化風潮を表している」と主張する書籍を評価していることについて、次のように述べています。

 「喪男道」の「覚悟」氏といえば、十年ばかり前にネットの一部界隈で流行っていた「非モテ論壇」最右翼の、ネット上のミソジニーの権化のような方として、その筋では名を轟かせておりました。しかしその女性嫌悪は氏自身の心をも蝕んでしまったのか、やがて氏はネット上の活動を休止され、その消息は分からないままです。
 そんなミソジニーの極北のような人が、知らずミソジニー批判の書である『倒錯の偶像』を自己の価値観に沿ったものとして受け入れている、これは何とまあ皮肉というか馬鹿げた光景であることよ、と小生は愕然というか憮然となったのでありました。

 しかし、先ほど述べた「論理の飛躍と接続」を考えれば、これは意外でもなんでもない、と私は思います。「萌えは本質的にミソジニー的なものだ」という主張は、覚悟氏のような人物にとって、自身の女性憎悪的な論理を補強してくれる「有利」な主張だからです。もっとも、「ミソジニー批判の(つもりの)言説が、かえってミソジニー的な主張を補強している」という意味では「皮肉」ではあるでしょう。

 女性憎悪的、あるいは女性差別・蔑視的な言説を批判すべきでないとは私は全く思いません。しかし、あるカテゴリー全般を女性差別的・蔑視的と決め付けることには(少なくとも)慎重であるべきだ、と考えます。なぜなら、そのような主張は女性差別的・蔑視的な論理を却って助長するものになりかねないからです。