「生物学的」という詐術

急遽はてなダイアリーを立ち上げてみました。以下はこちらの記事及びそのコメント欄への反論になります。

極論をすると、「その価値を安易に否定するとひどい副作用をともなうことがあるような性質の価値基準が存在する」ということさえはっきりすれば、それが生物学的要因によるかどうかは比較的どうでもいいんですね。別の原因から、そうなる、という結論でも、ぜんぜんかまわない。そこは比較的枝葉末節な部分なんですよ。

そうであるならば、何故それが「いかにも生物学に基づいて証明されていると誤読させるような」書き方をされるのでしょうか? これが問題なんですよ。
この記事の前提となっている前の記事を参照すると、「人間力と誠実さと知性を兼ね備えた男の方が、お洒落な男よりモテるように『人間の本能』は出来ているはずであり、それに反すると『ひどい副作用』を招く」(大意)と述べられています。これはどこをどう読んでも、生物学を論拠にしているようにしか読めません。
しかしながら、私がコメント欄で

生物学的に言われる本能行動とは「鍵刺激によってのみ反応する『走性』が複合したもの」であって、一定の刺激に対して一定の反応しかできないものです。「資源を確保する能力をもったオス」かどうかを「判定する」ような機能は「本能」にはありません。本能とは、環境に応じて行動を変化できるようなものではないんです。

と述べたとおり、そのような「人間の本能」は生物学的に考えれば存在しません。生物学が実は無関係である以上、fromdusktildawn氏は何の根拠も示さずに「この価値観を否定するとひどい副作用をともなう」と言い放っていることになるわけです。

さらにfromdusktildawn氏は「生物学的」という言葉を用いて、「共有価値基準」について以下のように述べています。

ところが、このゴマカシによって共有価値基準を解毒したつもりが、元の毒以上に毒性の強い副作用が生じることがあります。それは、その共有価値基準が、「主に生物学的なもの」から来ている場合です。
たとえば、病気より健康の方がいいし、肉体的にも精神的にも弱いより強い方がいいし、醜いより美しい方がいい。
貧乏より金持ちがいいし、頭が悪いより賢い方がいい。老いて腰が曲がっているより、若くて元気な方がいい。
そういうたぐいの価値基準です。

「病気より健康の方がいいし、肉体的にも精神的にも弱いより強い方がいい」といった価値基準が世界共通であることは誰の目にも明らかですし、その理由もほぼ自明といっていいでしょう。fromdusktildawn氏はこれらと「恋愛の相手の選び方の基準」とを同列に比べた上で、「生物学的見方」によって両者を強引に結び付けてしまっています。

これは(本当は何の関係もない)生物学を持ち出して議論を正当化しようとする、一種の詐術に他なりません。


fromdusktildawn氏の述べているような「副作用を伴う」場合というのは確かにあります。イスラエルの生活共同体「キブツ」はその一例で、ここでは子供は一箇所に集められて共同保育されます。当初は同キブツ内の男女が結婚してキブツを存続させていくことが期待されていたようですが、実際にはキブツ内での結婚はほとんど起こらず、結婚した場合も離婚することが多かったそうです。これは、子供達が皆兄弟のように育てられるため、幼少期から親密にしている相手とは恋愛感情が起こりにくいためなんですね(ウェスターマーク効果)。
以上は実例によって示されているものですが、「その価値を安易に否定するとひどい副作用をともなう」と言い切るには何らかの根拠が必要です。fromdusktildawn氏の論は、何の根拠もないものに「いかにも生物学的に根拠があるかのように」見せ掛けているという点が問題なんですよ。
アドルフ・ヒトラーにせよリー・クアン・ユーにせよ、彼らの問題は「生物学的なものを過大に評価しすぎた」ことにあるのではなく、「生物学的でもなんでもないものを『生物学的』であると主張した」ことにあります。生物学がイデオロギーの正当化に利用されやすいのは、今に始まったことじゃないですね。とはいえ、その殆どは高校レベルの知識さえあれば簡単に見破れる程度のものに過ぎないんですが。