「さみしさ」の恋愛至上主義

 昨日の続きというか、昨日の話を反対側から見たお話です。
 まずは私の前回の記事を受けてのまりねこ氏の返信記事より。

でも、いったん三次元で生身の男女として恋愛すると、相手によって自分の性的アイデンティティが支えられるんですよ。
「私って可愛くないでしょ?女の子っぽくないんじゃない?男の子みたい?」
と何回も問いかけて、そのたび、
「いや、僕にとって君は『女の子』以外の何でもなくて、だからこそ好きなんだし」
と真顔で当たり前のように答えられると、なんかだんだんに、心のどこかにあった疑問というかワダカマリがほどけていって、そうか、私、女の子として生きてるんだな、好かれてるんだなって、納得しちゃったわけですよ。女として生まれたこと、精神も肉体も含めて、その現実が受け入れられたというか。
(中略)
だって、漫画や小説のヒーローは、「私だけを」見つめてはくれないし。「私に」語りかけてもくれないし。「私を」抱きしめてもくれないし。そんな世界、私にはさみしい。さみしくてたまらない。

 まりねこ氏のように「生身の男女として恋愛すると、自分の性的アイデンティティが支えられる」かどうかはその人次第で、そうなる人も居ればならない人も居ます。このことは前回も述べた通りで、「恋愛」という形式への相性という問題が大きく関わってきます。
 今回は「恋愛という形式への相性」については触れず、代わりに「恋愛相手によって性的アイデンティティを支える」とはどういうことなのか、を少し考えてみたいと思います。



 まりねこ氏の記事にあるやりとりを見ると、「恋愛相手に受け入れられることで、自分の性別を素直に肯定できるようになった」という構図になっています。これは簡単に言うと「他人に承認してもらって自己承認を得る」ということです。
 一方、watapoco氏のこの記事では、これと正反対のことが述べられています。

私は客観的に見ればブスである。だが男好きする容姿なのか、今まで付き合った男の人は「顔から入った(要するに顔を気に入って好きになった)」という人が多い。
彼らは「かわいい」「かわいい」と連呼する。下手をすると人の顔をうっとり見つめてくる。これが私の精神をひどく揺さぶった。とても「信じられない」のである。認めてもらうのは嬉しいが、頓珍漢な、そして過大な認められ方をされているようにしか思えないのである。
(中略)
要するに、人間はいくら他人に承認して貰っても、自分で承認出来ているレベルでしかそれを受け取れないのだと思う。彼氏が出来ようが、彼女が出来ようが、それってあんまり変わらないんじゃないかな。

 これはどちらが正しいというわけではなく、各人の自己承認のタイプの問題でしょう。そして、両者は実はそれほど隔たっているわけではありません。どちらにしろ「自力で自己承認」できていないことには変わりがなく、他者からの承認を受容するかしないかの違いでしかないからです。
 ただ、「恋愛相手に受け入れられる」ことを前提とする自己承認には、大きなリスクが伴います。もし恋愛相手に受け入れてもらえなくなったら、その時点で自己承認が難しくなってしまうんですね。

 これがまりねこ氏が吐露している「さみしさ」へと繋がっていくんです。恋愛相手に受容されることによって自己承認する人は、「私だけを」見つめて、「私に」語りかけて、「私を」抱きしめて貰わなければ自分を支えられなくなってしまう(=さみしさに耐えられない)んですよ。
 そしてこれこそが「恋愛至上主義」の正体でもあります。「クリスマスに独りで過ごすのは耐えられない」人とは、このような「さみしさ」を常に抱え込んでいる人に他なりません。彼らは自分の性を承認するために常に他者を必要とします。「自分の性別や肉体」を肯定するために他者に依存するわけです。

 ここまで述べれば、「恋愛至上主義」が「セクシャルアイデンティティの不一致」を抱えた人達の陰画であることが理解できるでしょう。両者の違いは、他者に依存することでアイデンティティを一致させようとするか、それとも不一致を不一致として背負い込むか、それだけの違いであるわけです。

 「やおい」や「二次元」もまた、「アイデンティティの不一致」を抱えながら現実と折り合いを付け、さみしさに耐えていくための知恵の一つなのかもしれません。



 最後に「非モテ」のことについて少し。

 「非モテ」とは「自分の性別や肉体」を肯定できない人達の部分集合です。そして、私が彼らに対して言いたいことは、要は「不一致を不一致として背負い込んで生きろ」ということなんですよ。他者に依存して「さみしさ」から目をそらして生きるよりは、他者に受け入れられない自分の「さみしさ」に耐えていくことの方が、「自力で自己承認する」ことにより近付けるのではないでしょうか?

 「自分の性別や肉体」を誰かに与えられたままの形で肯定しなくたっていいんです。それら自体は動かすことのできない現実ですが、そこに貼り付けられた無数の「意味」や「価値」は、自分に合うように作り変えていくことも出来るんですから。